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地方映画史研究のための方法論(34)ノンフィルム資料分析②ジェラール・ジュネット『スイユ——テクストから書物へ』

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開催した。

2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023年度は計26本の記事を公開した。杵島和泉さんと続けている研究会・読書会で作成したレジュメをに加筆修正を加えた上で、このnoteに掲載している。年度末ということで一時休止していたが、これからまた不定期で更新をしていく予定。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論
(32)佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論

ノンフィルム資料分析
(33)ロラン・バルト「作品からテクストへ」

ジェラール・ジュネット

ジェラール・ジュネット(1930 - 2018)

ジェラール・ジュネット

ジェラール・ジュネットGérard Genette、1930-2018)は、フランス・パリ生まれの文芸批評家・文学理論家。パリ高等師範学校で学び、1967年からは社会科学高等研究院の教授を務める。構造主義の影響下で、文学の一般的形式や物語の構造の解明を目指す「詩学」としての研究活動を展開。1970年にはツヴェタン・トドロフらと『ポエティック』(スイユ社)を創刊し、編者としての仕事もこなしながら多くの著作を発表し、フランスの文学研究を牽引した。中でも1972年に発表した「物語のディスクール」(邦訳『物語のディスクール——方法論の試み』花輪光・和泉涼一 訳、水声社、1985年)は、プルーストの『失われた時を求めて』を主な分析対象として様々な小説技法の整理と体系化を行い、その後の「物語論」(ナラトロジー)研究の基礎となっている。

主な著作に、『フィギュールⅠ』(花輪光 監訳、水声社、1991年、原著1966年)、『フィギュールⅡ』(花輪光 監訳、水声社、1989年、原著1969年)、『フィギュールⅢ』(花輪光 監訳、水声社、1987年、原著1972年)、『アルシテクスト序説』(風の薔薇、1986年、原著1979年)、『ミモロジック——言語的模倣論またはクラテュロスのもとへの旅』(花輪光 監訳、水声社、1991年、原著1976年)、『パランプセスト——第二次の文学』(和泉涼一 訳、水声社、1991年、原著1982年)、『スイユ——テクストから書物へ』(和泉涼一訳、水声社、2001年、原著1987年)など。

テクストから書物へ

前回紹介したロラン・バルトは、「作者の死」や「作品からテクストへ」といったスローガンを掲げ、作品を制作した「作者」の意図やメッセージを正しく読み解こうとするのではなく、引用の織物であるテクストから「読者」が様々な意味を無限に生成していくプロセスを記述しようとした。

それに対してジュネットは、1987年に発表した著作『スイユ——テクストから書物へ』(和泉涼一訳、水声社、2001年、原著1987年)において、文学作品のテクストが独立して提示されることは稀であり、多くの場合、作者名やタイトル、序文、挿絵などを伴って読者の前に現れると指摘する。要するに、私たちは「書物」という物質性を備えたものとしてテクストと接するのであり、その形態は、テクストの受容や読みにも大小様々な影響を与えるだろう。邦訳書の副題にあるように、ジュネットは「テクストから書物へ」と関心を向けるよう促したのである。

ノンフィルム資料分析への応用

スイユ』はあくまで文学研究として書かれているが、ジュネットは同様の観点を他の芸術——例えば「音楽や造形芸術におけるタイトル、絵画の署名、映画のクレジットタイトルもしくは予告篇、それに、展覧会のカタログや楽譜の序文(リスト『巡礼の年』のための1841年の前書を見よ)、レコードジャケット」(pp.457-458)など——にも適用できることを示唆している。実際、私たちが行っている地方映画史研究およびそれに関連したノンフィルム資料映画関連資料)の分析にも、ジュネットの研究は大いに参考になるだろう。作品に付随したタイトルやエンドクレジット、字幕、吹替音声、さらにはチラシやポスター、映画館プログラム、パンフレット、予告編やテレビCMなどを詳細に分析することによって、映画監督や製作・配給会社、興行主・映画館主など種々の映画の送り手が、いかなる仕方で観客に働きかけ、いかなる作品の受容や読みへと方向づけようとしているかを探ることができるのだ。

『スイユ——テクストから書物へ』(1987)

