可能なるコモンウェルス〈2〉

 国民・人民主権の原理にもとづく、その「主権国家」とは、言うまでもなくいかなる他国からの一方的な干渉をも一切受けない限りで、「その国家の内部」においてはその主権者が、独占的かつ完全な主権を有するものとなる。ゆえに「国家は何よりもまず、他の国家に対して国家として存在するものである」(※1)と考えることもできるわけだが、だとするならばその国家の内部において完全な主権を有する者=主権者は、逆に言うと「他の国家」について何らの主権も有しないということが明白でなければならない、ということでもある。
 たしかにこの国家の主権は「この国家の主権者」が独占的に有することとなる、だが一方で他の国家の主権はその「他の国家の主権者」の独占事項となるのである。そのことについては互いに干渉するようなことはけっして許されないし許さない、これが主権国家の大前提である。
 あらためて言うと、この国家の主権とはまず第一に、「他の国家によるあらゆる影響・干渉から守られている限りの主権」であり、この国家の主権者であることの「目的」とは何よりもまず、「他の国家=主権からこの主権を守る」ということでなければならない。この目的において主権者は、この国家の主権に対する他の国家=主権のいかなる影響・干渉をも、その全権力権能をもって排除し防がなければならない、というわけなのである。
 繰り返すと、他の国家に対して存在するものとして設定されているのが「この国家」であり、当の「この国家の主権者」は、その全権力をもって他国家の力による影響から「この国家の主権」を守らなければならないのである。そこで「この国家の主権者」とは、同時にこの国家の「守護者」としてイメージされるところとなるわけだ。そしてこの「国家守護者」というイメージこそ、かつては絶対王権の君主に対して付与されていたものなのであり、それがまた国民主権の国家においてもなお、「主権者と呼ばれる者」に対しては、全面的に引き継がれているはずのものなのである。

 ハンナ・アレントは、ジャン=ジャック・ルソーが主権者としての国民を「一個人のように、一つの意志によって動かされる一つの肉体と考えていた」(※2)ことを指摘し、そのルソーの思想にもとづいて成し遂げられた、フランス大革命に端を発する人民主権の観念において、一般に国民とは「複数の人間から成るのではなく、あたかも実際に一人の人間から成るように」(※3)考えられるところとなり、かつそのように扱われるようになったのだ、としている。
 しかしすでに上記にあるように、むしろ「主権者」とはまさしくそもそもから、そのように「ただ一人の者」を想定し、なおかつそれを指すものなのであり、逆に主権もしくは主権者が「一つの国家の中に複数ある」などということはけっしてあってはならず、また考えられることさえならないものなのである。主権とはあくまでも「その国家においてはただ一つのみ」なのであり、主権者は「その国家においてただ一人だけ」である必要がある。ゆえに主権者であるところの国民が、「あたかも一人の人間であるかのように振る舞う」必要があるのは、全く必然的な話なのである。
 その国家の国民の、「その個々の一人一人」がたとえそれぞれ「誰」であろうと、「他国」から見れば「その国の国民として、ただ一つのイメージを取り結ぶ」ものなのである。だからもしも「国家は他の国家に対して国家である」のだとするならば、その国家の主権者とは何をおいてもまず、他の国家に対しては常に「主権者としてただ一人のみ」である必要があるわけなのだ。その当の主権者が、はたして「国民」であるのか、あるいは「絶対君主」であるのかは、あくまで「その国家の内部の問題」なのである。つまり「誰が主権を代表するのか?」という問題は、「主権の意味そのもの」を変えるものでは全くないわけであり、主権とはすなわち、その意味するところとしてはあくまでも「国家の主権」のことである、というわけなのだ。
 だから、人民・国民主権が「絶対君主の主権意志の理論的置き換えであった」(※4)という見方は、その意味で全く正当なのである。絶対君主が「ただ一人で主権者であった」のと同じように、国民は国民主権の主権者として「ただ一人であるべき」なのだと言える。守護者の権威なるものとはそのように、「ただ一人で担ってこそ」の権威になるはずであろう。

〈つづく〉

◎引用・参照
(一部、筆者による文章の要約もしくは変更あり。以下同)
※1 柄谷行人「世界共和国へ」
※2 アレント「革命について」
※3 アレント「革命について」
※4 アレント「革命について」

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