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ACT.54『さよならを仰いで』

雨天進軍

 岩見沢のファミリーマートで500円近いビニール傘を購入し、少し大きな出費と被弾を経験し後悔と雨に打たれつつも駅に向かって歩く。
「靴下は脱ぐしかないな…」
雨の中、濡れた靴下の感覚が気持ち悪くてスグに脱いだ。雨に濡れる事。そして自分は外出時に本を必ず携帯しているほどの本好きで『本が濡れるのも嫌』なのだが、この『靴下が濡れている感触で靴を履いている』のが何よりも嫌なのである。速攻で脱いだ。
 岩見沢の駅に向かって歩く歩道は小魚なら余裕で浸かってスイスイ泳げそうな位の水量になっており、そして足部分なら余裕で水に冠水している。雨の勢いは駅に向かって歩いていくに従い、どんどんその強さを増していた。
 と、そんな中駅へと歩いていると凄惨な事故現場を発見する。バイクが雨の中を滑ってしまったのか、視界不良で事故を起こしてしまったのか…無惨にも破片が飛び散り、人々の不安な目が注がれていた。そして、事故状況を整理している警察官たち。昼近くした岩見沢の街が、雨と共に暗雲に包まれていた。
 無事に駅に到着。レンガ調。といおうか。ガラス張りの近代的な面持ちと言おうか。そんな存在感を発揮している岩見沢の駅が見えた瞬間には、思わず感動してしまった。
 しかし、この駅を出て行く寂しさも感じてしまう。711系・赤電。そして駅から歩いて条丁目にバスに苦しんだ岩見沢の街との決別が近くなっていた。
 そして、改札を通過する。改札はなんとなく、小淵沢駅のような少しブラックのシックな改札だった。(表現しにくいな)
 このタイミングでは、下車印を回収中の為に全てを(大半を)係員改札にて通過。再び見せて、改修改造真っ只中の岩見沢の駅を歩き、次の場所に向かう。
 おっとぉ忘れていた。ここで写真のご紹介。
 冒頭の写真は、そうして雨の中のバイク事故。そしてなんとか雨辛々に歩いて到着した岩見沢駅で最初に撮影した写真を拡大したものだ。
 721系と731系。現在の札幌近郊を担う電車であり、721系に関しては711系を越えて既に電車界の大御所になりつつあろうとしている。
 次回、岩見沢へ711系を保存する大地のテラスへ向かう際にはこの721系に乗車しつつ向かうのも面白いだろうか。

さよならを追いかけて

 ここから乗車するのは、室蘭本線だ。
 と言っても、室蘭本線は室蘭本線でも各駅停車しか走行していない地味な室蘭本線である。苫小牧より札幌に至る方では特急に貨物と様々な列車が走行しているが、岩見沢〜苫小牧・糸井ではこうして静かに普通用のディーゼルカーが客扱いを粛々としているのみである。
 やってきたのは、キハ150形。再び乗車する事になる。しかし、今度は1両の状態。通勤輸送時の2両の状態ではなく、重荷を解き放たれラフな姿になっていた。
 北海道の自然豊かな平原を感じさせる緑が美しい車両である。また、スカート周辺のジャンパ栓回りが実に美しい。
 折り返し線?の辺りから走行し、駅員の案内をBGMにして列車は入線してきた。1両のローカル線の旅が始まろうとしている。

 岩見沢駅にて、北の大地の入場券を購入した。
 北の大地の入場券に関しては、当アカウントの別マガジンに掲載してるので是非読んで頂きたい。
 そして、ここから室蘭本線での旅路だ。
 乗車したキハ150形は、ここでまた再会すると個人的にある車両の内装配置に既視感を感じたのであった。
「おぉ、コレはキハ110形…」
仙台や長野方面で乗車したローカル気動車の車内配置(座席の配置感覚)に既視感を覚えてしまうのであった。
 1+2の座席配置の単行気動車という事でもあれば、それはまた四国1000形のようでもあった。そして、ロングシートの配置もよく似ている。
 そのまま、岩見沢を背にして室蘭本線を苫小牧方面に向かっていく。少し道が遠回りになってしまったが、ようやく課題であった栗山方面に到達しそうだ。
 岩見沢からこの方面までは路線バスで向かおうかと考えていたが、しかし路線バスの乗り換え方法もよく分からなかった。結果的に歩いて戻る事になってはしまったが、道内フリーパスの効果も無事に発揮されて良い旅路になっただろう。
 しかし、ここで少し眠気が。カフェイン投与で睡眠に落ちられなかったのは大きな代償であっただろうか。

