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7.ペリー艦隊最初の来航

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日本遠征艦隊の司令長官に任命されたペリーがいいよいよ日本にやってきます。幕府の官僚たちは、どう対応したのでしょうか?この頃の幕府は、評判が悪い。その1年前から来航情報は知られてい… もっと読む
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記事一覧

7-17.余話として(ロシア船へ運ばれたモノ)

「7-15.物資補給問題と軍艦発注」で述べた、停泊中のロシア艦隊へ向けて 何が運び込まれたのか…

Ryo
4日前

7-16.日露交渉の終結

外交顧問のようになったクルチウス 水野、大沢の両奉行はクルチウスと計4日間、合計で13〜14…

Ryo
5日前
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7-15.物資補給問題と軍艦発注

ロシア艦隊への物資補給問題 この滞在時、長崎には新たな問題が持ち上がり、それもクルチウス…

Ryo
6日前

7-14.ロシア艦隊長崎へ

再びクルチウス さて長崎では、通詞たちの忌避により一旦は冷え込んだようなクルチウスとの関…

Ryo
7日前

7-13.動きだす阿部政権

ペリーが去った10日後、1853年7月37日には12代将軍家慶が逝去。次の将軍家定の就任は4ヶ月後の…

Ryo
8日前

7-12.国書受け取り

国書受取りを伝える 回答期限当日(7月12日)。「遠征記」によると、朝9時半頃3隻の船がやっ…

Ryo
9日前
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7-6.オランダの苦悩と新たな対日方針その2

やや長くなります。 ヤン・ドンケル・クルチウスの赴任 本国から与えられた対日方針を完遂させるため、東インド総督は1851年11月に東インド最高軍法会議裁判官に就任したばかりの法官ヤン・ドンケル・クルチウスに白羽の矢を立て、翌1852年4月、彼にその辞令が下されました。条約締結のための全権が与えられるため、その資格と能力を備えた人選でした。(彼が最後の「商館長」になりました) その対日方針を携えてクルチウスが来日したのは、ペリーが日本遠征の司令官として正式に任命された18

7-11.交渉開始

交渉開始 第2回目の接触、ここからは交渉となりますが、翌日早朝7時からおこなわれました。今…

Ryo
10日前
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7-10.噂が現実に

浦賀 神奈川県横須賀市の東部に位置する浦賀。ここは江戸湾の入り口にあたり、江戸時代には多…

Ryo
11日前
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7-9.余話として(黒田斉溥、勘定奉行職)

黒田の夢 「7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩」で阿部正弘に意見書を提出した福岡藩主黒田斉溥…

Ryo
12日前
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7-8.来航前夜

広がる噂 阿部はこのあと、黒田の意見書どおり、徳川御三家(水戸、尾張、紀伊)、江戸湾防備…

Ryo
13日前
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7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩

幕臣だった田辺太一の嘆き さて、現在においても、この時期の幕府(阿部政権)に対して投げか…

Ryo
2週間前

7-5.オランダの苦悩と新たな対日方針

アメリカ艦隊の日本派遣がオランダへ与えた衝撃 すこし時間をさかのぼり、かつペリー艦隊の動…

Ryo
2週間前
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7-4.出航

地球3/4周の大遠征 ペリーの出航は1852年11月24日。アメリカ東部のノーフォーク港を蒸気軍艦ミシシッピ1隻のみで出航しました。予定した12隻の編成は、蒸気機関の故障、整備遅れなどが明らかになり、完全な陣容が揃うのを待っていては数ヶ月後になることから、とにかく出航をすることを優先させたのです。残りは、広東、上海に停泊しているものと、追いかけてくる艦船を待つことにしました。航路は太平洋横断ではなく、大西洋をわたり、アフリカ大陸を南下してインド洋へ入り、シンガポールを抜けて