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わたくしの両親は、いわゆる「戦中派」でした。両親が生まれ育ったかつてのこの国の歩みを、…

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わたくしの両親は、いわゆる「戦中派」でした。両親が生まれ育ったかつてのこの国の歩みを、15世紀から辿ってみます。「日本史」でも「世界史」でもありません。近年の言葉でいえば「グローバルヒストリー」が中心の独り言、余談を交えて書き連ねます。

マガジン

  • 8.日米和親条約の締結

    ペリー艦隊の再来。「日米和親条約」の締結をもって「開国」と歴史では習うはずですが、当時の人々は「開国」とは捉えてはいません。また、恫喝に屈した条約と習うはずですが、交渉過程をみればそれも事実とは異なります。アヘン戦争後に清が列国と結ばされた条約と比べてみれば、一目瞭然です。それをみていきます。

  • 7.ペリー艦隊最初の来航

    日本遠征艦隊の司令長官に任命されたペリーがいいよいよ日本にやってきます。幕府の官僚たちは、どう対応したのでしょうか?この頃の幕府は、評判が悪い。その1年前から来航情報は知られていたにもかかわらず、無為無策で過ごしたといわれるからです。それは事実なのでしょうか?それをみていきます。

  • 4.それから

    日本と清という2大プレーヤーが、鎮めていた海が、再び西洋によって荒れるようになります。最初はオホーツク海のロシア、そして太平洋からイギリス、アメリカと。18世紀からペリーが日本へ向けて出航する艦隊の司令長官に任命されるまでの物語です。

  • 余話・雑感などなど

    日本をとりまく歴史の余話や、時折り考えてしまう諸々のことを書き連ねます。「教科書が教えない歴史」という本がありますが、言ってみればそんなジャンルかもしれません。

  • 6.太平洋を隔てた隣人

    1853年7月と翌年2月に2回に渡り日本にやってきたアメリカ艦隊。そのミッションは、日本を「開国」させることでした。当時のアメリカは一体どんな国だったのでしょうか。それをみていきます。

記事一覧

8-2.応接場所の決定に2週間

「横浜」での応接決定 アダムズと林の応接は終始和やかな雰囲気でおこなわれたようですが、交渉は相変わらず平行線です。 翌23日には、前回アメリカとの交渉にあたった香…

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18時間前
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8-1.再来1854年2月12日

今からちょうど170年前のことになります。ペリーは、横浜で条約締結を済ますと、その後に下田、函館へ向かい、6月に再び下田に戻ってくる行程でした。下田に停泊中に有名な…

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1日前
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7-17.余話として(ロシア船へ運ばれたモノ)

「7-15.物資補給問題と軍艦発注」で述べた、停泊中のロシア艦隊へ向けて 何が運び込まれたのかは、「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」に詳しく出ています。現在もオランダ…

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4日前

7-16.日露交渉の終結

外交顧問のようになったクルチウス 水野、大沢の両奉行はクルチウスと計4日間、合計で13〜14時間にも及ぶ秘密裡の会談を行なっています。奉行からの問いかけに対してクル…

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5日前
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7-15.物資補給問題と軍艦発注

ロシア艦隊への物資補給問題 この滞在時、長崎には新たな問題が持ち上がり、それもクルチウスなしでは解決できない問題でした。 それはロシア艦隊への物資の補給問題です…

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6日前

7-14.ロシア艦隊長崎へ

再びクルチウス さて長崎では、通詞たちの忌避により一旦は冷え込んだようなクルチウスとの関係ですが、ペリーの来航がそれを大きく変えました。 「7月7日。通詞の吉兵…

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7日前

7-13.動きだす阿部政権

ペリーが去った10日後、1853年7月37日には12代将軍家慶が逝去。次の将軍家定の就任は4ヶ月後の11月となりますが、この4ヶ月間で、阿部はさまざまな方策を打ち出していきま…

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8日前

7-12.国書受け取り

国書受取りを伝える 回答期限当日(7月12日)。「遠征記」によると、朝9時半頃3隻の船がやってきたとあります。前回同様、香山栄左衛門、堀達之助、立石得十郎の3名がサス…

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9日前
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7-11.交渉開始

交渉開始 第2回目の接触、ここからは交渉となりますが、翌日早朝7時からおこなわれました。今度は中島と同じ与力の香山栄左衛門、通訳は立石得十郎が加わりました。香山は…

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10日前
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7-10.噂が現実に

浦賀 神奈川県横須賀市の東部に位置する浦賀。ここは江戸湾の入り口にあたり、江戸時代には多くの廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねていた場所です。幕府は、江戸湾に入る船の…

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11日前
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7-9.余話として(黒田斉溥、勘定奉行職)

黒田の夢 「7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩」で阿部正弘に意見書を提出した福岡藩主黒田斉溥(のちに改名して「長溥」)は、「蘭癖」と称された藩主でした。盛んに西洋技…

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12日前
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7-8.来航前夜

広がる噂 阿部はこのあと、黒田の意見書どおり、徳川御三家(水戸、尾張、紀伊)、江戸湾防備の4藩、ならびに浦賀奉行へ情報を伝えています。ただし、情報の漏洩による世…