パラテクスト

ここからは、『スイユ』の序論を中心に要約することで、同書の研究目的と分析の方法論を確認する。

文学作品のテクストが、他の何者からも独立した裸の状態で提示されることは滅多にない。多くの場合、そこには作者名やタイトル、序文、挿絵などが付随しており、テクストはそれらに補強された姿で私たちの元に現れる。ジュネットは、このようにテクストに伴う生産物を、作品の「パラテクスト」(paratexte)と名づけている。パラテクストはテクストを取り囲み、延長することで、私たちの生きる社会においてテクストが「書物」という形態で現れ、「読者」に受容、ないしは消費されることを保証しているのだ。

もし仮にジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』(1918-1920)のテクストのみが与えられ、どう読むべきかの手がかりや『ユリシーズ』というタイトルさえ付されていなかったら、私たちはそのテクストをどう読めば良いか分からず、途方に暮れてしまうだろう。パラテクストは、テクストとテクスト外の間に存在する周縁的で曖昧な領域——敷居(スイユ)——であり、また、主に作者や作者側の人びとがテクストのより正しい受容や妥当な読みを方向づけるべく、読者に働きかける特権的な場でもある(もちろん、この働きかけが実際に意図通りに機能し、理解されるかは別の問題だ)。ジュネットは、こうした働きかけの手段および形式を探ることが、本書の主題であると宣言する。 

※スイユ社(Editions Du Seuil)から2002年に刊行されたポケットブック版『スイユ』では、オランダの画家ピーテル・デ・ホーホによる絵画《ゆりかごの横で胴着を結ぶ女性》(1660–1663)がブックデザインに使用されている。玄関扉の前に立つ少女を中心にトリミングすることによって、スイユ=敷居/境界が強調された表紙になっている。)


ピーテル・デ・ホーホ《ゆりかごの横で胴着を結ぶ女性》(1660–1663)

パラテクストは、あらゆる種類および時代の言説と実践の雑多な集合によって成り立っている。ジュネットは『スイユ』でパラテクストの予備的かつ簡略的な目録作成を試みているが、それは決して網羅的なものではないとあらかじめ断りを入れている。パラテクストは、常に普遍的かつ体系的な存在としてテクストの傍にあるわけではない。あるテクストにどのような種類のパラテクストが付随し、どのような方法と手段によってそのテクストの受容や読みに影響を与えるかは、時代、文化、ジャンル、作者、作品、同じ書物の様々な判に応じて大きく変わってくる。

読者の側からしても、すべてのパラテクストを網羅的に確認するわけではない。たとえ作者にとっては不都合であっても、皆が必ず序文を読まなければならないという義理はないし、注釈は多くの場合、それを必要とする特定の読者にのみ向けられているのである。

だがいずれにせよ、いつの時代にもパラテクストを持たないテクストが存在したことはないとジュネットは言う。単に書き写すという行為(写稿)であれ、口頭による伝達であれ、テクストに何かしらの物質性が付加されたとき、そこにパラテクスト的な効果が発生するのだ(ただし、テクストのないパラテクストは存在する。テクストが消失したり、作者が書くことを挫折したりした結果として、タイトルだけしか知られていない作品が存在するからだ)。

パラテクストの「空間的」側面——ペリテクストとエピテクスト

ジュネットは、あるパラテクスト的なメッセージの境位(位置付け)を定義するためには、①パラテクストの「空間的」側面(どこで)、②パラテクストの出現もしくは消滅の日付という「時間的」側面(いつ)、③パラテクストが言語的に現れるかその他の存在様態で現れるかといった「物質的」側面(どのように)、④パラテクストの送り手と受け手がいかなる仕方でコミュニケーションを成立させているかという「語用論的」側面(誰から誰に)、⑤そのメッセージが果たそうとする「機能的」側面(何のために)を、それぞれ確認することが必要だと述べている。以下、順に確認していこう。

①パラテクストの「場所」については、そのパラテクストとテクストとの関連から位置づけられる。大きく分けると、それはペリテクストエピテクストに分類することができるという。ペリテクストpéritexte)とは、タイトルや目次など、同じ書物の空間内で、テクストの周囲にあるもの、ときには章題や注のようにテクストの隙間に挿入されているパラテクストを指す。『スイユ』では、第1章から11章までがペリテクストに関する記述で、「刊行者によるペリテクスト」(判型/叢書/表紙と付属物/扉と付属物/組版、印刷)「作者名」「タイトル」「紹介寸評」「献辞」「エピグラフ」「序文の審級」「オリジナルな序文の機能」「その他の序文、その他の機能」「内題」「注」と並んでいる。この順序は、読者が通常の読書体験においてそれらのメッセージに出会う順序に可能な限り添わせているという。