※栗山駅に入線するキハ150形。現在は蒸気機関車時代の長編成は夢に消えていった。

 岩見沢方面から室蘭本線を向いて。
 実はこの路線は、国鉄の歴史にとって非常に大きな歴史の意味を持っている路線なのである。
 この路線で、『国鉄最後の蒸気機関車旅客運転』が昭和50年の12月14日に実施され、岩見沢第一機関区に所属していたC57-135によって運転された。
 実は前回記事。NHK放送の『さらば蒸気機関車』で山口百恵&加藤芳朗の両氏を乗せて室蘭から岩見沢まで収録の蒸気機関車列車を牽引したのも、このC57-135であった。
 現在は埼玉県の鉄道博物館にて保存されているが、交通史において。そして鉄道というジャンルの中で最も規模の大きな博物館での保存で『ランドマーク』のような存在になれたのは、こうして『国鉄最後の蒸気機関車旅客列車』を牽引していた歴史が大きい。(一部では山口百恵人気もあったのだとか)
 さて。この蒸気機関車定期旅客列車最終運転に関して、であるが実はこんな話もあるのだ。
「このC57の最後の旅客列車はですね、実はD51が本来牽く予定だった列車の牽引機をC57に変更して牽引させたんですよ。」
今回の旅路で、宿の支配人氏が教えて下さった言葉であった。
 なるほど、この時期なら機関車の用途。Cなら客車。Dなら貨物。との用途には縛られないよなぁとも考えていた。
 この今乗車している室蘭本線は、そうして国鉄において。日本の交通史を語るにおいて。欠かせない歴史の転換点に立っていた路線でもあるのだ。
 そんな鉄道ファン。そして社会を巻き込み、人々が『さよなら』と手を振ったその最後の道を、今は気動車で軽快に。しかしゆっくりと歩んでいく。

幻影と名将に想う

 栗山に到着した。
 この栗山に、自分の目的としていた保存車がいるのだ。
 北海道と言われて、皆さんは旅人として何を考えるだろうか?(最も、ここでは海鮮とかジンギスカンとかは除く、ね)
 中に『廃線』と浮かんだ人がいるかもしれない。北海道で『廃線』と聞くと
「台風や自然の力に抉られたり」
「自治体の力叶わずしてその線路を手放す断腸なる思い」
だったり、と様々な理由を浮かべてしまいそうになるかもしれない。
 この栗山にも、また廃線の跡が残っているのだ。
 その『廃線』とは、『夕張鉄道』。鉄道ファンの中には、古典機や独特の進化発達を遂げた蒸気機関車でその名を知っている人も多いかもしれない。

※現在の札幌近郊・JR函館本線

 夕張鉄道、は現在の函館本線の札幌近郊である野幌から室蘭本線の栗山。そして鹿ノ谷を貫き最終的には夕張市内の夕張本町まで、全長で50キロ近い鉄道路線を有している鉄道であった。
 夕張炭田の開発に関して。そして、札幌・小樽方面へと連なる国鉄へのバイパス路線として、客貨共にその実用性を期待されての開通だった。大正15年に栗山〜新夕張を開通。そして、その先の野幌への道として昭和5年に野幌〜栗山が開通した。
 栗山〜野幌の所要時間は、鉄道としての真価を発揮して25分で結んでいた歴史を持っている。現在のバスで同区間を走行しての1時間かかるその所要時間と比較すれば、その差は歴然である。
 しかし、昭和40年代に夕張鉄道はモータリゼーションの波風にあおられ経営に綻びが生じてしまう。
 鉄道発展を支えてきた夕張炭田の衰退も大きな追い討ちであった。
 結果として。夕張鉄道は昭和46年に鹿ノ谷〜夕張本町を。鹿ノ谷〜栗山では旅客営業を止め、昭和49年に野幌〜栗山の旅客営業を廃止。
 現在は、昭和27年に事業免許を取得したバス事業のみを残して会社としては存続を続け『夕鉄バス』として現在も北海道の交通機関として生存している。
 現在、夕鉄バスは野幌・夕張に営業所と会社を置き事業を継続している。
 さて、そんな夕張鉄道。現在でも保存車や廃線跡が現存しており、その足跡を追いかけて北海道での旅に出る事も充分可能である…が、しかし今回は保存車のみに限定した。
 栗山に『夕張鉄道 21号機』として、珍しい私鉄発注の9600形蒸気機関車が保存されているのである。その保存車を見に行こう。

