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Shirokane流自己紹介(その3)

前回の記事

さて、今回こそ真面目に書きます。
真面目すぎて一気に読者を引き離そうと(笑)
そう、共感覚とかいう得体の知れない物の話でしたね。
Shirokaneが考える共感覚とは。

Shirokaneは全ての感覚というものはそもそも本質的に共感覚であって、人は皆、誰しも共感覚を感じ取ることができると考えています。
例えば物事を感じとる時、味でも色でも音でも手触りでも、その感触の後ろに何かよぎることが誰でも一度はあると思います。
目をつぶって音楽を聴くと情景が浮かんだり、絵画を長いこと眺めていると手触りを感じたり、食材の彩りに味を感じたり、単なる物音でも閉じられた静かな空間で繰り返し聴けば、何かの歯ごたえだったり、瞼の裏に色を感じたりします。例え感じない人でも時間をかければ必ず何かしら感じるようになります。

我々は、日常を慌ただしく過ごしているため、何かを深く感じ取るにはあまりにも身体的な時間尺が短くなっていて、 常日頃過剰な量の情報に曝されているので、感覚が全てを拾ってしまわぬよう潜在的に持っている受容体の一部を閉じてしまっているのです。そのリミッターを時間をかけてゆっくり解せば、誰しも何かしらの共感覚的な物を感じ取ることが出来るはずなのです。
怪しいスピリチュアル系の瞑想話ではなくてね。

そこでShirokaneは、何かを感じた時にその主体の後ろをふっとよぎるものは何なのだろう?と。
それを注意深く観察すると、そこに何かあらゆる感覚が混ざりあった、未分化の得体の知れない空(くう)のような混沌が見え隠れしてくるのです。
その空(くう)のような気配のような淡い何かはたくさんの方向に感触が延びていて、人は何かを感じ取るとき、その中の一番濃度の濃い核の部分を拾い上げて、色とか味とか音などを感じているのではないだろうか、とShirokaneは思うのです。ちょっと何言ってるか訳が分からないですね、いえ何も吸ったり注射したりしてないっす(笑)

実はこういう感触は子供のころから持っていて、Shirokaneは子供のころ一人遊びの好きな大人しい子供でした。遊びながら外の世界と触れ合っていると、物や事象の周りに言葉に出来ない割り切れない感触、常に変化するモヤモヤした気配みたいな物があり、その霧状のモヤモヤは成長過程で道理を覚えていくにつれ、ぶつ切りにされて薄らいでいくような感じがしていました。
Shirokaneは「文字に色が付いている」とか「音を聴くと色が見える」みたいな生理レベルの共感覚者ではないですが、実はダンサーで共感覚者でもある広報担当のKaoさんに後々出会って話を聞くと、子供の時に似たような感触があったと。

そこで思うのですが、 これはShirokaneが勝手に感じていた事なのではなくて、言葉や物事を覚える前に、誰しもが感じていた潜在的に持っている感覚なのではないかと。もしくは未開社会の住人が言葉などではなく、外の世界を未分化なまま認知する時に感じるものではないのだろうかと思うのです。(そういう感触がアニミズムや神話を産んだのではないだろうか?)
子供のころ、この常に移ろいでゆく名も無い集合体で世界を推し量っていた私Shirokaneにとって、物の名前や意味といった観念は、物事の時間経過に即した変化を止めて、適当なところでぶつ切りにしているようで、(ちょっと例えが違うけど、ヨーロッパによるアフリカ文化圏や民族を無視した国境線みたいな…。)そのぶつ切りの断片を前提に論理的に考えを組み立てることが少し苦手でした。

いまいちその区分の根拠が分からなかったり、自分の中でひと繋がりものを分けて考えなくてはいけなかったり、時間と共に変化していくものに同じ名称がついていたりetc…。

(photo by 大洞博靖)

そんなわけで小学校低学年のころは、授業でも設問の意味が良く分からなかったり、斜めに独自解釈して珍回答をしたり、とにかく成績はあまり良くなかったですね。
というとなんか特殊能力を持った天才児みたいな言い訳に聞こえますが、実際は自閉症やアスペルガーほど特殊な子供ではなかったので、半分近くは勉強を始めても身の回りの物ですぐ遊んじゃったのが原因やな(笑)

そんなこんなで変わり者の大人になったShirokaneは考えるのです。この何かモヤモヤした複層世界を感じとる身体感覚と社会との齟齬はどこから生まれるのだろう?なぜ自分の感じていることと、社会のあり方に親和性の無さやら違和感を感じるのだろう。
その原因を考えたときに、Shirokane自身の超懐疑的な性格と長~い人類史との間に答えがあるような気がするのです。なんか壮大でしょ(笑)?

