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7-8.来航前夜

広がる噂

阿部はこのあと、黒田の意見書どおり、徳川御三家(水戸、尾張、紀伊)、江戸湾防備の4藩、ならびに浦賀奉行へ情報を伝えています。ただし、情報の漏洩による世情不安を巻き起こすことを警戒し,浦賀奉行へは、「与力へは通達無用」とまでしていました。 与力とは現場にあたる支配下の役人です。しかし、薩摩の島津をはじめ、受け取った藩主たちはそれぞれのつながりの強い藩主たちへその情報を伝えていきました。そうなれば、秘匿されたはずの情報が外部に漏れていくことは当然のこと。瞬く間に噂として広がったのです。どういった経路でそれを知りえたかは不明ですが(直接的にはおそらく師の佐久間象山から)、翌年1853年7月に実際にペリー艦隊が姿を現した時、「船は北アメリカ国に相違無之、願筋は昨年より風聞の通りなるべし」と吉田松陰は手紙で書いています。つまり、この時は処分を受けて士籍剥奪、世録没収の処分を受けていた長州浪人の吉田松陰にも噂として知られていたのです(出所:「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争/岩下哲典」P25)。

反感を買う黒田の意見書

一方、黒田の意見書は、幕府の官僚にとってはとんでもないことでした。ここで挙げた要約以外にも、幕政や幕吏に対するかなり厳しい批判もあり、従来、一外様大名が建議することさえ憚られた事項にも論究しており、幕吏の嫌疑と不信、不興を買うことになったといいます(出所:「開国前夜の政局とペリー来航予告情報/岩下哲典/日蘭学会会誌第15巻第2号/1991年3月」)。阿部はその意見内容と政権内部の意見を統一させるなど到底できませんでした。とはいえ、島津、黒田などの情報のもたらす危機を認識した者たち、それぞれが意見交換をするネットワークができあがった側面もありました(出所:同上論文)。

結局、阿部が成しえたことは島津らの雄藩大名の帰国延期くらいのことになります。これについて、岩下氏は次のように述べています。
 
「雄藩大名の帰国を延期し、滞府させることで自己の支援グループを形成、来航後の政局の主導権を握ろうとしたのである。それ故に、来航後、諸大名、幕臣に対して諮問を行うが、それは、あくまでも雄藩大名を幕政に参画させる一手段として本来行われたものであると考えられる」(出所:同上論文)

ショック療法

やや先走りますが、阿部は情報通りにアメリカがやってきたことを、ショック療法として使ったのではないでしょうか。アメリカ艦隊来航後に広く意見を求めたのも、それまでの政権内の官僚を見限り、自身の目論んでいた方針への賛同者を集めることが目的であったと思うのです。「国内体制構築の足掛かり」と私が前述したのは、このことになります。後述しますが、ペリーの離日後、阿部は実に多くのことを打ち出しています。もはや、現実の巨大な艦隊を目の当たりにして、かつての反対派の意見も力を持ちえなかったと思います。ただし、この時点ではあくまでも「海防」がメインで、「通商」の問題は二の次でした。内達したの別段風説書の要約版のみで、「通商」のことに触れたそれ以外のものは、知らせなかったのです。

阿部は、もう一つ、薩摩藩に琉球防衛のための砲艦建造の許可を与える(1853年5月)という策をとった。また、島津成彬は、この情報をもとに「来るならば品川沖に違いなく、高輪、田町、芝のあたりは大混乱するだろう。女こどもが気がかりなので、近くの山の手に良い屋敷が避難場として取得したい」と家老に指示をだした(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P42)。さすがは開明的君主として有名な島津だ。

切れる緊張の糸

しかし、予告された来航時期(西暦5月下旬)を過ぎても、アメリカ艦隊は姿をみせず、緊張の糸が切れかかります。帰国を延期して江戸に留まった島津も、6月初頭に帰国の途についています。それから1ヶ月後、アメリカ艦隊は姿を現すのです。島津は、帰国途中の備前国(現岡山県)において、琉球にペリーが来たことを告げる国許からの知らせを受け取ります(1853年7月5日)。

続く


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