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地方映画史研究のための方法論(36)パラテクスト分析④ポール・グレインジによるエフェメラル・メディア論

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


「W iii Z_vol.0」 於 イタリア会館Spazio

2024年9月14日(土)、原田真志さんが主催するイベントシリーズ「W iii Z」の初回として、原田さんの監督作品『visions/おもいでキネマたまわります。』の上映会がイタリア会館 Spazio(福岡市)で行われます。私は上映後のトークにオンラインで参加予定(17:00開場、17:30『visions』上映開始、19:00頃トーク)。原田さん、杵島和泉さんと共に、映画の記憶と記録(アーカイブ)のありようの変化について議論します。お近くの方はぜひともご覧ください。

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」、「見る場所を見る3+——親子で楽しむ映画の歴史」を開催した。

2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんと共同で行っている研究会・読書会で作成したレジュメを加筆修正し、このnoteに掲載している。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論
(32)佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論

パラテクスト分析
(33)ロラン・バルト「作品からテクストへ」
(34)ジェラール・ジュネット『スイユ——テクストから書物へ』
(35)ジョナサン・グレイのオフ・スクリーン・スタディーズ
(36)ポール・グレインジによるエフェメラル・メディア論

エフェメラル・メディアとは何か

ポール・グレインジ(1972-)

 ポール・グレインジPaul Grainge)は1972年生まれの映画・テレビ研究者。ノッティンガム大学教授。映画やテレビ、現代のデジタルメディア文化におけるブランディングとプロモーションに関する著作を幅広く執筆してきた。

主な著作として、単著に『モノクロームの記憶——レトロアメリカのノスタルジアとスタイル Monochrome Memories: Nostalgia and Style in Retro America』(ブルームズベリー出版社、2002年、未邦訳) 、『ブランド・ハリウッド——グローバルメディア時代におけるエンターテインメントの販売 Brand Hollywood: Selling Entertainment in a Global Media Age』(ラウトレッジ、2008年、未邦訳)、編著に『記憶とポピュラー映画 Memory and Popular Film』 (マンチェスター大学出版局、2003年、未邦訳)、『映画の歴史——入門・教科書 Film Histories: An Introduction and Reader』(エディンバラ大学出版、2007年、未邦訳)。『エフェメラル・メディア——テレビからYouTubeへと移ろうスクリーン文化 Ephemeral Media: Transitory Screen Culture from Television to YouTube』 (英国映画協会、2011年、未邦訳) 、共著に『プロモーション・スクリーン・インダストリーズ Promotional Screen Industries』(ラウトレッジ、2015年)などがある。

エフェメラル・メディア(Ephemeral Media)

前回・前々回も紹介した社会学者・メディア研究者の近藤和都は、単著『映画館と観客のメディア論——戦前期日本の「映画を読む/書く」という経験』(青弓社、2020年)で戦前期の「映画館プログラム」の分析を行うための手がかりとして、ジェラール・ジュネットやジョナサン・グレイが用いる「パラテクスト」、そしてポール・グレインジらが提唱する「エフェメラル・メディア Ephemeral Media」という概念を参照している。

グレインジは、2011年に刊行した編著『エフェメラル・メディア——テレビからYouTubeへと移ろうスクリーン文化 Ephemeral Media: Transitory Screen Culture from Television to YouTube』(未邦訳)のイントロダクションで、エフェメラル・メディアの定義付けをし、またその語に含まれる複数の意味や文脈を概説している。

さしあたり、概念としての「エフェメラル Ephemeral」は、儚いものや刹那的なもの、短いものを意味する。またこの語がスクリーン・メディア研究で用いられる場合には、そこに文化的価値の問題が加わり、周縁的なものや使い捨てのものといったニュアンスが含み込まれる。例えば著作権の保護期間が切れた孤児フィルム(オーファンフィルム)や、企業が自社宣伝のために製作する産業映画・広告映画、トレーニングビデオ、ホームムービー、教育映画、宗教や医療衛生に関する短編映画など、劇場公開される映画とは異なるジャンルの作品群を論じる際に、エフェメラルという語がしばしば用いられてきた。それらは人びとの日常生活と密接に結びつき、歴史的にも重要な役割を担ってきたにもかかわらず、研究や批評の領域では長らく価値が認められず、周縁化されてきたものである

