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月ノ美兎の「C調言葉に御用心」 ーー初音ミク、やくしまるえつこ、椎名林檎、Lain、そして新時代のアイドルへ


忠告而善道之、不可則止                                                                                      忠告してこれを善道し、不可なれば則ち止む                            孔子『論語』より


『C調言葉に御用心』は、1979年発売のサザンオールスターズの一曲。C調とは「軽薄で調子のよいさま」を表す。

あまりに用意周到な演出をされた映画は、その準備の良さのあまり、筋書が簡単に変更できなくなる時がある。今回はそういう話だ。

以前の記事では、月ノ美兎の存在を「バーチャルユーチューバー」の側から見ていた。今回は、「サブカルチャー」の目線から見るとどうなるかを考えてみたい。

この記事では主に批評家のさやわか氏と

TVODのお二人の言説を参考にしている。

そして、この『ポスト・サブカル焼け跡派』は、月ノ美兎さんに読んでもらうことを強く勧める。                                                                                    

きったねえ偶像性 ーーVtuberの先駆者・初音ミクと比較して

──旧知のトラックメーカーや新しく出会ったミュージシャンが織りなす音は、DAOKOさんのさまざまな表情を見せていますが、そこで発見したことはありますか?                           アルバムをトータルで聴いてみると、すごく自分らしいと思うし、「DAOKOってなんだろう?」というクエスチョンに対する1つの答えになったと思います。少し引いて、自分自身のアイデンティティがどこにあるのか考えてみると、やっぱり声質と言葉だなと思うんですよ。それ以外は私の場合、フリーなんですよね。                     ──フリーというのは?                        ジャンルやこれまでの音楽の価値観、既存のスタイルに縛られないという意味でのフリー。生身の人間で、自分の世界観があることを除けば、声が楽器の役割をしているという点で、自分の存在感は初音ミクにちょっと近いのかもしれないとも思ったりして。

では初音ミクの存在感とはなんだろう?批評家のさやわか氏は、初音ミクは「背景を持たない」「どのような物語を読み取ってもよい」自由度の高さ、「きれいな偶像性」が担保されていることが特徴だと、クリプトンの佐々木氏の言葉を借りて言っている。実はこの形式は、80年代のアイドルたちも持っていた。


しかし、初音ミクは、80年代のアイドル以上に、デジタル動画のメディアの受け皿として動ける強さがあった。視聴者は、勝手に英語字幕をつけたり、映像を付け替えたりすることでいろんな形にマッシュアップされることができる。初音ミクを音声だけで使ってもいいし、その少女の姿を使ってもいい。そうした「マルチレイヤ―性」が特徴だった。

この動画では、PerfumeのElectro Worldを初音ミクがカバーした曲を、電車の動画につけたもの。この時、初音ミクの存在感は限りなく少ない。


では、月ノ美兎はどうだろう?

彼女の偶像性は…おそらく初めから汚れていた。私は2018年当時、電脳少女シロさんを中心にVtuberを見ていたが、その最中でも、月ノさんの周りで大きな騒動があったことを知っているし、なんならYouTubeのアルゴリズムで「そういう」動画が回ってきたこともある。おそらくファンの人にとってはそれは「公然の秘密」になっていた。(ご本人やライバーの方が見られていたら、ここを言及するのは…申し訳ない。)

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(『10分でわかる月ノ美兎』より)

…それ以前に、すでに見た目のキャラクターと中身の乖離が激しすぎた。しかし、彼女は、彼女を慕ってくれるファンや、二次創作の存在を知り、『わたくし一人の体じゃない』(ユリイカインタビューより)と覚悟を決めて、活動をし続けた。


だから、このように配信で一回言った言葉も、アーカイブや切り抜きを通して回りまわってしまう。「月ノ美兎」という固有名に回収されてしまう。(この特徴は、他のライバーさんでもある程度共通である)。さらに二次創作も、そのパワフルなフレーズに引っ張られて作られることになる。強烈な存在感があるのだ。

批評家の黒嵜想氏は、ユリイカに掲載されたVtuber論で、Vtuberは声とキャラの口元をわざわざつなぎ合わせたグロテスクな存在と述べていた。これは、初音ミクと対比しても、例えば「月ノ美兎」というVtuberは口の動きの同期によりどうしても「中の人」を感じさせてしまう。月ノ美兎と言うキャラや声は、その身体を離れることができない。無理やり「個人」であることを強要するその技術を、匿名性の世界であるニコニコ動画や二次創作を愛する彼は「グロい」と表現した。


