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エッセイ・評論など

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音楽、その他の芸術や社会問題についての評論やエッセイなど。力を入れて書いたものから、気軽に一気に書いたものまで。とりとめのない雑感も。
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#クラシック音楽

シューベルトの実存に肉薄する──プレガルディエンとゲースのシューベルト・アーベント

シューベルトの実存に肉薄する──プレガルディエンとゲースのシューベルト・アーベント

 テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによるリサイタルを聴いた(五月二十二日、トッパンホール)。曲目はすべてシューベルトで、「別れ そして 旅立ち」というテーマのもと、前半と後半それぞれ十二曲ずつ、《冬の旅》と同じ曲数の二十四曲が、独自の選曲と配列でひとつの歌曲集のように集められた。彼らは過去にまったく同じプログラムを録音しており、私は聴いていないが十年前の同じトッパ

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これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

「芸術家として優れている人ほど往々にして人間としては問題があることをするものだ」というような意見を、陰に陽に口にする人は、少なくない。かれらは、芸術家は社会規範からはみ出しているからこそ、常人にはできない発想や表現が可能なのだと言うのである。
 私はこういった意見に、反対の立場を取り続けてきた。
 確かに、私も含めて芸術にのめり込むような人間は、内面に、この世界への絶望と結び付いた、現実の倫理とは

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慎み深くあるということ──ジャン=クロード・ペヌティエ 80歳アニヴァーサリーリサイタル

慎み深くあるということ──ジャン=クロード・ペヌティエ 80歳アニヴァーサリーリサイタル

 二〇一四年から二〇一九年まで、毎年一度、幸運な年には二度、ピアニストのジャン=クロード・ペヌティエの生演奏を聴けたことは、私の生にとって、最も大きな救いのひとつだった。あの大きくはないが厚い手のひらのぬくもりに包まれたような音。圧倒的な内省が音楽に与える、実際の静寂以上の静寂。孤独への深い理解に比例した、何者をも問い詰めない大きな優しさ。演目や会場などによって、受ける感銘の深さや種類に差はあれど

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語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

語り続ける姿──アレクセイ・リュビモフ ピアノリサイタル

 指定された座席に着いてプログラムを読んでいると、今日のピアニスト、アレクセイ・リュビモフがまだ会場に到着していないとのアナウンスが流れた。何かの事情で来日が遅れ、空港から直接会場に向かっており、二〇分押しの予定で、到着次第すぐに始めるという(四月十一日、五反田文化センター音楽ホール)。
 中止にはならないということにまず安心したが、飛行機を降りてそのまま会場に直行して、休息の時間もリハーサルもな

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谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

 ひっそりとした闇に包まれた舞台に、各辺を光らせた立方体が並んでいる。上手側に置かれたその内側が照らし出されると、痩せ細った、身体に障碍を抱えている若者が、斜め上を見て椅子に座っている。その表情が背後のスクリーンに大きく映し出され、それが荒涼とした大地のような映像とクロスフェードするとともに、個人的な感情ではなく、もっと根源的な、この世界を生きる人間が抱えている宿命的な哀しみのようなものを湛えた嬰

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〈世界〉に拒絶された者が、世界に救われるまで──プレガルディエンとゲースのシューベルト《水車屋の美しき娘》

〈世界〉に拒絶された者が、世界に救われるまで──プレガルディエンとゲースのシューベルト《水車屋の美しき娘》

 少々時間が経ってしまったが、10月の初めにトッパンホールで開かれた、テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによる、「シューベルト3大歌曲チクルス」の第2夜《水車屋の美しき娘》を聴いた(10月3日)。このデュオの実演を聴くのは4年ぶりである。プレガルディエンは多くの曲を長2度下げて歌っており、前回よりさらにバリトンに近づいたことを感じさせたが、テクストを深く読み込み、音

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生の哀しみ──向井響の新作「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」

生の哀しみ──向井響の新作「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」

 生は、始めさせられてしまったものである。自ら望んでこの世に生まれるということは、誰にもできなかったはずだ。私という存在は、存在させられたのである。自分が生まれ、生きていることにたいして、一度も疑念を抱いたことがないという人でも、この前提を否定することは、決してできない。
 私は特に反出生主義者を自認しているわけではない。けれども、自分のものであれ他者のものであれ、生の過程で直面する苦悩の根源を探