デトリタス——エフェメラルな物質性と発見法的価値

グレインジは、エフェメラル・メディアを論じた先行研究として、映画・メディア研究者のアメリー・ヘイスティ(Amelie Hastie)の議論を紹介している。ヘイスティは、エフェメラル・メディアおよびその体験を論じるためには「物質性の感覚」を維持・回復することが重要であると主張し、残骸や有機堆積物を意味する「デトリタス Detritus」という概念を提唱した(「イントロダクション:映像とデトリタス——エフェメラ、物質性、歴史 Introduction Detritus and the Moving Image: Ephemera, Materiality, History」『Journal of Visual Culture』6巻2号、2007年、未邦訳)。デトリタスは、映画チケットの半券や、時代遅れのテレビ、コンピュータなど、コレクターの収集物になるか、さもなければ廃棄物になるようなもの、あるいは、スクリーンテストやアウトテイク、テレビ広告、現代美術のインスタレーション空間など、一時的な形態や一時的な場所として具現化することもある。

映画館プログラム『リツリンニュース』No.10(個人蔵)

メディアの物質性に注目することで、コレクターによるテレビ放送の録画ビデオの交換や、ネット通販サイトでの中古映画ソフトの取引のように、従来の映画研究やメディア研究では見落とされたり、軽視されたりしてきたものにまで研究対象を拡大することが可能になる。エフェメラルは、日々移ろい、循環していく時間や価値基準の中で営まれるメディア体験を考察するために有効な概念と言えるだろう。

実際、映画研究の分野においてエフェメラル概念は、映画の公開時期と文化的地位に関する議論(特に劇場未公開映画や孤児フィルムなどの降格したカテゴリ)、ポスター、プレスブック、ロビーカードといったパラテクストを扱う議論において注目されてきた(近藤による映画館プログラム研究もその一例である)。こうした資料を取り上げることで、これまで見落とされてきた現象や軽視されてきた実践に光を当て、従来の映画研究を批判的に捉え返すことができる。エフェメラル概念は、映画の表象や流通、消費やファンによる収集行為など、特定の問題について考えるための「発見法」的な装置として用いられてきたのである。

エフェメラル・メディアの2つの軸——メディア形式と時間の体制/伝達の体制

ただしグレインジは、エフェメラルという概念は——デトリタスとして語られるような——失われたメディアおよび残存するメディアに関する議論だけに収まるものではないと言う。『エフェメラル・メディア』では、視聴時間の「短さ」によって定義されるメディアの形式、例えばテレビCMやYouTubeなど、数秒から数分で鑑賞したり消費したりできる、時間的に圧縮された様々なメディアも、エフェメラル・メディアの一種として扱われている。グレインジは、現在の動画文化におけるエフェメラル・メディアの重要な特徴として、個々の動画の「短さ」によるエフェメラルな視聴に加え、そうした短編動画や映像の断片が無数に溢れかえっているという量的な膨大さや、それらの循環的な受容・消費が行われている点を挙げる。私たちは、一方ではプラットフォームとデジタル・チャンネルとの飛躍的な成長により、遍在する視聴環境(スマホやパソコン等)に向けて大量の短編動画が即時的に配信される様子を目の当たりにしてきたが、他方では、YouTubeやGoogleのようなメディア・アーカイブの台頭により、一度公開された動画がいつまでも残り続け、視聴者コミュニティに共有される時代を生きている。エフェメラル・メディアは、持続時間の短さや速さ、即時性といった特徴を持ちながらも、同時にそれらが長期的に保存され、アーカイブとして残りもするという、二重の動きを見せているのである。