エピテクストépitexte)とは、メディア(インタビューや対談)や私的なコミュニケーション(書簡や日記、その他)など、テクストの周囲にあるがペリテクストよりも距離を置いたところに位置するパラテクスト、少なくとも最初の時点では書物の外部に位置するパラテクストである。『スイユ』では、第12章で「公的エピテクスト」(定義/刊行者によるエピテクスト/他者による非公式のエピテクスト/作者による公式エピテクスト/公的反論/媒介/インタビュー/対談/シンポジウム、討議/遅延的な自己注釈)、第13章で「私的エピテクスト」(書簡/口頭の打ち明け話/日記/先行テクスト)が取り上げられている。

パラテクストの「時間的」側面

②パラテクストの「時間」もまた、テクストの時間的状況との関連から位置づけられる。

先行的パラテクストparatexte antérieur)とは、あるテクストの初版もしくはオリジナル版を参照基準点とした場合、パンフレットや近刊予告、新聞や雑誌での先行発表など、そのテクストよりも先んじて生産されるパラテクストを指す。

オリジナル(同時的な)パラテクストparatexte original)とは、テクストと同時に出現するパラテクストである。あるテクストの初版に付随して掲載された序文などがこれに該当する。

事後のパラテクストparatexte ultérieur)は、テクストよりも後に出現するパラテクストである。例えばあるテクストの二版刊行の際に付された序文や、数十年後の再版の際に付された序文、初版に対する批評や研究論文などがこれに該当する。

またジュネットは、事後のパラテクストをさらに二分類し、(A)単なる事後のパラテクストと、(B)遅延的パラテクストparatexte tardif)とを区別している。遅延的パラテクストとは、テクストに関連して作者が生前に書き残していた解説文や関連資料が、没後に再版されたテクストに付随して発表されるような場合を指す。

パラテクストは作者の意図や外部からの干渉によって、新たに付け加えられることもあれば、削除され、消滅することもある。また、一度削除されたパラテクストが、後に再び復活する可能性もある。こうしたパラテクストの「断続性」は、その機能的な特性と本質的に結びついている。 

パラテクストの「物質的」側面

③パラテクストの「物質的」な存在様態については、多くの場合、パラテクスト自体が一つのテクストであるか、テクストの一部として現れるという意味で、「テクスト」の次元もしくは「言語的」次元に属していると言える。

ただし、それ以外の現れ方をするパラテクストにも注意を払うべきだろう。例えば挿絵のように「図像的」な現れ方をするパラテクストもあるし、ある書物においていかなる構成がなされ、いかなる印刷がなされているかといった「物理的」次元に属するパラテクストもある。

ジュネットはまた、それらの明示的メッセージに加えて、読者=大衆がその存在を知っているだけでテクストに何らかの注釈がもたらされ、その受容に影響を及ぼすような「事実的」(factuel)なパラテクストがあると指摘する。例えばある作品が刊行された日付、作者の年齢や性別、所属、受賞歴などに関する知識は、そのテクストの受容や読みに多かれ少なかれ影響を与えるだろう。

さらには、同じ作者名で過去に発表されてきた作品の傾向や、それらの作品が属するジャンル、作品が刊行された時代背景など、あらゆる「文脈的事実」がパラテクストを構成する。それらの文脈は、「テクスト的」・「言語的」パラテクストを通じて読者に伝えられる場合もあれば、必ずしも言及されなくとも、あらかじめ読者がその文脈を知っている場合もある(周知性)。 

パラテクストの「語用論的」側面

メッセージの送り手と受け手が、いかなる仕方で言語活動を行い、コミュニケーションを成立させているかを問う言語学の学問分野は「語用論」と呼ばれる。ジュネットは、④パラテクストの「語用論的」境位は、(1)受け手の性質と送り手の性質、(2)送り手の権威や責任の度合い、(3)発話内的な力などによって定義されると述べている。以下、3項目を順に見ていこう。

