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連載小説 【 THE・新聞配達員 】 その57


57.   アナグラという無限に広がる世界へ



やばい。ビールが進みすぎた。
飲みすぎたようだ。
すごく眠たいのに、もうそろそろ朝刊を配りに行く時間だ。
やってしまった。
ここはさっさと配ってしまって速攻で寝よう。



助かった。今日は祝日だ。
夕刊がない。
朝刊さえ配り切ってしまえば、たっぷりと寝ることが出来る。


『一人作戦会議』が盛り上がりすぎたんだ。



祝日で助かった。
この後たっぷりと寝られると思ったら
なんとか体が動いた。
秋分の日に感謝だ。


9月も、もう23日か。
23日ってなんかあったような・・・



23日!



しまった!
佐久間さんの家に集金に行く日ではないか!
佐久間さんのアレを思い出して胃から酸っぱい何かがこみ上げてきた。



まあ夜行けばいいのだから
とにかく早く新聞を配って寝よう。
私はまだ時間ではないが早めにお店に行き
作業台の上に体を横たえて新聞を待つことにした。




新聞を配達するために生まれてきたような私の体。
体が勝手に仕事をしてくれたようだ。
記憶がすっかり飛んでしまっている。




気がつけば私はちゃんと布団の中で寝ていた。



起きたら窓の外が暗かったので
時間がよくわからない。
ぼーっと天井を見ながら考えた。


ん?
ま、まさか!
私は急に上半身だけを起こした。
もう朝刊の時間ではないだろうな?
まさかそこまでは、いってないだろうな!
焦って時計を見た。



『6時』!
暗くて見えにくいが、どっちかの針が『 6 』を指している。
朝の6時か?夜の6時か?
まさか朝刊を寝過ごしたわけではないだろうな?



テレビをつけた。
安心した。大丈夫だった。
ちゃんと夜の6時だった。


そろそろ
裏佐久間邸へ行かなければならない。
前回の分の新聞代ももらわないといけない。
覚えてくれているだろうか?



あの『裏佐久間0-72事件』からも、
配達には毎日佐久間さんの家には行くが
佐久間さんとは全く会っていない。



前はよく夕刊の配達時に声をかけられたものだ。
そして頼まれごとをされたもんだ。



倒れたか?
病気か?
ボケたか?



いや、病気や怪我なら
お店に連絡がくるはずである。
新聞の配達を一時休止するという連絡が。
それがないということはピンピンしているか、
それともビンビンしているか。
どちらにしても元気であろう。




さて行くとするか。
起きて歯を磨いてお店に行った。



お店の中は真っ暗な上に優子さんが居ないのだから
魅力もほとんど無いに等しい。



誰か居るのだろうか?



「すいませーん!真田ですけどー!」


「はいはい・・・」



所長さんがお出ましになられた。
デカい!
すぐるさんよりは小さいが風格が違う。
より大きく見えてしまうのだ。




「さなだくんか。どうした?」




「あのう、集金に行かないといけないんですけど・・・」




「ほう、そうか。何区だったかな?さなだくんは・・えーっと。」



「6区です。」



「6区ね。ちょっと待っててくれるかな。
集金カバンを取って来るからね。」



「はい。」




んー。遅いぞ。
私は作業台の上に座った。
無造作に6区と書き殴られた紙が上に乗ったチラシが目に入った。
あ、そうだ!明日のチラシの準備をしてないぞ。
ちょうどよかった。
これを整えながら待つことにしよう。



