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幸福と自省──アルゲリッチ、クレーメル、ディルヴァナウスカイテによる演奏会

 ピアニストは、その長い銀髪に暖色の照明を反射させながら椅子に座ると、会場の響きを確かめるように、ニ短調の主和音をそっと、ペダルをかけた軽やかなアルペッジョで弾いた。眼鏡をかけた白髪のヴァイオリニストは、そのアルペッジョがたんに音としてではなく、すでに音楽を含んでいるかのように美しく広がったからか、和音のAの音に合わせて調弦することなく、ただその余韻に耳を澄ませ、ピアニストに合図だけを送った。
 そして、ピアニストは、憂いを帯びた下降音型で始まるト短調の主題を、柔らかく仄暗い音色で、静かに弾き始めた。

 ピアニストのマルタ・アルゲリッチとヴァイオリニストのギドン・クレーメルによるサントリーホールでの演奏会(6月6日)。アルゲリッチとクレーメルのデュオというと、数々の録音に刻まれているような、一体どこまで燃え上がってしまうのかとこちらが心配になるほどのあの激しいやりとりを思い浮かべてしまうところだが、前半の最後に置かれた、アンサンブルとしてはこの日の一曲目となったヴァインベルクのソナタ第5番は、思いがけないほどの静けさのうちに始まり、それが演奏全体をも貫いていた。
 近年のアルゲリッチの演奏は、八十代を迎えてなお、生命力のきらめきや鮮やかな技巧にますます磨きがかかっているのも驚異的だが、やはり、それらと同時に聴かせていた脆いまでの繊細さに加わった、深く濃やかな陰影が特に魅力的である。この日の演奏も、ヴァインベルクの冒頭で聴かせた音に象徴される、光と影のあわいにあるような色に溢れていた。
 このソナタでは、現在や未来よりも、過去に向けて意識が広がっているように感じられる。聴くのは初めての作品だったが、その冒頭の主題からして、何か懐かしい、遠く失われた記憶に想いを馳せるような情感が、アルゲリッチの音色と相俟って染み入り、ふいに目の奥に涙の気配がした。
 人の一生をたった数語で要約することは本来したくないことだが、ポーランドのユダヤ人であるヴァインベルクは、ナチスの侵攻を逃れてソ連に亡命するも、そこではスターリン政権の弾圧に苦しめられ、生き別れた家族が絶滅収容所で虐殺されていたことをのちに知るという凄絶な生涯を送った。この作品でヴァインベルクは、理不尽に打ち砕かれた穏やかな日々を静かに回想していたのだろうか。暗い苦悩はさまざまに影を落としてはいるものの、その激しさよりも、凪いだ湖面のような静けさや素朴なぬくもりといったものが全体を包んでいて、アルゲリッチとクレーメルの鋭い直感に満ちたやりとりが、それを繊細に描き出してゆく。
 終楽章で慎ましい舞踊の律動に乗って奏でられる民謡風の旋律にも、破壊された美しい記憶を掬い取る優しさが感じられる。最後はト長調の柔らかい静謐な輝きのなかで、クレーメルが極繊細の音で弾く旋律が、幸福な記憶のかなたへ消えていった。
 クレーメルの演奏について述べるのが遅くなったが、彼の演奏も、この日は意外なほどまろやかな手触りを感じさせるものだった。クレーメルを生で聴くのは初めてだったので、これが彼の演奏の変化なのか、録音が捉え切れていない彼の特質なのか、私の座席の位置の関係なのかはわからない。あるいは、それらが複合してそう感じさせたと言うのが一番近いのかもしれない。しかしともかく、神経を尖らせた線の細い音色や張り詰めた緊張感の持続はそのままに、特に音の広がり方の角度にまろみが感じられ、そこにはそういった純音楽的な要素を超えた何かがあるように思われたのである。
 ヴァインベルクの前に、クレーメルは独奏でロボタの「レクイエム(果てしない苦難にあるウクライナに捧げる)」とシルヴェストロフの「セレナード」を弾いた。ロボタの作品はあくまでも2014年のウクライナ紛争に際して作曲されたものではあるが、シルヴェストロフはそのウクライナの作曲家である。それに前述のヴァインベルクが続き、後半のメインには、チェロのギードレ・ディルヴァナウスカイテを迎えてのショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番が置かれている。プログラミングの意図は、直截的すぎるとも言えるほど明らかなもので、私はそれが、厳しさや激しさの方に向かうのだろうと想像していた。
 しかし冒頭の無伴奏作品が、鋭角の感性が捉える厳しさを背景にしながらも、柔和な表情で演奏されたのを聴いて、この日の演奏は、むしろ祈りに向かうものなのかもしれないと予感した。そして、続いたヴァインベルクのソナタを聴きながら、そのことを確信したのだった。

 後半は、アルゲリッチによる独奏で始まった。曲目は事前に予告されなかったが、シューマンの《子供の情景》から第1曲「見知らぬ国から」、バッハのイギリス組曲第3番からガヴォット、スカルラッティのソナタニ短調K.141の小曲3曲が立て続けに演奏された。
 前後の曲目が現実を見つめるものであるからか、このソロでのアルゲリッチの演奏は、束の間の夢想の世界に誘うようなものだった。鍵盤の芯を、一切の力みなしに、狙いすら定めようとしなくても捉えてしまうような打鍵から放たれる、瑞々しい音。聴き手の予想をさらりとかわしてゆく、妖艶なまでに魅力的な閃きに満ちたフレージング。どんなに素早いパッセージも妖精の舞いを思わせる美しい軌跡を描きながら耳に入ってくることの、音楽的快感……。
 そこから、ショスタコーヴィチの三重奏曲に入ると、アルゲリッチは、一転して現実を映し出すような、凍り付くほどに透き徹った音に切り替えた。やはりかつての録音に比べればいくらか穏やかではあるものの、さすがにこの作品になるとクレーメルとアルゲリッチも激烈な表現を前面に出してくる。チェロのディルヴァナウスカイテも、冒頭こそ慎重でやや不安定だったが、次第に熱を帯び、力演で大家に応える(しかしあの冒頭は演奏至難なので仕方がないことではある)。クレーメルの集中もここに極まり、なかでも終楽章で、あの骨が踊っているような主題を、アルゲリッチの弾く刻みのなかから次第に出現するように弾いたことや、ホ長調に転じた最後、その主題の断片が奏でられる箇所での、気をその一点に凝縮させる表現は印象的だった。
 この作品は、ショスタコーヴィチが友人の音楽評論家の死に際して作曲したものとされているが、彼はここで、死を音で捉えようとしているように感じられる。身体中に暴発寸前の異常な狂気を漲らせていながらも、その狂気を狂気として冷徹に自己認識する苛烈な精神が、音による死や死者への思惟を可能にしているのだろう。
 述べてきたように、この演奏会には、冒頭のクレーメルのソロからこの作品の演奏に至るまで、予定調和的なものがほとんどなかった。音楽を常に「いま」に生かしてゆくかれらのショスタコーヴィチを聴きながら、前半のような祈りのためには、このような精神がなければならないのだと思った。祈る、願う、悼むとただ言うことはたやすい。しかし言葉や音は、たんに音声や記号として発するのではなく、実体と実感を持ったものとして自ら体現していかなければならない。無論ショスタコーヴィチほどの深みに到達できる人間は一握りだろうが、それにしても、そのために必要なこのような精神が、自分のなかに少しでもあるだろうか。
 かれらのような演奏家と同時代に生きその演奏を生で享受できることの幸福とその自省の念が入り交じる。そして、拍手に丁寧に応えるかれらの姿を見ながら、その生を思っていた。

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