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7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩

幕臣だった田辺太一の嘆き

さて、現在においても、この時期の幕府(阿部政権)に対して投げかけられる問いがあります。それは

「なぜ、幕府はペリー来航予告情報を知りながら、有効な対外政策を立案・遂行することができなかったのか」というものです。

来航予告情報が伝えられてから、ペリーが最初に現れるまでの約1年間、幕府はただ無為無策状態であったと認識されているため、今でもこの頃の幕府の評価は低いままです(のように感じている)。これは、同時代人で幕臣でもあった田辺太一が著した「幕末外交談1」にも次のように書かれています。
 
「この1年の間に、もし戦備を整えようというなら、それはとうてい間に合うことではなかったが、このために警省けいせい、考察するところがあって、世界の自然のなりゆきには勝てないことを知り、通信通商を許そうというのであれば、わが国の当面する情勢を考えながら、適宜の処置を講ずるには十分間に合うだろう。まことにその通りならば、かのペリーが来ても、すでに我が方には成算がある。見事にこれと応接して、時局を解決することは、実に容易であったであろう」(「幕末外交談1/田辺太一著/坂田精一訳・校注」P9)
 
と述べた後、続けてこうも言っています。
 
「ところが、こうした行動にでることができず、オランダからの予告があっても、疑猜ぎさい怯懦きょうだのために、あたら光陰をいたずらに過ごし、浦賀海口に星条旗をかかげた海城の如き軍艦の出現をみて、はじめておどろいたのは、どうしたことか。」(「幕末外交談1」P10)
 
田辺太一の悔しさが伝わってくるようですが、実際はどうだったのでしょう。

結論からいいますと、決して無為無策であったわけではなく、当時できうる限りの策はとっていたことがわかります。ただ、今後起こりうる対外問題への策ではなく、その策を実行しうる国内の体制構築への足がかりだったといえると思います。

情報の信憑性を信じて疑わなかった阿部正弘

前述したように、幕府にはクルチウスが提出した5つの文書、「別段風説書」「東インド総督信書」「条約草案要約」「草案説明書」「商館長書翰」がありましたが、最終的にはその全てが「無視」となりました。「別段風説書」には来春のアメリカ艦隊来航情報もあります。しかし、政権内部ではそれへの切迫感、危機感はほとんどないに等しい状況でした。もちろん、中にはまさに危機と認識し「対策を打つべし」とした意見もあることはありましたが、きわめて少数に過ぎません。

阿部自身は、どう考えていたのでしょうか。阿部はアメリカ艦隊来航情報の信憑性を疑っていなかったようです。政権内部での評議が一向に決まらない事を嘆く、島津斉彬に宛てた手紙が残っています(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P42)。阿部は、その情報を盟友ともいうべき薩摩藩主島津斉彬なりあきらにいち早く口頭で伝えていたのです。

島津斉彬といえば、幕末を扱った歴史小説にはほぼ登場する人物で、開明的な君主として名高いですが、阿部と島津の親密振りは、「伊勢守いせのかみ(筆者注阿部)と薩摩との間は、いずれより交をもとめたるを問わず、すこぶる親密の交際たりしは、事実において歴然たり」(「幕末政治家/福地桜痴著、佐々木潤之介校注」P35)と言われています。

親密だからという理由だけで情報を伝えたわけではなく、当時琉球を実質的に支配し、そこに役人までおいていた薩摩藩ならではの情報と、日本に来るならまずは琉球かもしれないとも考えたからです(事実そうであった)。

福岡藩主の意見書

阿部は、年が明けた1853年1月5日、長崎警備担当の福岡藩主黒田斉溥なりひろ、佐賀藩主鍋島直正、そして薩摩の島津にも、正式に別段風説書の中のペリー来航に関わる情報を妙出した「別段風説書之内」を内達しました。阿部としては、琉球同様に、長崎への来航も考慮に入れたからと、さらには政権内部には自らと意を同じくする仲間が少ないので、いわゆる「雄藩」とよばれた大名家を仲間に引き入れたかったからだと思います。これまでは、非公式な形であっても、幕府が握る海外情報を外部に提供するなどありえないことでした。

もっとも早く反応したのは、福岡藩主黒田でした。彼は即座に阿部に意見書を提出しました。

  1.  交易を要求してきても拒絶する以外なく、しかしながら我が国の脆弱な海防ではアメリカを撃退するのは不可能である。

  2. アメリカと交戦することになれば、最悪全土消失も免れない。

  3. 上記を考慮すると、すみやかにアメリカ艦隊の来航に対する幕府の対応策を確立し、準備にあたるべきである。

  4. 中浜万次郎(筆者注:ジョン万次郎(後述)のこと)に海軍創設の諮問をし、彼にその任にあたらせること。風説書を御三家ならびにしかるべき大名に知らせること(出所:「開国前夜の政局とペリー来航情報/岩下哲典」日蘭学会誌第15巻第2号/1991年3月)

という内容でした。阿部からすれば「我が意を得たり」だったと思います。

阿部が老中首座となった1845年以降、止むことのなかった外国船の来航に対し、かつての「打払令」の復活こそ望ましいと考えながらも、海防体制の強化、具体的には大型船(軍艦)の建造はことごとく勘定方から否認され、実現はできませんでした。特に海防掛ですら、軍艦の建造には「清が建造した大型船もアヘン戦争により簡単に英国に沈められた、日本の水主は大船の操船に習熟してない」などといった理由で疑義をはさみ、財政逼迫を理由に海防充実に反対していたのです。阿部の望むことはほとんど何もできなかったに等しいといえるでしょう。政権内部の阿部の味方は少数、そこに外部から強力な援軍が出現したに等しいわけです。

続く

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