  1. 受け手と送り手の性質
    送り手は、そのパラテクストの推定上の帰属先であり、その責任を引き受ける者として定義される。テクストおよびパラテクストの「作者」が送り手となることが多いが、「刊行者」が送り手となったり、両者が共同で送り手となることもある。また第三者が序文を寄稿する場合など、「他者」を送り手とするパラテクストや、インタビュー記事のように、作者だけでなく「質問者」が責任を共有し、送り手となるパラテクストもある。
    受け手は、大まかには「大衆」であると定義できるが、そうすると潜在的には全人類にまで対象が広がってしまうので、いくつかの点で特定化する必要がある。ジュネットは、想定される受け手の種類に応じて、公的パラテクストparatexte public)と私的パラテクストparatexte privé)を区別している。公的パラテクストは、タイトルやインタビューなど大衆一般に向けられたパラテクスト、あるいは序文や書店・批評家向けの紹介寸評などテクストの読者にだけ向けられたパラテクストがこれに該当する。他方の私的パラテクストは、作者が自分自身のために書いた日記やその他のメッセージ、手紙など、単なる個人向けに書かれたパラテクストが該当する。

  2. 送り手の権威や責任の度合い
    定義上、パラテクストは作者あるいはその協力者が常に責任を担うことを必要とするが、その責任の度合いにはいくつかの段階がある。ジュネットはそれを「公式」(officiel)と「非公式」(officieux)という語で区別する。作品のタイトルや、作者自身の序文・注釈など、作者(あるいは刊行者)によって公然と引き受けられ、回避できない責任を負っているパラテクストは「公式」のものである。他方、インタビューや対談、打ち明け話といった作者のエピテクストの多くは「非公式」のパラテクストであり、作者はしばしば「あれはその場の思いつきだ」「正確な発言じゃない」「あれはオフレコのはずだった」と述べて責任を回避したりする。あるいは作者自身が公表を許可したものであっても、新聞記事に寄稿したエッセー集や、インタビューでの発言などには何ら重要性を認めないと宣言する場合もある。また時には、「公式」か「非公式」かを作者側があえて語らず、「おのずと知られていく」ことを期待する場合もあるだろう。

  3. 発話内的な力(force illocutoire)
    パラテクストは、作者名や刊行年月日など純粋な情報を伝達すると共に、作者もしくは刊行者の意図や望ましい解釈を知らせる
    こともできる。例えば「小説」という指示は、「この書物は小説である」を意味するのではなく、「この書物を小説とみなしていただきたい」を意味している。それは単なる定義ではなく、作者が作者としていかなる名前を選び、その書物をいかなるタイトルで刊行することを選んだかという「決意」を意味している。
    パラテクストによる指示は、一種の「自己拘束」(engagement)としても働く。例えば「自伝」や「歴史」、「回想」といったジャンルの指示は、「私は真実を語ることをお約束する」という拘束力の強い契約の価値を帯びている。また「第1巻」や「第1書」といった記述は、必ずその続きが書かれるのだという約束と同じ効力を持ち、また読者にも続きを読むことを強いる、脅迫的な効力を持つだろう。
    このようにパラテクストは、「命令的」能力をも有している。書物の冒頭で「本書はこのように読まれねばならない」「以下のすべては、小説の登場人物によって語られたものとみなさねばならない」などと記し、作者が読者に直接的な勧告や命令を発したり、「各章を好きな順序で読んで構わない」「この部分は読み飛ばしても良い」と許可を与えたりするのである。
    加えてパラテクストには、それが記述するものを実行するという「遂行的」(performatif)な力もある。例えば「某氏に捧げる」といった定型表現を記載する「献辞」や、タイトルの選択、変名の使用などは、それを記述ことがそのままその内容の遂行・実現となる。

パラテクストの「機能的」側面

パラテクストの「機能的」側面の本質は、それがいかなる形式を取ろうとも、自分以外のもの(テクスト)に従属することを定められた、根本的に他律的で補助的な言説だということである。

パラテクストの諸機能は、他の空間的・時間的・物質的・語用論的側面のように、理論的にその境位を記述することができない。パラテクストの機能は、あれか/これかという二者択一的・排他的なものではなく、必要に応じて異なる目的を持たせたり、複数の目的を同時に目指すことができるがゆえに、極めて経験的で多様な対象を構成している。それらを個別に、帰納的な仕方で明らかにしていかなければならないのだ。

そこで導入し得る唯一の規則性は、様々なパラテクストの境位と機能の依存関係を分析し、そこから何種類かの機能タイプに分類すること、さらに諸々の実践とメッセージの多様性を、いくつかの基本的・反復的なテーマへと還元することだけだとジュネットは言う。実際、ここで問題とするような言説は、他の多くの言説よりも「拘束的」であり、例外はあるにせよ、頻出するパターンの数はそれほど膨大ではないのである。