以上を踏まえると、エフェメラル・メディアの分析を行うためには、さしあたり①メディアの形式と時間の体制(持続時間の短さや速さ)と、②伝達の体制(流通や保存、価値の移ろいやすさ)という2つの軸で考えることができるだろう。また②伝達の体制には、文化的地位や価値の移ろいやすさという観点が含まれていることも重要である。エフェメラル・メディアには、歴史的に疎外されたり、アーカイブされなかったり、社会的に力の弱い集団によって生産・消費されたりしたために、意図せずして儚いものになってしまったメディアも含まれるのだ。

『エフェメラル・メディア』の主な研究対象と目的

エフェメラルは相対的な概念であるため——短編のメディアであれ、短命のメディアであれ、あるいはその両方であれ——様々なメディアに適用・応用することが可能である。例えば映画やラジオをエフェメラル・メディアとして扱った論集を編むこともできるだろうし、ビデオカメラやパソコン、携帯電話・スマホ、電子メール、ウェブサイト、検索エンジン、口頭でのコミュニケーション、その他様々な対象を扱った論集を構想することもできるだろう。

グレインジの編著書『エフェメラル・メディア』では、エフェメラル・メディアとしてのテレビとデジタルメディア・プラットフォームの関わりを中心として、オンラインテレビやウェブドラマ、CGM(消費者生成メディア)など、多様なエフェメラル・メディアが事例として紹介されている。またいくつかの論考では、従来のスクリーン・スタディーズにおいて優遇されてきた映画作品やテレビ番組自体の分析ではなく、それらのコンテンツに関連して存在するパラテクスト的な動画像に注目し、その重要性を主張することが試みられている。

このアプローチは、前回紹介したジョナサン・グレイの「オフスクリーン・スタディーズ」とも親和性があるが、『エフェメラル・メディア』では、特定の映画作品やテレビ番組を中心に置き、それをより深く分析するためのパラテクストとしてエフェメラル・メディアを論じるわけではない。むしろ、それらのメディアが持つ持続的で循環的な時間の流れに注目し、その時間的な特性が、スクリーンをめぐる娯楽と視聴者をどのように出会わせ、どのような関わりを持たせるのかを探求することが目指されている。 

エフェメラル・メディアの歴史

写真と映画——エフェメラルなものの表象可能性、あるいは存在のアーカイブ可能性

続いてグレインジは、歴史を遡り、エフェメラル・メディアと近代史とを結びつけて語る議論が以前から存在していたことを確認する。例えば映画・メディア研究者のメアリー・アン・ドーン(Mary Ann Doane)は——詩人シャルル・ボードレールによる「観察」を継承・発展させるかたちで——19世紀後半から20世紀初頭にかけては、偶発的なものやエフェメラルなものを尊ぶ傾向があったこと、またそれは、写真や映画など新たに出現してきた表象技術との関連において明確化されてきたことを指摘している(『映画的時間の出現——モダニティ・偶然性・アーカイヴ The Emergence of Cinematic Time: Modernity, Contingency, the Archive』ハーバード大学出版局、2002年、未邦訳)。

近代資本主義社会は、時間性や偶発性をいかにして捉え、構造化するかについて、多くの表象的・認識論的問題を提起してきた。その中で、エフェメラル・メディアとしての写真と映画は、時間に対する新たな認識を促進させることになった。写真が、時間の中から偶発的な瞬間やエフェメラルな瞬間を分離し、復元するものであるとすれば、初期の映画は、一定の持続時間と動きを固定し、再現しようとする意欲と結びついていた。これらのメディアは、エフェメラルなものの表象可能性、あるいは存在のアーカイブ可能性という問題に取り組み、近代の人びとの即時性への欲望と記録性への願望との間の緊張関係を具現化してみせたのだ。