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13日前
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7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩

幕臣だった田辺太一の嘆き さて、現在においても、この時期の幕府(阿部政権)に対して投げかけられる問いがあります。それは 「なぜ、幕府はペリー来航予告情報を知りな…

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2週間前

7-6.オランダの苦悩と新たな対日方針その2

やや長くなります。 ヤン・ドンケル・クルチウスの赴任 本国から与えられた対日方針を完遂させるため、東インド総督は1851年11月に東インド最高軍法会議裁判官に就任した…

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2週間前

7-5.オランダの苦悩と新たな対日方針

アメリカ艦隊の日本派遣がオランダへ与えた衝撃 すこし時間をさかのぼり、かつペリー艦隊の動静からは離れます。 アメリカ艦隊日本派遣情報を日本に伝えてほしいというア…

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2週間前
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7-4.出航

地球3/4周の大遠征 ペリーの出航は1852年11月24日。アメリカ東部のノーフォーク港を蒸気軍艦ミシシッピ1隻のみで出航しました。予定した12隻の編成は、蒸気機関の故障、整…

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2週間前
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8-2.応接場所の決定に2週間

8-2.応接場所の決定に2週間

「横浜」での応接決定

アダムズと林の応接は終始和やかな雰囲気でおこなわれたようですが、交渉は相変わらず平行線です。

翌23日には、前回アメリカとの交渉にあたった香山栄左衛門が、アダムズの乗る船に姿を現しました(「幕末外交と開国/加藤祐三」によれば、アメリカ側から香山の再登板を促す書状が渡ったらしい)。あくまでも私信としてアダムズに「浦賀での交渉に応じるようペリー提督へ頼んでもらえまいか」という

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8-1.再来1854年2月12日

8-1.再来1854年2月12日

今からちょうど170年前のことになります。ペリーは、横浜で条約締結を済ますと、その後に下田、函館へ向かい、6月に再び下田に戻ってくる行程でした。下田に停泊中に有名な吉田松陰の密航企て事件があり、箱館に入ったのは5月17日ですので、今頃は下田に停泊して箱館への出航準備をしていた頃だと思います。

黒船見ゆ

1854年2月12日、7隻の艦隊(蒸気戦艦は3隻)が再びやってきました。今回は浦賀を大きく越

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7-17.余話として(ロシア船へ運ばれたモノ)

7-17.余話として(ロシア船へ運ばれたモノ)

「7-15.物資補給問題と軍艦発注」で述べた、停泊中のロシア艦隊へ向けて
何が運び込まれたのかは、「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」に詳しく出ています。現在もオランダ国立中央文書館に保管されている書類が大元です。1854年8月31日から10月31日の2ヶ月分が詳細に残されているようです。
前述したように、オランダ本国がロシアから代金を受け取るシステムであったため、詳細に記録を残すことが必要になった

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7-16.日露交渉の終結

7-16.日露交渉の終結

外交顧問のようになったクルチウス

水野、大沢の両奉行はクルチウスと計4日間、合計で13〜14時間にも及ぶ秘密裡の会談を行なっています。奉行からの問いかけに対してクルチウスが答える形式で行なわれました。通訳は森山が務めています。その第1回目の11月1日、水野は、昨年クルチウスから提出された勧告(通商を含む条約締結)に関して、検討を始めることをクルチウスに伝えています。1年に渡って頓挫していたクルチ

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7-15.物資補給問題と軍艦発注

7-15.物資補給問題と軍艦発注

ロシア艦隊への物資補給問題

この滞在時、長崎には新たな問題が持ち上がり、それもクルチウスなしでは解決できない問題でした。

それはロシア艦隊への物資の補給問題です。ロシア艦隊は日本からの補給品の代金を支払うと主張したのです。「薪水給与令」で定められた内容は、補給品は全て幕府が贈与としておこない、それに伴う金銭の授受は発生させない(それを伴えば、交易・通商になる)ということとと対立したのです。

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7-14.ロシア艦隊長崎へ

7-14.ロシア艦隊長崎へ

再びクルチウス

さて長崎では、通詞たちの忌避により一旦は冷え込んだようなクルチウスとの関係ですが、ペリーの来航がそれを大きく変えました。

「7月7日。通詞の吉兵衛と栄之助が機密情報を持ってきた。アメリカの軍艦5隻が琉球列島の海域に投錨した通報があった。」

「7月22日。同じ顔ぶれの通詞たちがまた機密情報を持ってきた。去る7月8日に江戸湾の湾口沿岸に所在する浦賀に超大型蒸気船2隻を含む4隻で

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7-13.動きだす阿部政権

7-13.動きだす阿部政権

ペリーが去った10日後、1853年7月37日には12代将軍家慶が逝去。次の将軍家定の就任は4ヶ月後の11月となりますが、この4ヶ月間で、阿部はさまざまな方策を打ち出していきます。

方策その1:国書を回覧し、各層から広く意見を求めた(7月)

