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脱学校的人間(新編集版)〈80〉

 本来的であろうと生来的であろうと、価値であるという限りは「他の物」と対置かつ比較され、そこに生じた「差」にもとづいてはじめて、「その物」には価値があるということが表されるのでなければならない。自身のみにて自身の価値を語ることなど、いかなるものにもけっしてできないことなのである。「価値とは社会的である」というのは、要するにそういうことなのだ。
 しかし、イリッチにはしばしば無邪気に「本来的な価値を相対的なものに対置させて、あるいはそれに対抗させて持ち出してきてしまう」ようなところがある。それで議論がしばしば不十分なものであるように映ってしまったり、話が混乱し誤解を招くことがある。
 たとえば、「ジェンダー、ヴァナキュラー、コンヴィヴィアリティ」といった、彼の打ち出すさまざまなキーコンセプトにしても、それらを「相対的なものに対する本来性」として持ち出してしまうがゆえに、逆に「それに対抗する、それとは別の本来性」がそこに持ち出されて、「それによって相対化され、返り討ちに遭う」という傾向が見えてくるのだ。そういったことは実際、イリッチ自身にも責任のあることではあるのだが、とはいえ議論の本質を見失わせてしまうことにおいて、これはまことに不幸な話である。
 イリッチの思想をめぐる議論においてはそのように、どうしても彼の持ち出す「本来性」に目がいってしまいがちだが、しかしそこで「本来見なければならないもの」というのは、そもそも彼が持ち出してきたのはそういった「本来性への懐疑」あるいは「本来性を成り立たせている構造への懐疑」だったはずなのだ、ということなのである。「ジェンダー、ヴァナキュラー、コンヴィヴィアリティ」もしくは「脱学校」などという彼によるテーゼは、そのような「構造的な問題を正当化することへの根本的懐疑として提示されている」はずのものなのだ。しかしイリッチは、彼自身がそれを「懐疑された意味の正当性」あるいは「懐疑された内容の本来性」の中で語ってしまっている。それが結局「懐疑すること自体の意味」を取り違えさせている。ゆえにそれが、彼の言説をめぐる議論に不幸をもたらしているのである。

 少し話が脱線するが、事のついでだからここで一つ言わせてもらうと、『脱学校の社会』というこの書物の題名からして、そもそもが矛盾といえば矛盾がある。なぜなら、社会とはそもそもが学校的なのだから。ゆえに社会は本質的に脱学校しえないのだ。なぜならそれは要するに、社会の自己否定になってしまうのだから。
 もしそういった矛盾を矛盾としてわかっていた上で、それでもなおかつ『脱学校の社会(Deschooling Society)』と名づけたというのならば、これはこれでまた一つの逆説として、そのような矛盾あるいは不条理さえをも欲求してしまう「学校化=社会的人間の悲哀」を表現しているものである、という受け止めも可能となりうるものかもしれない。しかし、はたしてそこまで考えられていたのかどうか?
 ところでその一方では、「脱学校」という訳語を「非学校化」などというように小手先で言い換えてみせる者があるようなのだが、しかしたとえば「Deconstruction」を「非構築」などとは言わないように、「Deschooling」はやはり「脱学校」なのである(もしどうしてもそれを「非学校化」としたいのであれば、「De-」ではなく「Un-」とされていた場合に対してなされるものであるべきものであったのだろうが、しかしそのように原題まで捏造してしまうというのは、さすがに気が引けることではあったのだろう)。ましてやその語尾が「-ing」になっているのだから、たとえ「非学校化」であろうと「脱学校化」であろうと、それは「〜化」などというような、「そのようになった後の状態・結果」のことを指して言っているものではけっしてないのである(その意味で、イリッチ自身が場面によって「脱学校化(deschooled)」と言っていることもまた一つの矛盾になってもいるわけである)。
 本性上「脱学校」とは、あくまでも「今、現になされていること」について言っているものであるべきなのだ。だからこの書物の題を訳すにおいて、せめてそもそもの最初に『脱学校する社会』とでもしておくべきではあったのだろう。無論、この語の示す意味もやはりそれなりに矛盾なのであり、不条理ではあるわけなのだが。

〈つづく〉


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