「おまたせ、さなだくん。」


所長さんが集金カバンを持って来てくれた。



「今日はまだ23日だけど、何件くらい集金に行くのかね?」




「あ、一件だけです。佐久間さんの家です。」



「そうかそうか。では遅くはならないね。」



「はい。飛んで帰ってきます。」



「そうかそうか。
もうすっかり暗いから気を付けて行くんだよ。」



「はい。行ってきます。」



「はい。いってらっしゃい。」



これで絶対早く帰って来なければならないのだと
自分に言い聞かせた。


佐久間さんの家に着いた。
呼び鈴を押した。

「ん、真田か。入れ。」




前みたいに大きい声ではなかったが
芯のある通った声だ。元気そうだ。
でも声に私への関心がほとんど含まれていないと言ってよかった。
そんな声のトーン。




私はまるで初めての時みたいに慎重に玄関に入った。



「失礼しまーす!」


玄関で靴をはいたままで突っ立っていたら
佐久間さんが玄関にやってきた。



普通だった。なにか考え事をしているようだ。
心ここに在らずというやつだ。
私のことはすっかり特別ではなくなったのだ。
良かった良かった。集金したらすぐに帰ろう。



佐久間さんと目が合った。



「なにをしてる?まあ上がっていけ!飯は食ったか?まだシャルマんさんのカレーが残ってるぞ。冷凍してとってあるからな。食っていくか?」



おろろ?
急に佐久間さんの調子がいつも通りに戻った。
強い口調なのに内容が優しくて温かいやつだ。



私は優子さんのご飯を食べていないから
シャルマンさんのカレーがたまらなく食べたい。
口が勝手に喋りはじめる。


「は、はい!いただきます!」


「おーそうか。今日はめずらしく素直だな。
そういえば先月の新聞代をおまえは持って行かなかったじゃないか?
先に金をしまえ。」


そう言って玄関の下駄箱の上に置いてあった封筒を上から手でポンと叩いた。



どうやら先月のことを覚えているようだ。


「それでは失礼します。」



封筒を持ち上げて中身を確認した。
千円札が8枚入っている。
さすがは佐久間さん。
ちょうどではないが1万円札でもない。
ちょうど間。ちょうど良い距離感。



気を使ってくれているのが分かるが、
使われすぎてかえって迷惑ということもない。



これで新聞代金2ヶ月分をもらえた。安心した。



「あ、はい。古新聞を入れる袋です。」



「おう、いただいておこう。では入れ。」



台所のテーブルに座った。
ほのかな黄色い間接照明でウッディーな焦げ茶色の家具や壁や引き出しがつやつやして見える。
ピアノも楽器屋さんに置いてあるよりも魅力的に見える。
さすが建築士の住む家だ。
改めて冷静に見ると魅力的な家だ。



「なにをそんなにキョロキョロと見ている?
なにか変わったか?それとも忘れたのか?」


「い、いえ、改めて素敵な空間だなーと思いまして・・・・」



「ほう、さすがは音楽家を目指しているだけはあるな。
良いセンスだ。だがな・・・・」


「だが?」


「まともなやつは芸術では成功せん。非常識なやつが成功するんだ。」


「・・・・」


「ノーマルではダメだ。アブノーマルでないといけない。」




嫌な予感がしてきた。
ぜったいに台所からは離れないぞ!



「私のアトリエを見せてやろう。」


「アトリエ?」


「そうだ、アトリエだ。私のかつての仕事場だ。」



そう言って佐久間さんは2階に上がる階段の方へと歩いた。
上の階には上がったことがない。
付いていく私。


2階の階段を上がった。
まっすぐではない階段。
ひらがなの「つ」のように曲がって上に向かっている階段。
その曲がり角付近で私はびっくりした。



「うお、なんだこれ!すげー!」
わたしは驚嘆した。


階段を曲がった瞬間に階段の手すりの下の部分と壁が彫刻のように掘られた作品のようになっていた。


「うわぁ」
私はそう言いながら、きっと口を開けたままで階段を踏み外さないようにゆっくりと登っていった。



階段の一番上を見上げた。明かりがついている。
あれ?階段がいったん平たくなっている。
踊り場と呼ぶべきか。
その平たい部分まで来た。


なんと!階段の左側にも右側にもちょっとした空間がある。
秘密の部屋みたいだ。
そして右側の空間にはものすごい数の絵画が置いてあった。
後ろにいる佐久間さんが言った。



「そこが中2階だな。私のアトリエだ。ちゃんとした空間ではないアナグラが好きなんだ。そこでしか発想は湧かん。広々とした空間ではアイデアは湧かないんだ。」


「なんか分かる気がします。」



「そうだ。混沌とした空間でアイデアがごちゃごちゃと閉じ込められて初めて爆発が生じる。だから1階と2階の間にこの部屋を作った。」



どうやってこんな空間が作れるのか分からない。
でも台所の上であることには違いない。
まるで忍者のからくり屋敷のようだ。


「階段の途中だが、私はここを2階と呼んでいる。階段を登りきったら3階だ。」


左側の空間の、
ごちゃごちゃとした色んな紙が散らばったアトリエで興奮している私を置いて階段を登り出した佐久間さん。



佐久間さんが階段に居ないことに気が付いて、
私はアナグラ空間から顔を出して階段の上を見た。
佐久間さんがすっかり階段の一番上に居る。



見失う気がした。
家の中で迷子になるかもしれない気がするなんて。
なんて家だ。


階段を登った。3階だ。


広い!
そして明るい!



