可能なるコモンウェルス〈9〉

 アレントの考えによれば、権力の発生には「他者との共生」が不可欠の条件になるのだが、しかし実のところこのような「他者」とは、けっして互いに「一体化することができない」という意味においても「他者」なのである。
 そのような、けっして一体化しえない「他者」との共生は、必ずしもそこで人間同士互いに「集団となること」を要求しないし、むしろそれは不可能なことであるという、一種の逆説を孕んで成り立っている。それはまず、「権力の限界」を画定するのがまさしくそういった他者の存在であるということである。そして、けっして一体化しえない他者との共生が「権力の発生」を条件づける不可欠の要因であるとするならば、そのように「条件づけられたもの以外についての自由」を担保するのもまた、そういった他者の存在であるということ、上記のような「条件」にもとづいて成り立っているものと考えうるからである。要するにここでは、「権力の限界」を画定し、「それ以外の自由」を担保しているという、けっして一体化しえない他者の存在が、たとえいかに権力の発生を条件づけるものだとしても、逆にその存在が権力の「無際限な拡大」を防いでいる、ということになっているはずなのだ。
 一方で「支配−被支配」の関係構造は、そこに最初から必ず「集団」が要求されることとなる。それは、個々の人間の個別的な生の様相が最初から捨象されているかのような、「最初から一体化した人間集団」が要求されている、ということである。そしてそのような集団には、「最初から他者が存在していないし、また存在することが不可能」なのである。そして言うまでもなく、このような「集団」においては、権力に限界はなく無際限に拡大しうるものと見なされている。なぜなら、この「集団の内部」には他者が存在していないのだから、その権力が集団の「内部で発生し、内部において行使される」ということはなく、ただひたすらに「外部に向けて」発せられるばかりとなるはずだからである。

 ところで、「最初から一体化している、支配−被支配構造の人間集団」の中では、「支配者」とはむしろ、自らの支配の「最初の被支配者」だと言えるかもしれない。
 なぜそうなるのか?
 柄谷行人は、「権力とは一定の共同規範を通して、他人を自分の意志に従わせる力である」(※1)と言っている。とすると、支配−被支配的関係構造においては、権力者=支配者が「一方的に」他人=被支配者を自分に従属させる、それが「権力」だ、ということになるのだろうし、権力なるものへの一般的な認識も大体そんなようなものであろう。
 しかしここで注意しておきたいのが、言われているような「一定の共同規範」ということについてである。
 規範なるものがもし、たしかに一定の人間集団において「共同的に成立しているもの」だということになるのならば、それはあくまでも、その一定の人間集団における「関係構造の内部においてのみ成立している共同性」だというように考えることができる。そういった「共同性」というのは、ただ単にどちらかがどちらかを組み伏せるように従わせるような、「一方的なもの」として成立しているわけではなくて、むしろ「その規範に被支配者が従うならば、その規範に支配者もまた同時に従っている」というような意味での「共同性」にもとづいて成り立っているのだと考えるべきものなのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 柄谷行人「世界史の構造」

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