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【書評】『ワーニャ伯父さん』(チェーホフ)を読む。絶望って魅力的?

ロッシーです。

『ワーニャ伯父さん』を読みました。

『ワーニャ伯父さん』とネットで検索すると、映画『ドライブ・マイ・カー』が沢山出てきたのですが、どうやらその映画の中に『ワーニャ伯父さん』が出てくるようですね。

私は映画を観ていないので全然知りませんでした。

それはともかく、読んだ感想としては・・・。

うーん・・・。

正直あまりピンと来ませんでした(笑)。

その理由を説明するのは難しいのですが、登場人物の誰にも共感できなかった点が一番大きい気がします。


(※以下ネタバレ注意)


例えば、登場人物のひとりであるワーニャ伯父さんについてです。

彼は、亡き妹の夫であるセレブリャコフ教授を尊敬し、長い間ずっと送金するなどして援助し続けてきたのですが、結局その教授にはたいした才能もないことが分かり、人生を浪費してしまったと嘆きます。

これはある種の悲劇なのかもしれませんが、個人的には全然共感できません。

そもそも援助してきたのは、自分自身の選択なわけです。その結果が報われなかったとしても、それは単なる選択ミスとしかいいようがありません。

株式投資と同じです。値上がりを見込んで購入した株が、全然値上がりしなかった場合、それを株のせいにしても仕方ないでしょう。

ワーニャ伯父さんは、47歳の設定のようです。その年齢であれば、人のせいにして憤慨しても、事態が改善するわけではないことくらい分かるのではないかと。

だから、「ちょっとみっともないな~」という気持ちが先に立ってしまいましたね(笑)。


次に、ワーニャの姪ソーニャについてです。

こちらも同じく共感できません。

ソーニャはアーストロフという医師に恋をしているのですが、アーストロフからはまったく相手にされません。アーストロフは、セレブリャコフ教授の後妻である若くて美しいエレーナ(27歳)のことが好きなのです。

自分が好きになった人が、他の人が好きな状態ですね。恋愛あるあるです。

それも当人にとってはひとつの悲劇かもしれませんが、世の名というのはえてしてそういうものでしょう。自分が好きな人が、自分のことを好きになってくれるというのは稀なことです。

そんなソーニャは、物語の最後に有名なセリフを言います。

「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」

Wikipedia

ある種の絶望は、行くところまで行くと、希望に転換されるものです。

このセリフはそのような効果を狙ったものかもしれません。これにより、単なる絶望的な暗い幕切れではなく、希望を持たせたエンディングになるというわけです。

確かに、このセリフ自体を感動的なものとして捉える人は多いのでしょう。Wikipediaを見てもそのようです。

特にソーニャがワーニャを慰めようとして語りかける幕切れのセリフはこの戯曲の核ともいえる部分であり、チェーホフ劇の中でも最も美しいセリフとして親しまれている

Wikipedia

でも、私は

「そもそもソーニャやワーニャ達はそこまで絶望的な状態なの?」

と思ってしまったんですよね。だから、このセリフにもそこまで感動することはできませんでした。

ワーニャは、人生が自分の思い通りにならなかったことに絶望しているわけですが、そもそも人生とは思い通りにならないものです。それに、47歳であれば人生完全に詰んだわけでもないでしょう。

ソーニャにしても同様です。

女性で、独り暮らし、パートナーなし、顔面偏差値は人並みかそれ以下、お金も資産もなし、仕事は安月給、いつ契約を切られるか分からない、みたいな人は、この日本にもかなりいると思いますよ。全然珍しいことではありません。

この物語の舞台となっている当時のロシアであれば、この二人の状況は人生が詰んだ状態に等しかったのかもしれませんが、私はそう思えなかったわけです。

「いやいや、まだ人生に絶望するには早いんじゃないの?」

「安易に絶望することで、安易に希望を見いだすのもどうなの?」

と思ってしまいました。

絶望するのって、魅力的な部分があると思うんですよ。

「絶望している私」というある種の自己憐憫により慰められる部分もあるでしょうし、絶望してしまえば、現状への対処などを考えず思考停止すれば済むわけです。

そして、最終的に神様に全て委ねてしまえばいいわけですからなわけです。

そういうことをせざるを得ない絶体絶命の状況であれば、私は絶望というのは有効だと思います。

それは、あたかも臨終のベッドにいる末期患者の苦痛を和らげるための医療用麻薬のようなものですから。

ただ、上述したように、この二人はそこまでの状態ではないと私は思うのです。

もちろん、それは2022年という現在に生きる私の一方的視点ですから、彼らの状況や置かれた立場というものを把握できていないでしょう。

でも、優れた物語というのは、そのような時間的差異を消滅させ、読者を共感させてしまうものです。

その意味では、この小説は時間的差異を埋めきれなかったのかもしれません。あくまでも私にとってはですが。

最後に、絶望についてのフレーズをひとつ。

「完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。」

村上春樹『風の歌を聴け』

最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!

※2023年1月加筆 その後、映画『ドライブ・マイ・カー』を見ましたが、正直さっぱり分かりませんでした。ああいう映画が分かる人が羨ましいです。


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