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読むとは——カテゴライズされるべし

文章を読むとき、それがなぜ書かれたかを問うことは正当であり、意味のあることだ。

その答えが自分の思っていた通りのものだったら、その文章を読むことは意味があるし、そうでないなら、時間の無駄とまではいわないまでも、読むことはそこでもう終わっている。

読むというのはなにも隅から隅まで精読することではない。取捨選択もその中には入っている。私たちの時間は有限であって、エネルギーも無尽蔵ではないのだ。

積読も一つの読むだと考えられる。背表紙は読んでいたりするものだ。買っただけで満足とも考えられる。興味を知れてその著者等にお金を払ったのだから十分ではないか。

しかし正確にいえば、私たちの思考はいろいろなものの間を縫っていくように、平行を保ちながら生きている。つまりは自然と「いまはこういうことのこういう場面を進んでいる」というようなことを一々確かめている。わからない場面がそれを逆に証明している。パニックになるだろう。

私たちの思考は、意外にも理性的なのだ。さまざまな天才がそれを否定してきた。確かに不幸は起こってきた。しかしそれにもまして人々は低級なところで一緒なのだ。

読むことに戻ろう。要約してしまえば、わからない意図の話は読まなくていい。それは自分には必要ないからだ。しかし世界には必要だ。そして文章を書くとはある意味で世界的な話であって、人類に寄与することだ。だからカテゴライズされなければならない。それを引き受けねばならない。

しかし、私はどこにも入れない。だから読まれないのだろう。

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