幕府が、政治にたいして意見を求めるなど、前代未聞のことでしたが、これが最も早い方策でした。「通商を許可すれば国法がなりたたず、許可しないなら防御の措置が必要

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7-12.国書受け取り

7-12.国書受け取り

国書受取りを伝える

回答期限当日(7月12日)。「遠征記」によると、朝9時半頃3隻の船がやってきたとあります。前回同様、香山栄左衛門、堀達之助、立石得十郎の3名がサスケハナに乗船しました。ペリーは未だ姿を現しません。前回同様の3名が応対にでました。ここで、香山は「それ相応の高官が親書を受け取る、場所は海岸で14日朝」と回答します。ただし、「その高官は国書を受け取るのみで、交渉はしない」と付け加え

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7-11.交渉開始

7-11.交渉開始

交渉開始

第2回目の接触、ここからは交渉となりますが、翌日早朝7時からおこなわれました。今度は中島と同じ与力の香山栄左衛門、通訳は立石得十郎が加わりました。香山は自らの役職を「奉行」(Governor)だと偽って、交渉をします。昨日の中島も香山も、それぞれが成りすまして応対するという奉行との事前の打ち合わせができていたのでしょう。ペリー側は、昨日よりも高位の2名(1人は艦長)と副官の3名が出てき

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7-10.噂が現実に

7-10.噂が現実に

浦賀

神奈川県横須賀市の東部に位置する浦賀。ここは江戸湾の入り口にあたり、江戸時代には多くの廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねていた場所です。幕府は、江戸湾に入る船の臨検を行う場所として、1720年からここに浦賀奉行所を構えていました。そこには、トップである奉行2名(1名は在浦賀、もう1名は江戸)、その下に組頭が2名、与力が28人、その下の同心が百人でした。1847年より、江戸湾防備を命じられた藩は、

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7-9.余話として(黒田斉溥、勘定奉行職)

7-9.余話として(黒田斉溥、勘定奉行職)

黒田の夢

「7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩」で阿部正弘に意見書を提出した福岡藩主黒田斉溥(のちに改名して「長溥」)は、「蘭癖」と称された藩主でした。盛んに西洋技術を取り入れ、医学学校の創設や、藩内で蒸気機関の作成までしたほどです。ペリー来航前後は40代前半、彼は明治20年(1887年)まで存命だったので、かなり長命でした。彼は、長崎に海軍伝習所が開かれてオランダ人との交流が盛んになると、オラ

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7-8.来航前夜

7-8.来航前夜

広がる噂

阿部はこのあと、黒田の意見書どおり、徳川御三家(水戸、尾張、紀伊)、江戸湾防備の4藩、ならびに浦賀奉行へ情報を伝えています。ただし、情報の漏洩による世情不安を巻き起こすことを警戒し,浦賀奉行へは、「与力へは通達無用」とまでしていました。 与力とは現場にあたる支配下の役人です。しかし、薩摩の島津をはじめ、受け取った藩主たちはそれぞれのつながりの強い藩主たちへその情報を伝えていきました。そ

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7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩

7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩

幕臣だった田辺太一の嘆き

さて、現在においても、この時期の幕府(阿部政権)に対して投げかけられる問いがあります。それは

「なぜ、幕府はペリー来航予告情報を知りながら、有効な対外政策を立案・遂行することができなかったのか」というものです。

来航予告情報が伝えられてから、ペリーが最初に現れるまでの約1年間、幕府はただ無為無策状態であったと認識されているため、今でもこの頃の幕府の評価は低いままです

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7-6.オランダの苦悩と新たな対日方針その2

7-6.オランダの苦悩と新たな対日方針その2

やや長くなります。

ヤン・ドンケル・クルチウスの赴任

本国から与えられた対日方針を完遂させるため、東インド総督は1851年11月に東インド最高軍法会議裁判官に就任したばかりの法官ヤン・ドンケル・クルチウスに白羽の矢を立て、翌1852年4月、彼にその辞令が下されました。条約締結のための全権が与えられるため、その資格と能力を備えた人選でした。(彼が最後の「商館長」になりました)

その対日方針を携

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7-5.オランダの苦悩と新たな対日方針

7-5.オランダの苦悩と新たな対日方針

アメリカ艦隊の日本派遣がオランダへ与えた衝撃

すこし時間をさかのぼり、かつペリー艦隊の動静からは離れます。

アメリカ艦隊日本派遣情報を日本に伝えてほしいというアメリカ政府の要請は、バタヴィアの東インド政庁に大きな衝撃を与えました。1852年1月の本国植民大臣へ宛てた東インド総督の書簡が残されています。やや長いですが、全文を挙げます。

「(前略)ここ数日間私は何度も日本問題に対決させられまし

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7-4.出航

7-4.出航

地球3/4周の大遠征

ペリーの出航は1852年11月24日。アメリカ東部のノーフォーク港を蒸気軍艦ミシシッピ1隻のみで出航しました。予定した12隻の編成は、蒸気機関の故障、整備遅れなどが明らかになり、完全な陣容が揃うのを待っていては数ヶ月後になることから、とにかく出航をすることを優先させたのです。残りは、広東、上海に停泊しているものと、追いかけてくる艦船を待つことにしました。航路は太平洋横断では

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