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7-6.オランダの苦悩と新たな対日方針その2

やや長くなります。

ヤン・ドンケル・クルチウスの赴任

本国から与えられた対日方針を完遂させるため、東インド総督は1851年11月に東インド最高軍法会議裁判官に就任したばかりの法官ヤン・ドンケル・クルチウスに白羽の矢を立て、翌1852年4月、彼にその辞令が下されました。条約締結のための全権が与えられるため、その資格と能力を備えた人選でした。(彼が最後の「商館長」になりました)

その対日方針を携えてクルチウスが来日したのは、ペリーが日本遠征の司令官として正式に任命された1852年3月からおよそ4ヶ月後の7月21日のことです。クルチウスは長崎入港後、前任商館長と連名の署名をもって、ただちに別段風説書を提出します。この時のそれには、アメリカ艦隊の通商を求めての来航情報、派遣艦隊の規模、司令官の名前、来航時期(来年五月頃と記載)が、最終章に書かれていました。その際に、受け取りにきた通詞に対して「重要な記事にすぐに目が行くように丸印をつけておいた」と注意し、さらに「いっそう重要な情報を提供したいと願っていることを奉行に伝えてもらいたい」と話しました。重要な情報とは東インド総督が長崎奉行へ宛てた信書です。信書は7月22日に長崎奉行(牧志摩守義制しまのかみよしさだへ内々に提出されました。「重要な記事」とはアメリカ艦隊の来航予告です。

長崎奉行の対応

その4日後、奉行からの返信は「前回の経緯(1844年のオランダ国王からの国書のこと)があるにもかかわらず、再び信書が送られてきた理由が知りたい。受け取ることは日本の法に背くことになるので、今後二度と繰り返さないでほしい」という内容です。それに対し、クルチウスは「私たちは信書がきわめて重大な情報を提供していることを強調し、日本が非常事態への対決を迫られている現在、オランダは衷心から日本の力になりたいと願っている(「幕末出島未公開文書―ドンケル=クルチウス覚え書/フォス美弥子編訳」P34、以降「覚え書」)。」と、その理由を説明。長崎奉行は、「オランダの誠意を汲んで、江戸に信書受理許可の申請をするが、オランダ側も請願書を用意すべし」と回答し、7月27日にクルチウスらはそれを提出しました。

江戸の対応

長崎奉行からの書面を受けとった江戸の老中首座阿部正弘は、海防掛に受領するか否かを諮問。海防掛は「風説書同様のものならば、書翰と異なりこれを受け取っても通信にはあたならい」と答申して、阿部は9月11日に長崎奉行にその受領を命じました。クルチウスは9月30日に正式に総督からの信書を提出します。最初の関門は突破したことになります。

クルチウスの新たな作戦

さて、長崎奉行はその信書に書かれていた「平和維持のための方策(方便と訳された)」とは何かを、通詞を通じてクルチウスに問い合わせますが、クルチウスは、「重要なことなので、江戸から任命された高官でなければ教えらない」という姿勢を貫きます。「方策」とは、オランダとの条約締結のことです。

彼の作戦は、「信書」を突破口として条約交渉の端緒を開くことでしたが、11月1日に口頭で「総督信書は、受理をもって落着した」と伝えられ、当初の目論見は失敗してしまいます。そこで、クルチウスは新たな作戦を立て、思い切って自ら作成した商館長書翰と条約草案の要約を、その説明書とともに長崎奉行へ提出するのです。

条約草案の内容

この草案は全体で6ヶ条からなり、その第3条において「日本国に敵対せざる国にて、通商を願う場合は、左の規則の下に之を許すこと」として12項目を挙げ、第4条では「日本貿易を為さんとする国にして前条の規定を遵守する者は、何れの国を問わず貿易を許すこと」とし、続く第5条では「条約国は和蘭人と同じく最恵国民として取扱うこと」としています。(出所:「幕末日蘭外交史の一考察/庄司三男」日蘭学会誌第13巻第2号・1989年3月)

また、クルチウス自身が作成した説明書には「条約案が日本国の法律と古き慣習とを尊重しながら作成された」ともあり、日本の法律を大きく逸脱することなく、かつ他国の国民も満足するような条件で、今後条約が結ばれるための一案であることが説明されていました(出所:同上論文)。作成者のシーボルトからすれば、これが日本が許容できる最低限の条件だと考え、この線で締結できるかもしれないと考えていたわけです。

江戸の結論

このクルチウスの書翰、条約草案の要約ならびにその説明書は、「和蘭甲比丹内密封書オランダかぴたんないみつふうしょ」のタイトルで翻訳、直ちに江戸へ送られました。

これについて、阿部は再び海防掛へ諮問します。ところが、海防掛だけでは容易に結論が出ず、もうすぐ江戸に帰ってくる長崎奉行(牧のこと)を待ち、彼から意見を聞いたのちに答申をすることになります。江戸に帰着した牧は、どう答えたのでしょう。

彼は、「商館長は強欲なものなので」と、情報の信憑性にすら疑義を呈した回答をしたのです。

これが、海防掛の答申を決定付けました。条約交渉が棚上げになったどころか、情報の信憑性にまで疑義が向けられてしまうのです。クルチウスの作戦は完全に頓挫することになりました。1852年11月中旬のことです。

クルチウスは、江戸におけるその後の情報を知らせてくれるよう、通詞に催促したようですが、通詞たちはそれを煙たがり、クルチウスの元へ顔を出さなくなったようです(出所:「覚え書」P62)。

※長崎奉行は江戸在勤1名、長崎在勤1名の2名体制であった。奉行の交代は長崎で行われ、その時期はオランダ船の出航(毎年11月初旬頃)を見届けてからだった。

また、「強欲なものなので」という、答申内容を決定づけたようなことを述べた牧は、長崎を離れる際に、クルチウスに「日本からオランダ本国へ帰ったオランダ人が、オランダ国王陛下に日本の制度について正確な報告をしていないと考えている。日本の国法は、オランダ人と中国人以外の外国人が日本に入国するのを禁じている。それでオランダが与える勧告は、日本人に国法の原則に背けと勧めていることになるのだ」と言ったらしい(出所:「覚え書」P38)。この感覚には驚いてしまった。

とはいえ、牧の返答が、切迫感をもち、重大な危機を惹起しかねないとする内容だったならば、その後の歴史は変わっていたかと考えると、どうもそうはならなかったように思っています。それをこれからみていきます。

続く


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