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7-4.出航

地球3/4周の大遠征

ペリーの出航は1852年11月24日。アメリカ東部のノーフォーク港を蒸気軍艦ミシシッピ1隻のみで出航しました。予定した12隻の編成は、蒸気機関の故障、整備遅れなどが明らかになり、完全な陣容が揃うのを待っていては数ヶ月後になることから、とにかく出航をすることを優先させたのです。残りは、広東、上海に停泊しているものと、追いかけてくる艦船を待つことにしました。航路は太平洋横断ではなく、大西洋をわたり、アフリカ大陸を南下してインド洋へ入り、シンガポールを抜けて香港へ入るという、ほぼ地球の4分の3を回る大遠征です。蒸気船用の石炭補給地が太平洋上にないためです。そのため、途中6箇所に停泊して補給、香港へ入港したのは1853年4月7日、およそ4ヶ月半の大航海でした。

通訳の手配

ペリーは、通訳候補のウィリアムズにさっそく会いに行き、日本との交渉の通訳を依頼します。ウィリアムズは自分の日本語能力に自信がなく、本心では断りたかったようですが、「私の能力にあまり期待をかけないでほしい。しかし最善の努力はする」(「ペリー日本遠征随行記/サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ」P32)といい、それを受諾します。彼は、日本人漂流民から日本語を習った(相手はあの※1「音吉」であった)とはいえ、その相手とも9年も接触がとぎれ、その間日本語を使うことはまったくなかったのです。交渉言語を日本語とすることはかなり難しい状況となりますが、ウイリアムズは中国語通訳として同行することになります(とはいえ、自らの中国語の教師であった人物を同行させた)。また、オランダ語を使わざるを得ないことになるため、オランダ語の通訳(オットマン)も上海で雇い入れました。肝腎の交渉言語の準備は、お世辞にも万全だったとはいえません。

上海を出航

香港で、帆走軍艦のプリマウス、サラトガと合流、ついで上海に停泊していた蒸気軍艦サスケハナと合流して、旗艦をミシシッピからサスケハナ(ポーハタンと並び、最新鋭艦だった)に移し、5月23日に上海を出航します。最初に向かった先は琉球王国でした。到着は5月26日。ここで約1ヶ月滞在し、沖縄本島の調査を行い、同時に2隻の別働隊は小笠原諸島へも調査に向かっています。日本との交渉が不調に終わった場合、同島を石炭の補給基地にしようと考えていたからです。ペリーは7月2日、いよいよ日本へ向けて那覇の港を出航します。蒸気軍艦2隻、帆走軍艦2隻の4隻の陣容を整え、乗組員は約千名、4隻合わせた大砲の数は63門でした。

通訳ウィリアムズの嘆き

琉球でのペリーらのとった態度は、武力を背景にした脅迫的なものだった。通訳ウィリアムズは、こう書いている。

「これまで何ぴとによっても、こんな傲慢きわまりのない侵入を受けたためしがなかったのである。いわば弱者・正義と強者・不正との闘いでもあった。そして私はこのような執行団の一員であることを恥じ入るばかりであった。それだけではない。ただ否、否と答えるだけの哀れな無力な島人たちに哀れみさえ感じた。」(「ペリー日本遠征随行記/サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ」P47)。

ペリーは、琉球が「薩摩」と「清朝」の二つに従属している国と正確に認識し、簡単にいえば、なめてかかったのである。
1854年には「琉米条約」が琉球とアメリカの間で結ばれた。日米和親条約を締結したあと、ペリーが帰路に琉球に再度訪れ、結んだ条約である。

※1「音吉」については、以下を参照
「5-1.モリソン号事件」
「5-12.洋式船の建造」

タイトル写真はウィリアムズ

続く


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