初期映画——アトラクション性と一過性のメディア

日常的な光景を短時間のスペクタクルへと作り替えた初期映画と、YouTubeなどのオンライン動画は、共にトム・ガニングが言う「アトラクション」的な提示方法である(「アトラクションの映画——初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」『アンチ・スペクタクル——沸騰する映画文化の考古学』所収、中村秀之訳、長谷正人・中村秀之 編、東京大学出版会、2003年)。一方は20世紀初頭の機械がもたらした速度の衝撃から生まれ、他方は21世紀初頭の情報技術がもたらした即時性から生まれたという歴史的背景の違いはあるものの、両者は共に、メディアが急速に発展していく過渡期において、エフェメラルなものと結びつけられてきた形式なのだ。

加えて初期映画は、その上映や受容のあり方についても、エフェメラルな特徴を持っている。初期映画やニッケルオデオン(5セント店頭劇場)の時代の映画は、フィルムリールが非常に短く、すぐに消費されるように製作されており、公開から1週間も経たずに次のフィルムに交換されることもあった。ニッケル時代、アメリカ都市部の劇場のほとんどは、週単位ではなく日の単位でプログラムを変更し、個々の映画を宣伝することもなかった。当時のフィルムは物質的に脆弱で、文化的地位も低くかったので、長期的な保存やアーカイブの必要性が軽視されていたことも、その儚さを際立たせていた。

 ニッケルオデオン「コミック座」
(カナダ・オンタリオ州トロント、1910年頃)

その後、ハリウッドのスタジオシステムが発展し、映画は物質的財産としての地位を向上させていくが、その上映は依然として映画館という場所や時間に縛られており、各館の番組編成やフィルムの取り扱い方に左右されるものであった。例えば典型的な古典的ハリウッド映画は、封切館での初公開の後、二番館で3〜4日間上映され、そのまま二度と観客の元に戻ることはなかった。ビデオやDVDが普及して、映画がアーカイブ資産としての価値を獲得し、一般の観客が映画を所有する機会を持つ前は、映画はあくまで一過性のメディアとしてあったのだ。

ネットワーク時代のテレビ放送——エフェメラルを本質とするメディア

ネットワーク時代のテレビ放送は、映画以上にそのエフェメラルな特性が語られてきたメディアである。作家・批評家のレイモンド・ウィリアムズが「フロー Flow」というメタファーで論じたように、テレビを付けると様々な番組やCMが間に中断を挟むことなく連続的に流れ続ける(『テレビジョン——テクノロジーと文化の形成』木村茂雄・山田雄三 訳、ミネルヴァ書房、2020年、原著1974年)。一度放送が終われば、それがどんなに素晴らしい番組であっても——時折の再放送を除いて——二度と見返すことができない。こうした視聴の即時性と、それに伴うコンテンツの即時的な陳腐化が、テレビを「フロー」を特徴とする産業として他のメディアと区別している。テレビ穂は各家庭に広く普及したメディアでありながら、放送の瞬間しか同じコンテンツを視聴できないという点では希少なメディアでもあるというパラドックスを抱えている。 

テレビと花嫁(1961年)

1980年代にVTR(ビデオテープレコーダー)技術が開発されたことで、視聴者はテレビ放送を録画し、私的に所有することが可能になった。また2000年代には、DVR(デジタルビデオレコーダー)、DVD、VOD(ビデオ・オン・デマンド)などが普及し、テレビ番組の保存や購入、所有はますます容易になっていく。テレビ番組がDVDボックスセットとして売り出されたり、インターネット上で配信されたりすることで、ポスト・ネットワーク時代の視聴者は、エフェメラルな放送の瞬間を超えて、テレビを自らの手で制御する自由を手に入れた

ポスト・ネットワーク時代のテレビ——エフェメラル概念の内実の変化

ポスト・ネットワーク時代のテレビは、単線的な放送から、過去に放送された番組も含めて選択・視聴が可能なデータベースへと転換しつつある。オンラインテレビやデジタル・プラットフォームの登場により、テレビのコンテンツは放送スケジュールの論理から解放され、いつでも・どこでも利用可能なものになっていくだろう。

