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〈世界〉に拒絶された者が、世界に救われるまで──プレガルディエンとゲースのシューベルト《水車屋の美しき娘》

 少々時間が経ってしまったが、10月の初めにトッパンホールで開かれた、テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによる、「シューベルト3大歌曲チクルス」の第2夜《水車屋の美しき娘》を聴いた(10月3日)。このデュオの実演を聴くのは4年ぶりである。プレガルディエンは多くの曲を長2度下げて歌っており、前回よりさらにバリトンに近づいたことを感じさせたが、テクストを深く読み込み、音楽と詩に大胆に踏み込んでゆく二人の姿勢は相変わらず刺激的だった。
 作家の故古井由吉氏は、「言葉の意味は論理だけでなく音律によっても運ばれている」と語ったが、歌曲とは、その、詩(言葉)が持つ音律に、音楽という「かたち」を与える分野であるとも言えないだろうか。プレガルディエンの歌声を聴いていると、その論理と音律──言い換えれば、語りと歌とが、本来的に共存しているものであるということを実感する。歌が語りを失えば、言葉は感傷に堕し破綻を来す。語りが歌を失えば、言葉はたんなる記号になり下がる。どんなに激した表現の場面でも発語を粗雑にせず、情感が溢れる箇所でも語り手としての平静を保つためには、揺るぎない厳しさが必要だろう。プレガルディエンの精神の核にある厳しさが、どこにも偏らない場所に彼の声を踏みとどまらせている。
 それに対してピアノのゲースは、知的な閃きを瞬間ごとの表現に昇華させる。空間に広がるというよりも空気にそのまま溶け入るような柔らかさを持った音それ自体に耽美性があり、魔術的な表現力と相俟って、作品の幻想性が際立つ。歌曲において、ピアノは、歌手が歌う言葉の背後にある大きな世界を担っているが、ゲースの立ち昇らせるそれは、聴覚以外の感覚をも刺激するようなリアリティを持っている。
 このシューベルトの《水車屋の美しき娘》は、かれらが以前からとりわけ踏み込んだ演奏を聴かせてきた曲集である。2015年の演奏でもなされていた、第1曲「さすらい」の石臼の連で、最後の旋律のみ突如オクターヴ下げて歌うという表現が今回も採られており、これに関してはかれらがこの曲を演奏するときのもはや定石となったと言っていいだろう。他にも表面的には楽譜から逸脱した表現を繰り出す場面があったが、そのオクターヴ下げるという表現が、詩にある石臼の重みや青年の心情を「楽譜通りに」演奏する以上に体現していたように、あくまでもそれらは音楽と言葉の深層に由来しているものであるため、軽薄な思い付きによる気まぐれな演奏とは一線を画す説得力を持つ。
 二人が舞台で聴かせるやりとりは、なるほど自在で即興性に富み、「合わせる」という次元の遥かかなたでなされている。一演奏者の端くれとしては、一度でもそのような対話を体感してみたいものだという羨望を抱かずにはいられないが、それは感覚だけで、演奏するだけで合ってしまうという類のものではなく、綿密な議論と緻密なリハーサルを重ねた上で到達している世界である。だから、表現には強い説得力が宿り、たんに理想的なアンサンブルを聴いたという以上の知的で文学的な問いが聴き手に残るのだろう。
 今回の演奏では、第14曲「狩人」から第17曲「いやな色」にかけて、つまり青年が美しき娘に裏切られ、彼女と恋敵の狩人への愛憎や絶望を歌う件(くだり)に、全体のクライマックスが置かれていた。第14曲「狩人」では、プレガルディエンが神経を尖らせて狩人に言葉をまくしたてるのを、ゲースが半音階下降を強調して苛立ちを煽る。第15曲「嫉妬と誇り」でのプレガルディエンの娘への嘲りの表現にも唸らされた。絶望や愛憎といった領域の感情を、繊細に描き分けながらも容赦なく畳みかける様は圧巻で、もはや青年の怒りと憎しみは世界そのものに向けられているようにすら感じられてくる。
 こうした表現を聴いていると、この曲集が、悲恋物語の見かけをとりながら、〈世界〉に拒絶された者が、世界に救済されるまでを描いているということを改めて実感する。〈世界〉とは、青年が理想としている世界、娘との愛が成就する世界である。私たちが誰かに激しい恋をしているとき、その対象と結ばれるかどうかは、世界に受け入れられるかどうかと言い換えられるほどの切実な問題になっているだろう。特に、主人公の青年は、水車屋の主人と美しき娘、狩人以外とは恐らく全く言葉を交わしていない(しかも狩人には心中で憎しみの言葉を唱えているだけで、直接には会話していないだろう)。つまり深刻な孤独にあったことが読み取れる。その孤独な青年にとって、恋する美しき娘に自分の愛が受け入れられるかどうかという問題には、まさに世界に自分が迎え入れられるかどうかということが懸かっているように思われていただろう。だから、プレガルディエンとゲースは、第12曲「僕のもの!」でその思いが叶ったときの喜びも、ニ長調を豊饒に響き渡らせ全世界を手にしたかのような甘美な陶酔を伴って歌い、第14曲から第17曲にかけては、前述の通り世界そのものを恨むかのように表現するのである。
 その青年に全曲に亘って寄り添い続けているものが、自然、とりわけゲースのピアノがその流れを美しく描き出した小川──つまり括弧つきでない、不変のものとしてそこにある世界である。青年がこの曲集で語り掛けているのは、自然に対してだけである。そして、愛を失ったあと、理想とする〈世界〉から拒絶されたあとも、青年の悲しみを包み込み、彼と一体となるのは、小川である。ゲースは、最終曲「小川の子守歌」で、小川が美しき娘に「立ち去れ」と言う連で、楽譜に書かれていない装飾音を付加し、それを娘を非難するように弾いたが、今回のかれらの演奏は、完全に青年側の視点に徹していたと言えるだろう。
 私たちは、〈世界〉が脆いものであることだけでなく、不変のものであるように思われていた世界までもが失われようとしている現実を知っている。この曲集の演奏でも、括弧つきでないほうの世界にももう救いがないことを描くという表現も今後登場する可能性はあるだろう。世界は、いつまで私たち人間が救いを見出し得る対象であり続けるだろうか。

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