共時的研究と通時的研究

ジュネットは、本研究はあくまで通時的研究(歴史を記述する試み)ではなく共時的研究(特定の時代におけるパラテクストの一覧表を作成する試み)であると言う。ただしそれは歴史の軽視ではない。事象の進化や変遷を研究するためには、そもそも、その事象をどのように定義するべきかを検討しておかなければならないのだ。例えば歴史的・伝統的に「序文」と呼ばれてきたものを、一方ではより詳細に分類し(作者による序文か他者による序文か、テクストと同時に発表されたものか事後的に書かれたものかなど)、他方ではより広汎な全体に統合させることによって(序文はペリテクストの一種に位置づけられる)、溶解させること。この作業を踏まえることで、初めて、作者による「序文」が古代ギリシャの時代から——物質的側面を除けば——大きな変化が無かったことを明らかにすることができる。またこの研究により、従来は無視・軽視されてきたパラテクストや、「序文」のようには名づけられていなかったパラテクストを見出し、研究の俎上に載せることもできるようになるだろう。

パラテクスト要素のなかには文学と同じくらい古くからのものがあるし、その前史を構成する何世紀にもわたる「隠された生」を生きた後、書物の発明とともに生まれたものもあり、その間に消滅してしまったものもある。そして、ある要素が別の要素にとって代わって、同様の役割をさらにみごとに、あるいはより拙劣に果たすことも珍しくはない。最後に、ある要素は、他の要素よりも急速な、あるいはより有意的な進化を体験したように、あるいは依然として体験しつつあるように思われる(とはいえ、安定も変化と同じく歴史的な事象なのだ)。

ジェラール・ジュネット『スイユ——テクストから書物へ
和泉涼一訳、水声社、2001年、p.24 

「作者」の復権——水門としてのパラテクスト

ジュネット自身が述べるように、『スイユ』におけるパラテクストの分類は網羅的ではなく、ノンフィルム資料の分析に応用するためには不足な点もある。例えば第12章と13章で論じられるエピテクストは、公的であれ私的であれ、文学作品の作者もしくは作者側の人びとが発表するものが大部分を占めている。現在のポピュラーカルチャーで言うところの二次創作や、SNS上のレビューのように、読者自身が生み出すエピテクストについては、あまり触れられていない。

  • 作者の死」を掲げたロラン・バルトと異なり、ジュネットは「読者」の無際限に自由な意味の生産よりも「作者」にとって望ましい作品の受容や読みに読者を方向づけるために、パラテクストがいかなるかたちで機能しているかを明らかにすることを重視している。パラテクストとは一種の「水門」(p.458)であり、常に一定の「水位」を保たせるために設置されている。作者はテクストだけでなく、パラテクストの任務を遂行するためにも、偉大な職業的良心を発揮するのだとジュネットは言う。

敷居や境界としての機能を重視する以上、パラテクストはあくまでテクストに付随するものとして論じるべきであり、パラテクスト自体を独立した対象として扱おうとしたり、無闇矢鱈に研究対象を拡大して「すべてはパラテクストである」などと気軽に主張することは慎まなければならない。「パラテクストについての言説が忘れてならないのは、それが関係するのはある言説に関係する言説だということであり、またその対象の意味は意味の対象に、やはりひとつの意味である対象に起因する、ということだ。敷居(スイユ)は越えるためにある」(p.461)。

地方映画史研究への応用

 オフ・スクリーン研究

ジェラール・ジュネットが提唱したパラテクストという概念を、映画研究やテレビ研究の分野に適用したのが、メディア研究者のジョナサン・グレイである。グレイは『別売されるショー——プロモーション、スポイラー、その他のメディアのパラテクスト Show Sold Separately: Promos, Spoilers, and Other Media Paratexts』(ニューヨーク大学出版局、2010年、未邦訳)において、予告編やDVDの映像特典、ウェブサイトやレビュー、ファンが作る作品など、映画やテレビ番組を取り巻くパラテクストが、視聴者にどのように働きかけ、どのような反応を引き起こしているのかを分析することで、それらが、映画・テレビの位置付けや定義付け、意味の生産にどのように関与しているのかを論じる「オフ・スクリーン研究 off-screen studies」を提唱・実践している。同書については、次回の「地方映画史研究の方法論」であらためて詳しく取り上げたい。