※創業当時から、夕張鉄道を飾る『夕鉄輪』とネーミングされた社紋。大正15年に制定された、車輪を表したYとTによって設計された社紋である。和協の精神を表しているとされている。

 栗山駅から夕張鉄道の蒸気機関車が保存されている場所までは、まず行きを『歩いて向かう』事にした。まず、観光案内所で
「夕張鉄道の蒸気機関車が保存されている場所に行きたいのですが」
と質問し、バスの存在を教えていただいたが、
「あぁ…さっき行っちゃったんですよね…」
と少し残念な言葉を頂いてしまう。後に判明したが、岩見沢方面との接続は良くても。追分方面との接続はあまり良くなさそうなバスだ。
 さて、ここから歩いていくのだが、感覚としては岩見沢ほどの距離は…にしても軽いハイキングを感じながらの散策。駅前アーケードを時に散歩しながら、蒸気機関車のいる公園を目指して歩いていくのであった。
 途中、セイコーマートを発見する。
「おぉ、消防車のティッシュなんて売っているものなんだな」
と感じつつ、店内で少し物色するがホットシェフも何も買わずその先を歩いて行くのであった。何も惹かれて刺さるものなし。あまり食にはあり付かず、そのまま公園を目指して歩いていく。と、しばらく歩いているとこんなものが。写真は撮影していないが、
『栗山英樹監督・栗山町に凱旋』
とあった。
 出身地だからだろうか?いや、それとも日本ハムの監督だった縁と栗山町としての縁を兼ねているのだろうか?と考えてしまった。
 正解を後に調べていると、
『平成11年に町名が同じ縁で町の大使に就任し、更には自宅や野球場を構えと町の功労者になった』
との回答が発見された。
 そして勿論の事、先ほどに書いた『凱旋』というのは先のWBC2023の件である。大谷翔平とマイク・トラウトの対戦にて勝利し、日本が久しぶりの野球・世界一を奪還したあの大偉業を成し遂げての『凱旋』だ。
 この他、栗山英樹氏に関する事で最近の進展を調査したところ、WBC東京予選にて対決したチェコとの野球親善にも貢献したようだ。佐々木朗希の復興先発でお馴染みのあの試合から広がった縁である。
 と、日本ハムの指揮官を務め。そして大谷翔平の基礎を築いた名指揮官の思いを途中に感じつつして、自分はそのまま少し曇ったままの空を自然の中歩いていった。まだ、機関車の道のりは果てしないようだ。本当にあの時、宿の支配人さんが止めてくれなければ自分は暴走したままこの計画に片足を突っ込んだままだと思う。

主役は今

 何分ほど歩いたのだろうか。かなりのハイキングというか、バスの分はカバーできたにしても様々な場所を巡り、そして栗山監督や地元の町の風情を感じつつ…と副産物を思いつつ到着した。
 自然豊かな場所、農場のような場所に、その役者はいる。
 かつて、夕張炭鉱から鉱石や旅客の輸送に奔走した蒸気機関車・夕張鉄道の21号機関車である。
 だが、この位置から眺めていると完全に何も見えないというか完全にパーツが一緒過ぎて
『9600形同然』
な状態になっている。もう少し接近しつつ。そして部品や看板類なども見ていこう。

 こうして出会うと、この機関車が
『9600形ではない別形式の機関車』
として使用されていた事がよく分かるだろうか。
 ナンバーは『21』を表記し、煙室のハンドルはそのまま出張った状態になっておりドリルのようだ。そして、9600形独特の重厚感。(コレは少し言葉を丸めすぎか)こうして見てみると、
『9600形としての個性を維持しつつした私鉄蒸気』
という正にその感覚である。
 保存環境としては、自然豊かな公園の中にポツンといる…のもであるが、機関車を保護する為の屋根も装着されており機関車にとって良好な環境になっている。


