受取人のいない手紙を預かる「漂流郵便局」:人の深層心理を洞察して隠れたニーズを掬い上げる
瀬戸内海に粟島という小さな島があります。この島に、受取人のいない郵便を預かる不思議な郵便局があります。その名も「漂流郵便局」。アーティストの久保田沙耶さんが、2013年に、瀬戸内国際芸術祭での作品として制作したものです。
受取人のいない手紙を預かる郵便局
受取人のいない手紙とは、例えば、お子さんを亡くしてしまったお母さんが、亡くなったお子さんに向けて書いた手紙や、10年後の自分に書いた手紙などです。通常の郵便配達では、このような受取人のいない手紙は配達してくれません。しかし、「漂流郵便局留め、いつかの、どこかの、だれか宛」として投函すると、この粟島の漂流郵便局に届き保管してくれます。
人は、亡くなってしまった子供に宛てた手紙や、未来の自分への手紙を書きたくなることがあります。実際に書いて引き出しにしまっておくのと、ポストに投函するのとでは、心理的に大きく異なります。ポストに投函したら、もしかしたら天国の子供のところに届いて読んでくれるかもしれない、10年後の自分のもとに配達されるかもしれないという希望がわいてきます。
アーティストの久保田沙耶さんは、どのようにして「漂流郵便局」を制作するに至ったかをみてみましょう。
粟島のリサーチから生まれた漂流郵便局
2013年の瀬戸内国際芸術祭で、久保田さんは、粟島で展示をしてほしいと依頼を受けました。実際に島に赴き、どのような島なのかをリサーチしていました。そして海岸にたくさんの漂流物が漂着していることを発見しました。海流の関係で、この島にはいろいろなものが漂着するのです。
次に、使われていない旧粟島郵便局を発見しました。鍵がかかっておらず中に入ると、窓口のガラスに自分の姿が映っていました。自分も漂流物のようにこの島に流れ着いたように感じたと言います。
毎日波打ち際を歩いていると、興味をもってリサーチしていた伊能忠敬を思い出しました。地図は、書店で売れられている時点ではだれにも属さない情報体です。しかし、購入して、自分が旅行を予定しているルートを線を引いたり、自分が発見した場所を記載したりすると、自分だけのものになります。この地図の性質を、郵便局で扱う手紙に応用できないかと思考を飛躍させました。
隠れたニーズを掬い上げた漂流郵便局
実際に、受取人のいない手紙を預かるアートプロジェクトを始めてみると、次々と手紙が送られてきます。瀬戸内国際芸術祭の会期は1か月でしたが、その間に400通の手紙が届きました。これはとても意義のあることと気づき、芸術祭が終わっても手紙を預かることを続けました。
2013年に始めてから2020年までで、40,000通もの手紙が届きました。届いた手紙のあまりの重さで、郵便局の床が抜けてしまったこともあるそうです。海外からも届くようになりました。
漂流郵便局はアートプロジェクトではありますが、郵政省が扱わないサービスを提供して新市場を拓いたとみることができます。漂流郵便局が新市場を拓いたポイントを「アート思考」の観点から整理してみましょう。
「アート思考」に重要な飛躍力・突破力・共感力
「アート思考」は、自らの興味・関心を起点に常識に囚われない斬新なコンセプトを創出する思考のことです。「アート思考」で斬新なコンセプトを考え、新しい物事を創り出すために必要となる力が3つあります。飛躍力、突破力、共感力です。
飛躍力は、リサーチによって集めたことから、論理的思考を超えた発想をする力のことです。今回の場合は、島のリサーチと地図から「だれのものでもあって、だれのものでもない手紙」と発想したところにあります。
突破力は、コンセプトをカタチにするうえで壁にぶちあたることがあっても、なんとか乗り越えていく力のことです。
共感力は、提示したコンセプトに共感してもらって、周りの人たちを巻き込む力、あるいは、新しく創出した物事のファンを作る力です。漂流郵便局は、共感力が発揮された事例ということができます。特に漂流郵便局を続けてこられたのは、局長をやっている中田勝久氏の力が大きいのです。中田氏は、粟島郵便局を17年勤め、芸術祭が終わった後も続けるべきと言い出し、運営を引き受けてくれました。
コンセプトに共感してくれる人が現れると、そのプロジェクトは自然と発展していくのです。