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8-2.応接場所の決定に2週間

「横浜」での応接決定

アダムズと林の応接は終始和やかな雰囲気でおこなわれたようですが、交渉は相変わらず平行線です。

翌23日には、前回アメリカとの交渉にあたった香山栄左衛門が、アダムズの乗る船に姿を現しました(「幕末外交と開国/加藤祐三」によれば、アメリカ側から香山の再登板を促す書状が渡ったらしい)。あくまでも私信としてアダムズに「浦賀での交渉に応じるようペリー提督へ頼んでもらえまいか」という内容の手紙をアダムズに渡したのです。アダムスは香山の再登板に喜んだようです。前回の彼の対応がよほど気に入っていたものと思われますが、香山の言い分も同じものでした。翌24日には、22日に浦賀で受け取ったペリーからの文書の回答が、アダムスのもとに届けられましたが、そこにも「浦賀、浦賀、浦賀」の一点張り。

ペリーは、一向に進まない応接場所の交渉に苛立ち、艦隊の力を誇示するようさらに江戸湾深くへ前進させました。「江戸へ上陸する」が現実の恐れとなってきたのです。25日に江戸から急飛脚が届き、「江戸へ乗り入れられたら失体になるので、※金川駅(神奈川宿)にて応接して宜しい(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P169)。」との内容でした。ここにきてようやく横浜応接が決まったのです。

※神奈川は東海道の宿場を指し、横浜表とは横浜村の海に面した場所を意味した(現在の横浜市関内地区)。横浜村は戸数わずか90ほどの村で、宿場の神奈川とは違い、これといった大きな建物があるわけではない。応接掛は神奈川宿の本陣を浦賀奉行書仮役所と決めた。神奈川宿本陣から横浜(村)まで海路では約1里(4キロ)、陸路では約2里(8キロ)である(「幕末外交と開国/加藤祐三」P170)。

この狡知にたけたる国民

応接場所の変更は27日に、再び香山によってアダムスに伝えられ、了承されました。そうして、新たに決まった横浜村での応接地の検分が3月1日に決まりました。艦隊の停泊地からまっすぐの対岸にあたります。応接場所の交渉に2週間かかったことになります。ペリーは、応接場所をめぐる日本とのやりとりに対して、のちに以下のように海軍大臣に手紙を送りました。
 
「この狡知にたけたる国民との交渉に当り、過般、この不可思議たる国の住民と、文明人、未開人たるを問わず広範囲に渉りて交際したる結果得たる体験は、小生にとりて大いに助けとなれり。この経験により虚礼の民に対しては全然礼儀を無視するか、尊大虚飾なる事ヘロデをも凌ぐことが必要なるを自覚せり。」(「ペリー提督日本遠征記Kindle版/合衆国海軍省/大羽綾子翻訳」P239)

何とも強烈な言葉となっています。ちなみに、ペリーが感じたこの感情は、のちに多くの外国人が幕府との交渉で抱くようになっていきます。

通訳森山栄之助の登板

横浜村では前年使用した建物が久里浜から移築され、そこにさらに増築する形での建築が急ピッチでおこなわれます。ペリー一行の上陸は3月8日と決まりました。その間、毎日のように香山は艦隊を訪れています。

また、3月からは、通訳として森山栄之助が新たに加わっています。長崎でプチャーチンとの交渉を終えて2月初旬に長崎を出発し、江戸へ向かう途上でアメリカの来航を知り、途中の横浜での通訳の仕事となったわけです。アメリカ通訳のウィリアムズは、森山を「ほかの通訳がいらなくなるほど英語が達者で、お陰でわれわれの交渉は大助かりだ」と記しています(出所:「ペリー日本遠征随行記/サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ著/洞富雄訳」P207)。かなり英語の能力が向上していたのでしょう。

森山は、かつて(1849年)長崎に来航し、自身が通訳にあたったプレブル号の船長や、自身に「生きた英語」を教えてくれたラナルド・マクドナルドの消息を尋ねてもいます。森山は、アメリカの士官へも好印象を与えたらしい。彼はこの数ヶ月後幕臣として召しかかえられることになります。日本初の外交官ともいえるでしょう。

艦隊乗組員の日本人

「遠征記」には、この艦隊に1人の日本人が乗組員として乗船していたことを記しています。「三八(サム・パッチ)」とよばれる日本の水夫でした。漂流していた16人の和船の乗組員の1人で、アメリカ船に救助されてサンフランシスコに届けられ、そこから中国へ連れていかれて、サスケハナへ移されました。日本へ帰されると知って、他の15名は殺されるかもしれないから中国に残りたいと希望しましたが、三八だけはそのまま艦内にのこり、乗組員として雇用され、第1回の遠征にも同行していたのです。

彼は、故郷の人間に手紙を届けたいとアダムスに告げ、アダムスがその依頼を香山に取り継ぎました。日本人が乗船していることに驚いた香山でしたが、のちに船内で彼と面会しています。香山の前にでたとき、三八は平身低頭するばかりで、震えているばかりであったと「遠征記」に記してあります。

また、土佐藩士から幕臣へと取り立てられた中浜万次郎ですが、この交渉時には出てくることはできませんでした。幕府の海防掛参与となった水戸藩主徳川斉昭に「アメリカのスパイかも知れぬ」と横やりがはいったからです。彼の活躍にはもう少し時間が必要でした。

艦隊が日本から離れる直前、幕府は三八を日本に残してもらいたい旨をアメリカ側に伝えた。アメリカ側は、本人の自由意志に任せるとし、条件として彼を罰しないことを出した。しかし、三八は日本への帰国を望まず、そのまま乗組員として日本を離れた(出所:「ペリー提督日本遠征記Kindle版/合衆国海軍省/大羽綾子翻訳」P380〜381)。彼のその後は不明である。

いよいよ、ペリーとの交渉が始まります。

続く

タイトル画像:森山栄之助


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