また日本では、社会学者・メディア研究者の近藤和都が、グレイのオフ・スクリーン研究をいち早く導入し、『映画館と観客のメディア論——戦前期日本の「映画を読む/書く」という経験』(青弓社、2020年)を著している。近藤は「映画やテレビ番組は、私たちの生きられる環境を横断する映画的・テレビ的テクストという巨大で広くいきわたった存在の、ほんのわずかな一部分でしかない」(『映画館と観客のメディア論』pp.14-15。原文は『Show Sold Separately』p.2)というグレイの言葉を引きつつ、戦前期の映画興行においても、一つの映画作品という「一次的なメディア」を公開するために、映画館プログラムや新聞広告など多量の「二次的なメディア」が生産・流通させられるという、捉えようによっては歪な生態系が形成されていたと指摘している。従来の映像文化に関する研究は、主に「一次的なメディア」に焦点を当ててきたが、それだけでは映像文化の経験を十全に理解することはできない。「二次的なメディア」が歴史的にどのように受容されてきたのかに焦点を当て、それ自体が備えている論理や、そこから展開された多様な実践を分析することが不可欠である。 

パラテクストとしての「タイトル」

ジェラール・ジュネットが、パラテクストをあくまでテクストに付随する敷居として取り扱うよう求めているのに対して、ジョナサン・グレイは、パラテクストもまたテクストを構成する一部となることを強調している。人びとは映画の「本編」を鑑賞する以前から——あるいは、結局一度も「本編」を鑑賞する機会を持たないまま——様々なパラテクストを通じてテクストの生産を行っている。要するに、その映画に関するイメージや期待を作り上げているのだ。

近藤和都はヴィクター・バージンの『The Remembered Film』(Reaktion Books、2004年)を参照しつつ、このような、広告や批評などを目にするうちに実際には見ていない映画をよく知っていると感じるようになる経験を、〈擬制的な映画体験〉と呼び表している(『映画館と観客のメディア論』p.18)。こうした指摘は、地方映画史研究においてとりわけ重要な意味を持つだろう。鳥取のような地方都市においては、映画雑誌や新聞記事などで面白そうな映画作品の存在を知っても、地元の映画館では上映されず、見ることができないという経験をすることが多々ある。本編ではなく、タイトルやスチル写真の印象が強く残り、見ていないはずの映画のイメージや記憶が形成されるのだ。

中でも「タイトル」は——特に映画に強い思い入れがあるわけではない人びとにとって——まだ見ていない映画のイメージ形成に多大な関与をしてきたはずである。例えば『日本海新聞』では、1950年代後半から、監督名も出演者名もジャンルも付されず、ただタイトルだけが並ぶ「映画案内」欄が紙面の映画情報の主流になっていくのである。

きょうの映画案内
(1961年07月29日付『日本海新聞』)

書物から映画へ

またグレイは、パラテクスト論を映画・テレビ研究に導入する際、ペリテクストエピテクストの区別については簡潔に紹介するだけに留め、自身が行う分析には使用していない。文学研究の書である『スイユ』では、パラテクストが「書物」に直接的に付随しているか、その外部にあるかという区別が——便宜的な区別であったとしても——有効だったが、映画研究においては、その区別があまり使い勝手の良いものではなかったということだろう。

だが、ジュネットが『スイユ』の章立てに採用した、通常の読書体験において読者が出会う順序に添ってペリテクストを記述していくという方法は、例えば「映画館で映画を鑑賞する」という経験をあらためて分析しようとする時などに、一つの有効な手がかりとなる。映画館を訪れ、その看板や内装を目にするところから始まり、座席に着くと、同劇場で近日公開予定の映画の予告編、「NO MORE 映画泥棒」のCM、劇場からのマナーに関するお願いや避難経路の指示、洋画の場合は邦題や、日本語字幕および吹替の翻訳者名などが映し出される。本編が始まる直前には、製作会社のロゴアニメーションが流れ、作品のタイトルや監督名、主要キャストや出演者のクレジットなどが後に続く。他にも、本編の前後に映倫マークが表示されたり、「書物」の場合と同様にエピグラフや献辞、注意書き(「この物語はフィクションです」など)が付される場合もあるだろう。そして、これらすべてのペリテクストは、映画本編の受容や読みにも、大小様々な影響を与えるのである。 

「NO MORE映画泥棒」劇場用CM

20世紀フォックス映画のロゴ

映画倫理機構(映倫)のロゴ

 

 

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