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心に寄り添う6弦――福田進一の配信演奏会

 OTTAVAが主催する配信企画「The Concert at Home」にギタリストの福田進一さんが出演した。
 ギターという楽器の特性もあるだろうが、1時間、福田さんがふらっと家に現れて、寛いだ気分で演奏を聴かせてくれたような印象を受けた。勿論演奏は真摯そのもので、曲間のトークで本人が話していたように、彼の中には挑戦があり(古い楽器で1920年代の作品を演奏するなど)、緊張もあっただろうが、瞬時として親密さが失われることがなかった。それは、私たちがもう数ヶ月にわたって触れられていない、あるいは触れる機会を減らされてしまっているものだろう。インターネットの配信ではあるが、束の間、そうした親密さに触れられたような気がした。
 なかでも、1曲目のバリオスの『大聖堂』が胸に染み入った。第1楽章、旋律を織りなす一粒一粒の音が、放たれては後を追う間もなく静寂のなかに消えてゆく。その放たれた音の波紋のようなアルペジオが、若干の焦燥を漂わせながら、旋律線を縫う。さめざめと泣いているようなロ短調のその涙の粒が、心の中に落ちて、染み渡ってゆく。瞬間ごとの心の移ろいを繊細に汲み取ってゆく演奏の背後には、祈りも感じられる。
 厳粛な中に優しさが滲む第2楽章を経て、「荘重なアレグロ」と書かれた演奏至難で知られるフィナーレに至る。ミサを終えて教会から溢れ出てくる人々から着想した言われているが、駆けずり回るパッセージが、心の中のわだかまりや迷いのように感じられる。そう感じられたのには、私たちがおかれている昨今の状況もあるだろう。様々な議論が錯綜し、短期的にも中長期的にも、ただでさえ不透明と言われている未来が、ますます見えにくくなってしまった。より正確には、現代がいかに危機と隣り合わせであり、未来がいかに不透明なものであるかが、今回のパンデミックによって改めて突きつけられたと言うべきだろうか。
 しかしそれよりも、一音一音を明瞭に聴かせながらも、それをあたたかい息遣いで包み込む福田さんの演奏が、技巧性を超えて、パッセージに秘められた情感をそのまま聴き手に伝えるのだろう。細かい音粒のすべてが、心に入ってくる。
 最後のポンセ『スペインのラ・フォリアの主題による変奏曲とフーガ』のような長大な作品でも、福田さんは構えたり、力むことがない。最後のフーガでは、各声部に耳を傾け、それぞれの旋律の糸を丁寧に紡いでゆく。そこに、彼の人間性が滲み出る。音楽への寄り添い方は、すなわち人間への寄り添い方である。
『大聖堂』をはじめ、必ずしも明るい、前向きな作品ばかりではなかったが、それぞれの情感に浸されながらも、心は安らぎに満ちていた。それは、作品の声に耳を澄ませる福田さんの演奏が、それを聴くこちらの声をも親しみをもって聴いてくれているように感じられるからだろう。アンコールのポンセ(ゴンザレス編)『エストレリータ』は、大曲演奏の後もあってか、生の演奏会のアンコールのように、いっそう寛いだ表情に満ちていた。

 今、今般の状況が「戦争」と表現されたり、「打ち勝つ」などの言葉が叫ばれたりしているが、それは精神を鼓舞するどころか、感染への対策や恐怖や、トラウマのために息苦しくなっている心を、さらに疲弊させかねない。勿論、現実的には解決を急がねばならない問題はある。しかし心は、痛みや不安を性急に解消したり、それをすぐに前向きなエネルギーに変えようとするものよりも、ただそこにそっと寄り添ってくれるようなものをこそ、求めているのではないだろうか。
 そしてそれは、災厄時に限ったことではない。インターネットや科学技術の発展のスピードに侵されている現代人は、人の心においても、解決や答え、立ち直りを急いでしまう。今の時代が忘れている、心への接し方を、福田さんの演奏が体現していた。

(この配信演奏会は、こちらから視聴できます) 

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