ただしこれは、テレビがエフェメラル・メディアではなくなったことを意味しない。例えばHuluやBBC iPlayer(英国放送協会によるネット上でのテレビ・ラジオ視聴サービス)は、番組の視聴可能期間に制限を設けている。

またポスト・ネットワーク時代においては、エフェメラル概念の内実の変化を捉えることも重要である。テレビのコンテンツは再視聴や再加工の対象となることで、より分散したテクストに変化してきている。様々なテレビ番組はマルチプラットフォーム(異なる機種やOSでも利用可能なプログラム)のチャンネルにバンドルされる(束ねられる)が、反対に、一つのテレビ番組やシリーズがエピソード毎やシーン毎にアンバンドルされる(切り離される)こともある。移動時間や隙間時間にも素早く視聴が可能な動画文化の広がりに対応するかたちで、テレビもまた、番外編となるエピソードや予告編、番組からの切り抜き動画や補助的な動画をウェブ上で公開するなどして、新しい美学や受容形態に適用しようとしているのである。

ポスト・ネットワーク時代のテレビは、過去に放送された番組も繰り返し視聴ができるという点ではそれほどエフェメラルではないかもしれない。だが、そのコンテンツを取り囲む様々なパラテクストの量や消費速度を考慮するなら、ネットワーク時代のテレビより遥かにエフェメラルであるとも言えるだろう。

ウェブ ——エフェメラルとパーマネントの独特な混合物

メディア環境としてのウェブは、日々送受信されるEメールやショートメッセージ、ブログやSNSへの投稿、ウェブ動画など、無数の小断片がゆるやかに結びついた配列として定義され、コンテンツとコミュニケーションの量や多様性の面でも、ユーザーによる閲覧や相互作用(インタラクション)の時間的構造の面でも、エフェメラルな特徴を備えている。またそこには、膨大な映像や音声、テキストのデータが蓄積されており、エフェメラル・メディア史の無限のアーカイヴが偶発的に構築されている

例えばWeb2.0を代表するサイトであるYouTubeは、エフェメラル・メディアの収集者として大きな成功を収めている。YouTubeは、過去から現在までに制作された——無秩序でヴァナキュラーで、フィルタリングが為されていない——膨大な映像や音声の断片を検索できるデータベースであり、またデジタル素材化したそれらの断片を保管した永続的なアーカイヴとして、世界中のユーザーに共有するためのプラットフォームとして機能している。

  YouTubeの初代ロゴ(2015- 2017年)

だがYouTubeも他のウェブサイトと同様に、リンクが切れたりページが削除されたりすれば、データが消滅してしまうかもしれないという絶え間ない脅威と不安に晒されてもいる。そうした特徴を指して、スティーヴン・シュナイダー(Steven Schneider)とカーステン・フット(Kirsten A. Foot)はウェブを「エフェメラルとパーマネントの独特な混合物」と呼んでいる(「研究対象としてのウェブ The Web as an Object of Study」『New Media & Society』6 巻1号所収、2004年、p.115、未邦訳)。ウェブ上のコンテンツは他の永続的なメディアと違い、新しいバージョンへの更新が行われるたびに、その前身となるデータが変形されたり、破壊されたり、消去される可能性があるのだ。

ジョード・カリム(jawed)『ミー・アット・ザ・ズー
2005年4月23日に、YouTubeに投稿された最初の動画

こうしたエフェメラルな特徴は、ウェブの研究やアーカイヴ構築を試みようとする人びとに大きな困難をもたらす。少し前まで公開されていたコンテンツはある日突然消えてしまうかもしれないし、今見ることのできるウェブサイトをそのままのかたちで保存し、長期的に閲覧可能な状態を維持することも困難である。そのため、様々なデジタルコンテンツのうち何を保存するべきか、どのような方法で未来に遺せるのか、個人や組織としてどのような選択をするべきかなど、多くの議論が行われている。 

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