 機関車の前に立ってみる。
 感覚としては完全に北海道形の9600形に対面したような気分である。しかし、自分の中では
『北海道といえば独自進化した・独自発展した私鉄たちの車両』
というイメージがあり、手軽に会ってみたかった機関車・車両の1つであった。(それでも駅アクセスは非常にかかってしまうが)
 煙室前に装着された巨大なコンプレッサーだろうか。その主張と、スノープラウの大きさ。そして看板の大きさがまた刺さってくる。この看板には果たしてどのような表記がなされているのだろうか。

 看板を拡大して撮影したもの。
 どうやら、夕張鉄道で使用されたレールがこの機関車の展示では使用されているようだ。
 この他にも、栗山駅の周辺ではレールに関しての展示が多く、鉄道への盛んな保存活動。また、夕張鉄道の継承に関しての動きを感じたのであった。
 しかし、そんな肝心の看板だが文字が掠れて全く解読できないのが難点になっている。文字の更新や看板の張り替えもなさそうな所をみると、イマイチ展示の紹介としてはピンと来ないのが正直な感想だろうか。

 一応、看板からレール方向を覗いたもの。
 レールの配置としては三線軌条のように見えるが、実際の夕張鉄道のレールはどちらだったのだろう。看板の文言・文章を察して解読した辺りでは『夕張鉄道使用のレール』なのはハッキリとしたのだが、その先がよく分からず。
 やはりこのレールの展示は、イマイチにピンと来ない…パンチの少ない展示であった。
 自分の感想・そして鉄道にある程度の知識を持ってこの展示を初見で発見してしまうと
「夕張鉄道は三線軌条で運転していたのか?」
と勘違いされてしまいそうな展示だ。もう少し細かい解説。そして経年劣化した看板の更新や説明の詳細化を願いたいところである。
 栗山が夕張鉄道の拠点として。そして夕張鉄道隆盛の場所としてその発展と功績を見届けた場所として、このレールに関する展示も改良を願いたいものだ。

その対面にして

 この機関車は
『外見や観察した部分では9600形蒸気機関車と変わらない』
と何度も紹介しているが、この機関車最大の特徴はこの部分である。
 やはり、他の9600形機関車では見かけない『21』の番号と煙室のハンドルに関して。
 自分にとって。この夕張鉄道の『21』号機関車は思い出のある機関車なのである。本当に対面できた時の感動。そしてその出会いに関しては一入の気持ちというものが籠っていた。

※モノクロフィルターにて撮影しました。

 この機関車の存在。そして夕張鉄道の存在をはじめて知ったのが、これまた中学時代に眺めていた『昭和のSL映像館・北海道編』。この映像の私鉄機関車に関する映像パートに、夕張鉄道の21号機が登場しているのだ。しかも、ラッセル車を連結した除雪シーンにて。今でこそその姿に感動し、
「おぉぉ!!」
と声を上げてしまうほどその映像の価値が分かるのだが、中学当時には
「夕張鉄道が存在していた」
というニュアンスでしか分かっていないものであった。自分にとってはその領域。だが。そんな中でも北海道の中で活躍していた個性的な進化・発展を遂げていた私鉄蒸気たちには少し火を付けられた気持ちが中学時代にはあったのだ。
「この機関車たちの活躍が本物だったのか知りたい」
という野心のようなものだろうか。
 当時に見ていた、『〜SL映像館・北海道編』に登場していた北海道の私鉄蒸気たちは夕張鉄道以外だと『美唄鉄道』「寿都鉄道』『雨宮森林鉄道』だったような記憶である。今でも残しているが、あまり濃い記憶がない。当時はあまり美味しいと思っていなかったのかなぁ。

 ここからはキャブを観察してみよう。
 9600形といえば、やはりこの大正クラシカルなスタイルに加えてこの小さな動輪だ。この動輪には、かつての輸入蒸気機関車からの脱却と牽引力向上を目指して蒸気機関車の国産化と強大な蒸気機関車の設計に奔走した島安次郎先生の思いが反映されているのだが、そうした事に関しては再三再四の解説。そして、ここで話だすと(書き出すと)もはや理科数学の領域にも達してしまいそうにもなるので、割愛しておこう。
 という事で、9600形の面影が感じられつつもまた私鉄の蒸気機関車独特の空気を持っている姿が感じられる。回り込みつつ見ていこう。