90年代の心理主義と00年代の演劇の時代


ここで、Vtuberを見る時にも使える、芸術の見方を紹介しよう。さやわか氏はやくしまるえつこ論である「幻想の不思議少女」で、90年代には「心理主義」と呼ばれる価値観が重要視されたという。これは、自ら手作りした心の叫びこそが、「本物」であり、内面の発露こそに価値があるという時代である。これは、ちょうど小泉今日子以降、90年代にアイドル冬の時代が到来した時期、そして空前のバンドブームが来た時代と被っている。



しかし、00年代に入るとモーニング娘やケミストリーに代表されるように、「作り物」のアーティスト像が受け入れられるようになってくる。神聖かまってちゃんは、『ロックンロールは鳴り止まない』というこの曲をライブでやる際、「サブカルチャー!サブカルチャー!」と叫び続けるが、これは、そもそも他の人からつけられたはずのレッテルである「サブカル」を自作自演していることの現れである。こうした「キャラ」を意識することが、00年代は否定されなくなっていった。

00年代のこうした志向は、海外では「エモ」と呼ばれるジャンルのバンドたちに見られる。

ストリート的と呼ばれる例えばスケボーや、いかにも演劇らしい表現をわざと取り入れ、自作自演することで強い感情を生み出す。コスプレも限りなく近いものだろう。「エモい」という言葉は、よくVtuberでも使われるが、それはこの自作自演の共犯関係(わかってる感)が元手になっている。ちなみにこの世代のアーティストはQueenを好んで聞く傾向があり、またこれらのバンドはローリングストーン誌をはじめとした本格派を自称する雑誌から評価が低い。なぜならわざとらしい演出過多の商業的音楽に見えるからだ。(当然、ここの価値観も時代によって変わる)

10年代と匂わせの時代 ーーやくしまるえつこと「他作自演」

自分はただの素材でいいと思っている                                   やくしまるえつこ

時は2010年代。インターネットは発展し、SNSは全盛期に突入し、自分の発言を誰が見ているか分からない時代に突入した。

やくしまるえつこは、2006年に真部脩一らと共に、相対性理論というバンドを結成する。やくしまるえつこはソロ活動を行う際、コンセプター「ティカ・α」という変名を使い作詞作曲を行っている。これは、上記のインタビューにあるように自分を素材として「他作自演」、自分は不思議少女の一人であり続けようとする。さやわか氏は、「幻想の不思議少女」の中でこの状況は、ケミストリーをはじめとするASAYANのように、作り物であることを観客にオープンにしている

故にさやわか氏は、やくしまるえつこはアイドルであり、さらに彼女を含めてゼロ年代以降のアイドル(Perfume、AKB48、ももクロ…)がやっていることは完全に演劇であると考えている。これは、にじさんじにひきつけるとセレ女のことを思い出して、なかなか感慨深いものがある。

そして、SNSの時代、誰がどの発言を見ているかわからない時代になると、こうしたわざと作り物の関係を作る、リアリティーショー的な仕掛けはどんどん人気を博していった。そして、その関係性は「作り物」であるが故、ファンに届ける時は「匂わせ(隠喩)」という形をとることも多い。

ポイントは、SNSの時代には相手の反応が見えるため、関係性の形もどんどんそれに従って変化できることである。にじさんじ甲子園は、この関係性の変化を活かすことのできる最良の土壌だった。やくしまるえつこさんは、この時代の変化を先に読み取った先駆者だった。

このように、「自分が他人からどう見られるか」自体を考えることは、2000年代以降のアイドルにおいて、明らかに大事なコンセプトになった。そしてこのコンセプトを最も先取して考えていたのが、初期には「自意識過剰」だと自分で言うこともあった椎名林檎だ。

椎名林檎の影 ーー恋が多すぎること、そして優し「すぎる」こと

                                                      

この一節は、椎名林檎の「月に負け犬」の冒頭である。

最近の音楽史の研究では、「絶対に人とは理解し得ない」というところから絶望を歌う宇多田ヒカルと対象的に、実は椎名林檎は「人とコミュニケーションする不安」はあっても、あくまで人と繋がることは捨てていなかった。その「甘やかさ」が彼女の持ち味であり弱点ではないかという。椎名林檎の高校時代聞いていた、ルーツとなる曲を見ると、ありとあらゆるジャンルを深く知る「マニア」的な側面があった。