木の色が濃い茶色から明るい黄色のような木の色に変わった。
そして洋風だった家が急に和風になった。
まるで旅館のようだ。


階段を登りきった廊下は広いフローリングで出来ているのに、
その奥の部屋は完全に畳の和室だった。



佐久間さんが中に入って電気をつけてくれた。



天井が高い!
何帖あるんだ!
部屋の奥のふすまを開けたらまた部屋だった。
つまり大きな部屋を襖で区切ることが出来るのだ。
一階のあの部分の広さをすべてくっ付けて一部屋になる。
お城の殿様になった気分だ。



その時、天井でカタカタと物音がした。
わたしたちは上を見上げた。
佐久間さんが言った。



「ねずみか。最近多いな。増えたかな?」



なんだねずみか。
わたしはもしかしたら屋根裏部屋まであるのかと思って期待してしまった。
しかも誰か居るのかもしれないと思ってしまった。
だいぶ頭が変になって来たようだ。


この広さは贅沢だ。
いや贅沢を味わえるように、わざと広さを感じさせる作りにしたようだ。
私の下宿部屋の2倍天井が高くて、7倍くらい広かった。



「昔はよくゲストが寝泊まりしたものだ。布団もたくさんあるぞ。」



押入れの襖を開けながら言う佐久間さん。



「今は、たまに孫が来て・・・そうだ!
そうだった。お前にはまだ言ってなかったな。
その孫のピアノ発表会があるんだが・・・」


「あ、お孫さんの。確か小学生くらいの。」


「そうだ。おい真田。そのピアノ発表会を観に来い。」



「え!佐久間さんのお孫さんのピアノ発表会に僕が・・ですか?」



「そうだ。いや、孫だけじゃないんだ。実は私も演奏することになったんだ。」


「へえー!佐久間さんもピアノを披露するんですか!すごいですね!」



「うぬ。今、猛練習しているところだ。もう毎日練習している。
もうそのことしか考えられん。なんだ?さっきから上を見上げて。
お前も出たいのか?そうか。手続きならまだ間に合うぞ。言っておこうか?」



「いえいえ!ピアノはちょっと・・・茶色の小瓶くらいしか弾けないですし・・」



「おー。よく知ってるな。
孫が演る曲が確かその『茶色の小瓶』とかいう曲だ。」



「へえ〜、偶然ですねー。僕も小学校一年生の時に・・・」



話しながら私たちは歩いていた。
電気を消して階段を下りながら話す佐久間さん。
後から付いていく私。
ちゃんとカレーのほうへと体は向かっている。
芸術から目が覚めて、現実へと移動した。



「まあいつでも泊まれるから泊まりたかったら来い。」


「はい。ありがとうございます。」



私はもし学校を途中で辞めされられたり、
その瞬間お店から追い出されたりして、
しかもカナダにも行けなくなった時の避難場所を確保した。



ここでベートーヴェンのように狂う人生も
あるのかもしれないと想像してみた。


カレーという現実を食べながら
赤ワインという芸術を飲み干す。


すごく狭い世界の中で生きるほうが、
すごく広い想像が出来るのかもしれない。


自分を突き詰めて突き詰めて
想像しまくって出てきたアイデアが
私から飛び出して広い世界へと旅立つ。

でも私の体は、このアナグラの中。


そんな生き方はどうだろうか?


芸術ってなんなんだろうか。
佐久間さんならたっぷりと教えてくれるかもしれない。
自分のアイデアで生きてきた人が
今ここ私の目の前に居る。
こんなチャンスはない。


二人で過ごす日々か。


・・・・
・・・・
・・・・



ダメだ。
きっと頭がおかしくなるに違いない。



おかしくなったほうがいいのかもしれないと
この家に居たら思ってしまう。



(なってしまえ!
いってしまえ!
おかしくなってしまえ!
いかれてしまえ!)



そんな声が心から聞こえてくる。
いや、この家の壁の彫刻からから聞こえるのかもしれない。


牛乳を飲みすぎた時に出てくる便の色が目に入った。
集金カバンだ。


「し、しまった!所長さんが待ってたんだった!」


「ん?どうした?まだ仕事中だったのか?
またあの新聞屋の姉さんが来てしまうではないか!」


「はい!いや、今日は来な・・・・あー、お店に戻ります!」



「そうだな!また話そう。そうだ。これがピアノ発表会の案内だ。
持って行け。」


「わかりました!では失礼します!」


「うむ。」


私は夢から覚めたように外に出て
自転車に乗った。


ちゃんと現実は待ってくれていたようだった。


〜つづく〜

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