 通常、キャブの外側にはナンバープレートが配置されているがこの夕張鉄道21号機では『夕鉄紋』とされる夕張鉄道の社紋が掲揚されている。夕鉄紋…に関しては前々画像のキャプション欄をご覧頂くと、その意味が記されている。
 そしてこの夕鉄紋の下には何かしらの銘板が剥がれ落ちたような跡が残されている。製造銘板などが残っていたのだろうか。
 そして、この機関車が大正製造の(実際の製造年代は違うかもだが)機関車の血脈を継いでいると感じるところにリベット打ちのヶ所が散見される。D50形。D60形。C51形といった大正・昭和初期の蒸気機関車ではこうしたスタイルの溶接の跡をよく見かけるものだ。

 テンダー側に回り込んで、撮影。
 こちら側に関しても先ほどと同じくして『21』のナンバーが掲出されており私鉄機関車としての個性を打ち出している。
 そしてこの機関車を全体的に眺めていた手前に感じたのだが、前照灯(このテンダー部分もそうだが)のガラスが欠損している(意図的に交換したのだろうか)が気になる。公園という場所の保存性質。そして人々の接する場所として安全性を考慮してのガラス撤去…?とも考えられそうだが、しかし前照灯がダミーとしてガラスが入っていないのはまた切なくなるものだ。
 左下部を見てみると、前照灯だけではなく尾灯らしきものもダミーに交換されているのがよく分かる。破損や悪戯を考慮しているのだろうか。と今一度記事執筆に関して再考してみるところだ。
 折角の姿が残っているのに、こうした部分に関しては少し物足りなさを感じてしまう。
 テンダー側の連結器からは、貨車・客車との併結に使用するジャンパ線が確認できる。ジャンパ線を遠目でも視認できるように張られている保存の機関車も今では中々居ないのではないだろうか。(少なくとも公園で保存だと余計に)

 キャブ反対側に回って、機関車を再度確認。
 恐らく、通常の機関車での『区名札』とされるものがこの機関車にも搭載されていた。しかし、通常の9600形とは異なっているのが特徴である。
 大正の主流国産貨物蒸気と同じような特徴やヶ所を持っていながらにしても、微妙な変化には変化というものが生じてくるのである。
 しかし、それが私鉄機関車としての機関車の魅力を引き出しているのだろう。
 そして、リベット打ちの溶接についても日陰の構造でよくわかるようになっていた。忘れてはならないのは、夕張鉄道の車両として授かった夕鉄紋。この証は反対側だったとしても燦然なる輝きを見せていた。

 キャブ内への階段が設置されていたので、入ってみる事にする。
 しかし、運転台に関しての感想で言ってみると機関士の座る座席。(座席と言って良いのだろうかアレは)そして機関助士の立つスペース、と運転関係設備については大概が9600形と遜色がなさそうに感じた。
 反対側、テンダーを覗いてみる。
 国鉄の車両。そしてよく蒸気機関車で確認する『架線注意』の表記が多少の劣化を帯びつつも設置されていた。
 後方、テンダーへの視界がよく見える。テンダーには何も積載されていないようだ。

 キャブを少し降りつつ。屈んで写真を撮影したものがこの写真だ。
 前方のデフレクター(煙よけ)に関してなどを見ていると完全に9600形というかシルエットのスタイルは大正蒸気機関車然としている姿をしているのだが、徐々に夕張鉄道の機関車としてのシルエットが姿を見せてくる。
 だが、こうしてもわかるように昔の列車。蒸気機関車からの運転操作というのは視界が狭く大変なるものであった。雪対策を優先したとしても、走行中の視界に関しては少々確保が難しいようにこうして見ても感じる。
 この環境下の中、正確な運転と停止位置や制動・積載などを考えながら走った先人たちの労力に改めて敬意を表してしまうばかりである。
 一通り、蒸気機関車の観察が終了した。

炭山と夕張

 先にこの情報について、記してしまうとしよう。この旅路でも後に新夕張方面に戻る事になったのだが、この話を書くチャンスはココだと思ったのでココに記す。
 夕張が炭山となり、鉄道がその黒々とした至宝を日本中の血液のように運び続けたのには、本当に長い伝統の歴史が存在している。
 夕張で石炭採掘が開始されたのは明治時代にまで遡るのであった。時は明治23年である。炭鉱は明治24年から開始されていったが、それ以降は石炭によって経済を支えられ、町として生き抜いてきた。
 昭和になって夕張市が誕生し、町は発展していく。
 昭和の炭鉱史としては昭和40年の坑内爆発で死者62名を記録。昭和43年の坑鉱内火災事故で死者31名の事故…と不慮な事はあったものの、着実に様々な会社に事業者の参入を経て、夕張の炭山と石炭の歴史は歩まれていった。

