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文章論

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自分の書いたnoteの文章論的なもの
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文章論と凡人についてのまとめ

文章論と凡人についてのまとめ

昨日の記事において、どうでもいい文章が溢れている話はした。それらすべてを読めるならいいが、凡人にそんなことは無理だ。ということは取捨選択しなくてはいけないことになる。ネットにはたくさんの文章が漂っている。それをこれは読まない、これは読むと選ばなければならない。だから大半は駄文なのだから、文章は読まなくてもいいという人が出てくるのもわからないではない。そもそも世の中の流れが、メッセージを読み取るとい

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目は読むには向いていない話

目は読むには向いていない話

文章はその性質上、普遍主義、主知主義、理性主義であることは書いた。そのため現実には人それぞれ充実していても、文章にしたときにはそのいい部分が削ぎ落とされてしまう。話し言葉ならまだいい。というのも語調とか人となりが見える場面で話すからだ。つまり文章はプライベートを表すのに向いていない。

では日記はどうなるのか。確かにだいぶプライベートだ。しかしどうだろう。技術を持たない人の日記はありきたりでいつも

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文章と意見とそれにともなう判断について

文章と意見とそれにともなう判断について

人のいっていることを正しく、つまりよく判断するのは難しい。私たちは自然と平衡を保とうとするので、極端を嫌うし、突飛な意見も嫌う傾向にある。わかるというのは、さまざまなことを自分の持っている知識と結びつける適切に配置することにほかならない。だから極端だったりすると、結びつけるのが難しくなる。

ところで、私たちはどういう意見を取り入れ、どういう意見をそんなよくないとして排除するのだろうか。証明がされ

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誰でも書けることは誰も読まない

誰でも書けることは誰も読まない

そんなに多くの人に共感してほしいわけではないのだが、誰からも読まれないと文章の意味がない。

ということで、どうしたら人は文章を読むのかというのを、ない頭ながら考えている。しかもこうしたことはnoteの書き手がよく考えることであって、要するに、これはよくある文章なのだ。

みな忙しいということを念頭に置くと、こんな文章は読むだけ無駄と思われてもしかたない。しかも人はまとめたいという欲求があるから、

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読むとは——カテゴライズされるべし

読むとは——カテゴライズされるべし

文章を読むとき、それがなぜ書かれたかを問うことは正当であり、意味のあることだ。

その答えが自分の思っていた通りのものだったら、その文章を読むことは意味があるし、そうでないなら、時間の無駄とまではいわないまでも、読むことはそこでもう終わっている。

読むというのはなにも隅から隅まで精読することではない。取捨選択もその中には入っている。私たちの時間は有限であって、エネルギーも無尽蔵ではないのだ。

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noteは一つの事業

noteは一つの事業

noteを使っていて思うことがある。

それは読者はほとんどあまり読まれない書き手だということだ。「どうしたら読まれるのか」などの記事が伸びるのもそのためだろう。

ここから見えてくるのは、noteを使っているほとんどの人が自分の記事を伸ばしたくて「スキ」やその他の活動をしているのではないかということだ。

しかも本当に読まれている記事というのは簡単には書けない、つまりは専門知識や文章力が必要なの

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変化は免れられない話

変化は免れられない話

昨日驚いたことがあった。駅のよく見ていた自動販売機がPayPayが使えるようになっていた。PayPayにいくらかお金を入れている私にとっては便利な話だ。とはいえ、こうした技術による便利さの向上は本当に意味があることなのだろうか。

単純に考えてみると、別に現金で買えていたのだから、大した変化ではないし、PayPayで買えたからといってお得なわけでもない。確かに門戸は開いていた方がいいだろう。Pay

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凡人は凡人の話を聞かない話

凡人は凡人の話を聞かない話

凡人は話を聞く能力が比較的低いので、聴く価値のないと思ってしまった話は一切頭に入ってこない。これは読書に関してもそうで、凡人に情報や意見を届けようと思ったら、凡人が伝えるというのはあきらめるべきだ。つまりは、凡人に何かをしようと思えば、凡人から脱しないといけない。

凡人は話を適切に処理する能力が低いので、聴いてしまった話は信じるほかなくなってしまう。そのため、入ってくる段階でシャットアウトするよ

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結局これはメモだった話

結局これはメモだった話

凡人は凡人の話を聴かないということを前に書いた。であれば、この記事というのも読まれることはないだろう。読んでもらうためには手順を踏まなければならない。

こう考えてみると、凡人による凡人のための方法論を書くという目的は変えなければならない。私はどうしてここに文章を書いているのだろうか。

一つは前にも書いた、精神衛生上いいからだ。しかも文章というのは相手を想定する必要があり、もし読まれないとしても

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文系的な読みは学んだはずなのに何も身についていない話

文系的な読みは学んだはずなのに何も身についていない話

『中世哲学の射程』を読んでいた。西洋における中世と呼ばれる時代はキリスト教の影響が特に強く出ている時代だ。例えば、アウグスティヌスとか、スコラ哲学とか。古代といえばギリシャやローマの力が強かったころで、中世はそれらが弱まってきて、より西の方に力が移っていった。中世の次は近代といわれるが、基盤に「私」をすえて科学を伝えやすいものに変えた。中世はだから暗黒の時代とかいわれることもある。しかしそれは過ぎ

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日記は難しい、でも必要な技術という話

日記は難しい、でも必要な技術という話

「文章という道具は現実のすばらしいところをこしとってしまって、しかしそれゆえに人々に伝わる知識や技術を伝達できる」と書いたが、日記というものを考えるとき、これは実は高度な技術ではないかと思った。日記はもちろん文章で書く。しかし、日記が対象とするのは現実の細々とした日々変わる部分だ。ということは道具のメリットを活かせないばかりか、デメリットを拾っているような気がする。しかし成立しているのだから、何か

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現実を読む工夫

現実を読む工夫

何度も書いているが、文章にするとおもしろいところはこそげ落ちてしまう。下ネタも書けないし、センシティブなことも書けない。もっといえば、直接的な表現はいつでも礼儀に反する。だから私はあえて、本ではなくて現実を読むことをおすすめする。とはいえその能力は本によって養われるというのも忘れてはいけない。要するに無駄なものなどは本当はないのだ。

こう書いてしまうと、おもしろい文章を期待されるかもしれないが、

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