可能なるコモンウェルス〈53〉

 移民開始当初から新世界アメリカにおいて培われてきた、「自由であるがゆえに平等な、個人相互による無支配の盟約=社会契約」が、当のアメリカ社会そのものの形態が次第に定まってきたのにつれて、あたかもそれに反動するかのように形骸化されつつあった。そのことへの危機感を他の誰よりも強く意識していたのが、独立革命=建国事業の主要メンバーであり、後には合州国第三代大統領にまでなったトマス・ジェファーソンその人なのであった。
「…タウンシップにあった、多数決原理を認めない直接民主主義は、独立革命以後、中央集権と代理制民主主義の下で消滅した。特にそのことに共和制の危機を感じたのがジェファーソンであった。…」(※1)
 ジェファーソンは、彼自身の深く関わっていたアメリカ独立革命が達成され、かつ新国家建国の事業が紆余曲折を経ながらも、誰の目にも確かな歩みで進展していくそのプロセスの中で、しかしまさしくその「達成と進展」において、当の革命と建国の意味がむしろ遠ざかっていってしまっていることに、根本的な「危機」を見出していた。彼には、次第に「アメリカが出来上がっていく」につれて、むしろそのことによって当の「アメリカが離れていく」ようにさえ思えた。アメリカが「国家としての形態=体裁」を次第に整えていくそのさなかにおいて、ジェファーソンは考えた。無論、統治や外交などを考えれば「アメリカを一つの国家としてまとめること」には一定の意義はあるとしても、それは入植当時からの「自治と自由の経験」から、かけ離れてしまうことになるのではないだろうか?と。

 ジェファーソンの抱いていた懸念を、アレントは次のように代弁している。
「…州政府や郡の行政機構でさえ、あまりに大きすぎて扱いにくいため直接参加は不可能であった。このような制度では、公的領域を構成するのは人民自身ではなく人民の代表者たちであった。…」(※2)
「…積極的な意味で自由の活動であるような、『表明し、議論し、決定する』活動にたずさわる機会をえたのは、人民自身ではなくて、ただ人民の代表者だけだった。…」(※3)
「…彼らに代表権をゆだねてはいるが、理論的には、権力の源泉であり所在である人びと《人民自身》は、ずっとドアから閉めだされたままだった。…」(※4)
 アメリカ人民相互の政治的関係を、アメリカという「国家」、あるいはたとえそれよりも小さいとはいえ、それでもなお一定の規模を持った「州や郡」を前提ないし念頭に考えれば、それを「自らの意見を積極的に表明し、議論し、決定する活動の空間としての、公的領域」というように位置づけて、それに自らの意志と主体性をもって関わっていこうとするのだとしたら、しかし一人一人の人民「個人」にとってそれはたしかに、「あまりに大きすぎる」ものだと思われた。入植当時はただ、目の前に生じたその都度現実的な諸課題に対応する「ためだけの」関係性であった「政治」が、革命と建国の過程を経て、「はじめから一定の規模をもって」目の前にあらわれ、はじめから一定の「統治の形態と体裁を設えて」考えられるものとなっていたのであった。

 一方で、ジェファーソンの「危機意識」は、「自国の問題における彼自身の役割と革命の結果から考えてみると、明らかにあとから生まれた考えであった」(※5)とアレントは言っている。つまりジェファーソンの抱いていた「危機感」とは、革命と建国という「結果の後において見出されたもの」であったというわけである。転じて言うとそれ自体がすでに「かつてあったものの形骸化」として、あるいは「喪失」として見出されたものだった、ということになる。とするとジェファーソンの、その胸のざわつきは、あくまで失われたものに対する「追憶」にすぎなかったのだろうか?
 しかし当のジェファーソンは、「革命は達成された」とはけっして考えていなかったのであった。彼にとって「革命」とは、「アメリカという国家の、その建国をもって結果とする」ようなものではなかった。彼はそれを「アメリカを作り上げてきたものの、その現にある経験の中で継続されるべきもの」と考えていた。
 しかし一方でそれは、「理念として考えられているもの」でもなかった。つまり「達成されるべきもの」として考えられていたものでもなかったわけであった。ジェファーソンの考える「革命」とはあくまでも、「現にある経験から出発している」ものであり、またそのような「現にある経験の中に生きられているもの」として考えられていたのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 柄谷行人「哲学の起源」
※2 アレント「革命について」志水速雄訳
※3 アレント「革命について」志水速雄訳
※4 アレント「革命について」志水速雄訳
※5 アレント「革命について」

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