 時代の加速、に黒いダイヤは抗えない。かつては黒々とした至宝であった石炭も、昭和48年以降閉山を余儀なくされていく。昭和50年、55年。炭鉱は次々に夕張から姿を消していった。
 その後、昭和60年には再び炭鉱内でのガス爆発事故が発生し死者62名という大惨事になってしまった。
 しかし、そんな中でも市の歴史と共に炭鉱は動いていくものだ。平成に向かっての時代の中、炭鉱の血が絶える事は何とか防がれ、時代は昭和の終わりを迎えていたのであった。
 だが、かつての夕張炭山の栄光はもう遠いものになってしまっていた事は明らかである。少しずつ、炭鉱の時代は。炭山の終焉は近づいているのであった。

 時は平成に突入していく。何とか残存した炭鉱の血であったが、平成2年に再び炭鉱が閉山してしまう。
 この歴史にて、夕張炭鉱の長い歴史が終了したのであった。度重なる事故。そして時代に抗えない経営危機などを経て、夕張の炭鉱史は遂に幕を下ろしたのであった。
 そんな夕張の炭鉱の功績は、昭和58年に市の新しい観光施設としてオープンした『石炭の歴史村』に引き継がれ現在も多くの人々に語り継がれているのである。
 他にも、夕張の観光資源としてスキーリゾート。全国的にも有名な夕張の代名詞となった『夕張メロン』の栽培などで有名になり、夕張は新たな魅力を獲得したのであった。雄大な自然の活用なども盛んに実施されており、炭鉱の歴史に勝るとも劣らない第二の道を歩み始めているのである。

※モノクロフィルターを使用して撮影。

 現在は、夕張では映画祭の開催。そして火災が発生してしまった模擬坑道の復旧作業と着実に復興の道やカラフルな町への歩みを進めている。
 少し暗いニュースばかりな令和の夕張だが、何とか明るい光が差し込む事を祈るばかりである。
 と、先ほどまでの尺を利用して蒸気機関車の様々な写真をちゃっかり載せていました。
 そして自分の居る場所は栗山町。夕張とは隣町関係の血縁なのですが、まぁここは『夕張鉄道』の沿線史として沿線の地理。または夕張鉄道の原点を見つめる気持ちでご覧いただければ。

なんて牧歌な場所でしょうか

 当日は自分以外にも、公園には来訪の人々がいた。自分がカメラを向ける直前に、幼稚園の団体が記念撮影をしていたのである。
 地元の少年少女たちには憩いの場になっているのだろうか。
「あの、すいません。映ってなかったですか?」
いかにもチーズ牛丼食ってそうな雰囲気で質問する。
「大丈夫でしたよ〜。」
の一声で解決した。あぁ、良かった。子どもさんのお父さんお母さん、こんなよく分からない冒険少年の映った成長の記録なんて見たくもないでしょう。
 あ、場所を今まで言ってなかったですけど(早くしろ)、この場所は栗山公園。ある意味、町のランドマーク的な場所だと思います。

 丁度、この写真を撮影していた頃合いに話し合った幼稚園の先生から
「機関車の写真を撮りに来てらしたんですねぇ」
と何か褒められるように言われ、少々ギクり。
素直に言いいづらい雰囲気ではあったのだが
「そうですね…ははは…」
と嘘をついているような人間のそぶりにて反応してしまう。全く、本当に社会からの無茶振りに弱いのだから。

 機関車周辺には、野菜売りやアイス屋さん、揚げたての惣菜屋さんなど。かなり牧場?というか解放的な公園になっている。
 またいつか話題で掲載したいと思うが、近くには野球場もあった。しっかりとスコアボードも確認したので、アレは立派な野球の出来る場所だろう。
 この公園内では、少なくとも自分での食糧調達。また、お弁当を広げてのピクニックと様々な事が出来そうな公園だった。
 案内所のような場所があったので、帰り…栗山駅までのバスの停留所を質問してそのまま駅方面の帰路に向かう。再び、室蘭本線の旅路が再開されようとしていた。
 さらば、黒いダイヤの届け人。銀幕の役者よ。

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