つまり先に結論を言うと、人類が長い時間をかけて獲得した今日の生活様式は、現代人の物事の認知や思考方法と相互に密接に関わっていて、幼少の頃からその一つ一つを疑っては独自解釈を選んできた自分のそれとはそぐわないということ。
思い出せば子供のころは「なんで空は青いん?なんで青は青なん?なんでこれはあれで、あれはそれなん?なあ、なんでなんで?」と答えようのない疑問の多い子供だったような気がする。

こんな感じで逐一社会通念から抽象概念まで、ありとあらゆる物事の前提を疑いながら天の邪鬼に成長した結果、結局は答えの無い共感覚みたいなことに目覚めるのですが…。
そうしてShirokaneが今日思うのは、この共感覚とかモヤモヤしたカオスみたいな掴みどころのないもの、つまり不定形で不確定性を含んだ物こそが、実は世界を構成して満たしている普遍的なものなのではないだろうか?ということです。
急に話が宇宙レベルになりました。(笑)

なぜならそのカオスのような物って、共感覚のような抽象物だけに留まらずもっと汎用的な現象で、具体的な物で言うと、 その複雑な関係性が均衡を保ちつつ相互作用して変化していく様子が、 感触的に生物多様性にとても類似しているように感じるのです。ミクロで言うと発酵現象とか雑菌の共生系とか。

生物多様性って地球上最も古いシステムで、 数え切れないほどの無数の変数に満ちた 副次的なものの集合体なので、 全体像は決して推し量れない、というか目に見える構造的な物を求める人間の脳みそにとって、とても規則性の見えない理解しがたいものなのです。
そういうあらゆる細かい作用が泡沫のようにザワザワっとしている感触が、Shirokaneにとっては共感覚世界ととても似ている、というかほぼ相似なのですが、こんな舌足らずな説明で分かっていただけるかどうか。

あの「萌えよドラゴン」…じゃなかった「燃えよドラゴン」のブルースリーの言葉みたいな世界ね(笑)「Don't think, feel(考えるな、感じろ!)」
ミニ脱線しましたが、なのでShirokaneにとってはこの諸行無常な何かは、抽象物から具体的な物事まで、世界に満ち溢れた本質的な物というわけなのです。
そして 乱暴な言い方をすると、 人類史とはこの極めて使い勝手の悪い複雑系世界を道具や知識を使って徐々に整理整頓・簡略化していく歴史なのです。

道具は目的を産み、目的は言葉を産む。さらに家を建て、流動的な外界から隔絶していく。特に言葉は特定のコミュニケーションを効率化し、物事に名称がつくことでカオスが晴れ上がり(まるでビッグバン後の宇宙の晴れ上がりのように…。)、それによって予測可能な未来が見通せるようになる。つまり時系列ができる。
人だけが未来という概念を持てる動物になり、それにより行動理念のような物が芽生えてくる。

道具の発達で生活様式や社会が変われば、むろん外界の認知方法も変化します。
ライターで火をつける者と、火打石で火を起こす者では全く見ている世界が違うのです。
石の重さを感じる、石を打ち合わせる、くぐもった音が鳴る、衝撃が手に伝わる、火花が閃光を放つ、 草木の繊維に火を移す、きな臭い匂いがする、煙る、息を吹く、吹く風音が鳴る、火が爆ぜるetc…、この作業の中に、更に湿度だったり石の硬さや重さだったり草木の繊維の質だったり、ありとあらゆるパラメーターの中で五感を刺激されるものが、ライターではシュボッ!で終わってしまうのです。
そういった身体感覚を通した世界観は、ライターを使用した時点から、ライターを使った前提での認知に変わるのです。

良くも悪くも道具や知識は身体感覚や思考法に規格化を産んで、その部分がどうしてもオートメーション化されると言えるでしょう。より構造的な思考になるというか。

そうして人類は長い時間をかけて、生ものに満ちた外界から徐々に距離を置き、 現代ではすっかり細分化・再定義によって記号化されたスーパーイデオロギーなシェルターの中に住んでいる、とひねくれ者のShirokaneは感じるのです。
ちょっとしたバーチャルリアリティーですね。超高性能VRゴーグルをつけて生活している感じ、というか。
映画「マトリックス」はリアルなドキュメンタリーということで。(笑)
(ただ世界は0と1で表すことが出来、近い将来AIが人に取って代わる日が来る、みたいなことを言う人がいますが、そう言う人はこの複雑系を全て数理モデルに変換できると信じているのでしょう。Shirokaneはそれで出せるのは近似値までで、あまりにも細かく無限に無数の作用に満ち溢れた有機的な物の代替にはなりえない、もしくは予兆の無い複雑な変化にAIは対応できないと思うのですが。そしてその近似値の嘘臭さに騙されないように常日頃、複雑系の中に身を置くことが大切だと感じるのです。 )