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幸福と自省──アルゲリッチ、クレーメル、ディルヴァナウスカイテによる演奏会

幸福と自省──アルゲリッチ、クレーメル、ディルヴァナウスカイテによる演奏会

 ピアニストは、その長い銀髪に暖色の照明を反射させながら椅子に座ると、会場の響きを確かめるように、ニ短調の主和音をそっと、ペダルをかけた軽やかなアルペッジョで弾いた。眼鏡をかけた白髪のヴァイオリニストは、そのアルペッジョがたんに音としてではなく、すでに音楽を含んでいるかのように美しく広がったからか、和音のAの音に合わせて調弦することなく、ただその余韻に耳を澄ませ、ピアニストに合図だけを送った。
 

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メナヘム・プレスラー

メナヘム・プレスラー

 ピアニストのメナヘム・プレスラーの実演は、彼が93歳のとき、2017年10月16日にサントリーホールで開いたリサイタルを聴いたのみだが、その音楽の根底に息づいていた瑞々しい明るさは、今でも折々思い出している。
 大分時間が経ってしまっていて、当時もごく短いメモしか残していなかったので、当時感じた通りに精確に述べることは難しいが、とりわけ、前半が素晴らしかった。彼の芸風のためには会場が広すぎるとも

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「天才」の条件ーーサンソン・フランソワ

「天才」の条件ーーサンソン・フランソワ

 傑出した芸術家は、無論みな非凡な才能を持っているわけだが、それを特に「天才」と呼びたくなるのは、どういった場合なのだろうか。
 哲学者のイマニュエル・カントは、『判断力批判』のなかで、天才を「芸術に規則を与える才能(自然の賜物〔天分〕)」(岩波文庫、篠田英雄訳)と定義している。カントによれば、天才は、訓練によって習得できるものではない独創であると同時に、それ自体がある規範や規則になるものである。

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心の重みーー堀米ゆず子のバッハ

心の重みーー堀米ゆず子のバッハ

 ヴァイオリニストの堀米ゆず子さんのJ.S.バッハの無伴奏ソナタとパルティータのアルバム(2016年)は、私のヴァイオリン観を覆すほどの圧倒的な演奏で、今でも愛聴盤の一つである(その演奏については以前別の場に書いた)。彼女が昨年11月11日にサントリーホールで開いた自身の演奏活動40周年を記念するリサイタルは、そのバッハの無伴奏ソナタの第1番、第2番、パルティータの第1番、第2番で構成されていて(

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いのちを吹き込む音――寿明義和の配信演奏会

いのちを吹き込む音――寿明義和の配信演奏会

 演奏家の手によって、単に楽譜に書かれたことが「再現」されるだけでなく、そこにいのちが吹き込まれて初めて、聴く者は作品及び作曲者と出会うことができる。よく、「演奏家は作曲家の僕(しもべ)でなければならない」というような言葉を耳にする。言わんとしているところには異論はないし、共感もするが、しかし演奏家の担うその役割の大きさに改めて思いを巡らせると、演奏家の存在は、決して作曲家よりも下位に属するもので

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追悼 レオン・フライシャー

追悼 レオン・フライシャー

「最後」というものには、最後であると予定されているものと、必ずしもその予定ではなかったが、それが最後になってしまったというものがある。
 2015年に聴いたピアニストで指揮者のレオン・フライシャーの演奏会は、結局、彼の最後の来日公演となってしまった。2015年11月20日、すみだトリフォニーホールで行われた新日フィルの定期演奏会に、指揮者およびソリストとして客演したときのことである。私は、「今まで

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心に寄り添う6弦――福田進一の配信演奏会

心に寄り添う6弦――福田進一の配信演奏会

 OTTAVAが主催する配信企画「The Concert at Home」にギタリストの福田進一さんが出演した。
 ギターという楽器の特性もあるだろうが、1時間、福田さんがふらっと家に現れて、寛いだ気分で演奏を聴かせてくれたような印象を受けた。勿論演奏は真摯そのもので、曲間のトークで本人が話していたように、彼の中には挑戦があり(古い楽器で1920年代の作品を演奏するなど)、緊張もあっただろうが、瞬

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