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凡人は凡人の話を聞かない話

凡人は話を聞く能力が比較的低いので、聴く価値のないと思ってしまった話は一切頭に入ってこない。これは読書に関してもそうで、凡人に情報や意見を届けようと思ったら、凡人が伝えるというのはあきらめるべきだ。つまりは、凡人に何かをしようと思えば、凡人から脱しないといけない。

凡人は話を適切に処理する能力が低いので、聴いてしまった話は信じるほかなくなってしまう。そのため、入ってくる段階でシャットアウトするようになっている。話を適切に処理するのは文系的な読みの力だ。そしてさまざまな意見にこそ価値があるとわかるのは理系的な読みの力だ。この2つを鍛えるのは学校でもできるが、その努力をする力が凡人にはないので、結局できないまま大人になる。

ここまで見てみれば、私の文章は凡人に届けたくても届かないのは当然といえよう。しかも読む必要性は少しもないのだから、期待できる要素が一つもない。

ではなぜ書くのかというのは考えてみてもいい。それは文章を書くことが精神にいいからだ。そして文章とは相手に情報などを伝える道具だから、結局読み手がいなくてもそういう形式になってしまうからだ。

体は誰でも特徴的ですばらしいはずなのに、凡人がいるのは確かに言葉のせいだ。言葉は抽象を使って、そういうすばらしさと引き換えに技術や知識を伝達できるようにしている。つまり言葉によって同じような人が生まれることになる。天才の何人かは言葉を警戒したのも頷ける。だが、そういう人も言葉を使ってそれを伝達したのだった。

要するに、見方の問題なのだ。何をどうみるかで答えも、捉え方も変わるに違いない。つまり、noteで読まれるのは何かしら現実で力を持った人ということになる。ここまで見てくると、人々がなぜ自分を凡人ではないとしたがるのかがわかる。そうしないと文章が読んでもらえないからだ。

  • 文章は人に知識や技術を伝える道具である。

  • そのため相手がいることが前提になる。

  • しかし凡人は脳の処理が弱いため、適切にそれぞれの言説を処理できない。

  • したがって、凡人は聞きたくない意見をなかったことにする。

  • しかしそうした技術や知識を本当に必要としているのは凡人である。

  • そのため凡人に伝える必要があるが、それをするためにはまず現実で力を持つ必要がある。

  • そうでないと聞く耳を持たないからであり、であるならば、やはり天才に協力してもらわなくてはいけない。

  • このことは意見がある特定の天才の列伝になることと無関係ではない。

解:さまざまな意見が出ることは意味があるが、さまざまな書き手がいることは何の意味もない。

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