先進社会と呼ばれているところほど、心の病が多いのはこの辺にあるのじゃないかなとShirokaneは疑っている。
これだけ複雑に記号化された社会で、身体感覚はおろか自分のアイデンティティーさえも記号化された物語の中を生かされている人が、生身の身体との間で迷子になっているのじゃないだろうかと。
たかだかここ数千年で変化した生活様式及びそれに伴う思考方法と、それよりもっと生物的に歴史の長~い有機的な身体とが乖離してしまっている状態なのではないのでしょうか。
だから陶芸で土いじりをしたり、野菜を育てたり、水音を聴いたりと自然と触れることで心の健康を取り戻す人が多いのだと思うのですが。

道具や知識、技術・経験は生きていくうえで必要不可欠な物なのですが、使いようによってはこの生身が元々持っている有機的な豊かさをごっそり削ぎ落としかねないのです。大切なのはそれらはあくまで生身の外部デバイスであって、目的ではないということ。
その削ぎ落とした部分こそ物事の本質的な物が含まれているとShirokaneは思うのですが、この超観念化した社会ではナンセンス(無意味)なジャンクとして扱われるようです。なんかジャンクDNAの話にも通じるような…。
(色んな表現があって然るべきなのですが、個人的にはこの何とも説明のつかない雑味こそが美術でも料理でもダンスでもあらゆる表現において、最も大切な色気だと思うのです。どんなに先鋭的で抽象度の高い表現でも。そういうものがごっそり抜け落ちた物は、目新しくても繰り返しの鑑賞に耐えず、すぐに飽きてしまってShirokaneはあまり興味が持てないのです。)

人が便利な物に憧れて楽をしたいのは、こういう削ぎ落とされてしまいがちな複雑系をちゃんと拾って扱うのは、とても不便で骨が折れるからです。
でもこの面倒くさい作業は不可避、というか何か物事の本質と本気で向き合おうと思ったら、 道具や知識や技術で効率的に処理するのではなく、ある程度不自由な想いをしなければいけない、と昭和生まれのShirokaneは思うのです。別に不条理な根性論ではなくてね。

道具が不便なら、その道具に自分を合わせる。知識が無いなら無いなりに自分を変幻自在に合わせる。
知識や道具で武装した牙城に籠って主観的に高みの見物をするのではなく、リスクを負って 流動的な外の世界に身を投じ、即興でそこに合わす能力を身につける 。
この有機的な世界の一部に自分自身を同化させることが、人生における自己実現だとShirokaneは考えているのです。自分の思い通りにならない、外の流動的な状況に対処する、ということが生きるということと同義なので。

そんなShirokaneにとっては、物づくりや表現とは単なる完成を目指して何か作る行為、というより自己実現をする上でとても有効な手段であり、自分を定義づけている形ある物から解き放たれ、生の(bruteな)自分と向き合える行為なのです。
外の世界に身を委ねて自分なりの自然観を育む。この自然観こそ個人の倫理観のことではないでしょうか。
個と外界との有機的な関わりあい方、均衡の取れた関係性や距離感。

世の中が便利でシンプルになっていくのは一見良いことのようで、それは自分に都合よく記号化されたツールで整地することでもあり、Shirokaneが考える複雑系に自分を合わせる術を学ぶ機会が永遠に奪われるのです。
人生は異種格闘技戦でっせ(笑)

一般的なクリエーター(個人的にとても嫌い単語の一つ)と呼ばれる人達のクリエーションという作業が、自分の目的意識のための単なる材料のシェイプアップ、だとしたらそこにはもはや淡い泡沫のような共感覚世界は削ぎ落とされて消え失せてしまっているでしょう。
表現に携わるとは、起承転結やら体裁は二の次にもっと愚直に自分の声を聞いて、そこを通してこの世界の多様性を担う、森羅万象の通訳みたいなものだとShirokaneは考えているのです。

なんか超壮大な話になってしまって、誰がここまで読むねん!(笑)みたいな感じですが、表現に携わる人達だけでなく、世界をよりよく生きるヒントになればと願っています。
共感覚世界に触れると世界がより鮮やかに感じ、そうして個々の意識が変わればその集合体である社会がもっと住みよいところになる。社会が生物多様性のようにより動的で有機的な機構になることを願いながら。
(Shirokane)

次回からはまた肩の力の抜けたブログに戻ります。というかこんな脳みそが疲れるブログは二度と書かない!

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□Shirokaneの簡単な経歴

□Shirokaneが音楽・舞台装置・監修を行ったダンス作品。何を隠そうダンサーはKaoさん。


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Shirokane Kobo
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