一見、椎名林檎さんは窓ガラスをぶち破るし、『宗教』みたいなぶっ飛んだ世界観の曲を作る。しかし、それは全て歌謡曲やロックなど、あらゆる文脈を理解し、大衆向けに「記号」として渡すための「演出」「キャラ」だった。それは、ありとあらゆる舞台装置の意味を理解できる彼女の繊細さのあらわれである。(念の為に繰り返すが、演出が悪いわけではない)


『ポスト・サブカル焼け跡派』では、椎名林檎を、『確かに優しい人』と言いながらも、メガホンやメンヘラといった記号を、ポップスとして届けようと、記号と遊んでいた時に、国民的なイベントに呼ばれてしまった(偽物がいつの間にか本物になった)のだろうと分析している。それが、NIPPONという曲の騒動につながった。だからこの本では椎名林檎を責めるというより、聡明なはずの『彼女自身が今の状況を咀嚼しきれていない』という状況全体を問題視している。

アルバム、『日出処』で椎名林檎は「静かなる逆襲」という曲を書き、こういう批判に対応したように見える。彼女は、批判に対しても対応する優しさを持っている。ただし、その内容はかなりヤケクソで、私も複雑な気持ちになった。椎名林檎は「コスプレブーム」の先駆者とも位置づけられることが多い。

こちらの記事が、『ポスト・サブカル焼け跡派』の椎名林檎の章を全て公式が転載したもの。椎名林檎は、自意識を暴走させないために、慎重にバランスを取って発言することを選んだ


One Room ーー引きこもりとサブカルの場所(寄り道)

DAOKOさんも「一人部屋」についての歌を歌っていた。子供部屋は、サブカルが始まる場所になりやすい。こっそり親の本だなの本を盗んで、自室で読んだ人も多いだろう。一方で、部屋から出ることが難しかったり、人との関係をうまくつなげないとそれは「引きこもり」となりうる。そして、エヴァンゲリオンは引きこもりの人間がどうやって成熟するか?という問いだったともいわれている。また、DAOKOさんの憧れの人は椎名林檎であり、常に家では『丸の内サディスティック』を聞きまくっていた。


サブカルと面白主義 ーーその歴史と功罪、「共犯関係」



授人以魚 不如授人以漁                                  魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ                       ―—老子




月ノ美兎は、初期からよく「私は面白女でいい」と発言していた。これは、実は彼女のVtuberではなく、サブカルチャーの歴史の中での立ち位置をよく表している。

70年代、ガロなどの雑誌を中心に広まった「面白主義」の先導者は、全共闘前後を体験した糸井重里さんだった。糸井さんは、全共闘以後、「何をしても現状は変わらない」というシラケた状況を敢えて引き受けて、子どもたちを信じるかのように、色々な知識を与え続けた。その仕事が、例えば「ヘンタイよいこ新聞」であり、「MOTHER」だった。坂本龍一も、同時期に音楽の分野で同じような活動をしている。

この仕事は、一方では社会の不条理や世界の広さを広めるのに役に立った。しかしその一方で、下の世代の子供たちにとってそれはベトナム戦争や全共闘など、現状を変えるための戦いの歴史を伝えず、ひたすら「記号」の世界で遊ぶことに終始させたのではないか、と『ポスト・サブカル焼け跡派』では述べられている。実際、糸井さんの活動は時代がすすむにつれサブカルというよりも、「大衆の味方」のような扱いをされていくようになる。これは「おたく」とよばれる世代を作り上げた土壌だと言われている。

タモリは、そもそもブリーフ一丁で走り回るようなタレントだったが、1980年の笑っていいとも!の開始とともに、朝日新聞やNHKなど硬い、知的なイメージのある人に変身していった。『タモリと戦後ニッポン』ではタモリの力を「何もかもを相対化する力」であり、「国民のおもちゃ」であるその様子はまるで天皇だと語られている。

赤瀬川原平は、路上を観察することによって「あれ、これって本当は無駄だけと面白いんじゃね?」など、日常に面白さを探す活動を行った。特に不動産に付着している意味のないものを「トマソン」と名付けた。

世の中嫌なことばかりですが、やってみたら意外に面白いということもあるものです。ぼくが「何をやってるのか分からない人」とよくいわれるのは、次々に面白いことに出くわし、興味の対象が移り変わっていくからなんです。(インタビューより)

荒俣宏は、水木しげるの弟子にあたる博物学者の一人。自分のことをあまり語らず、妖怪やマンガといった、「役に立たないもの」をひたすら調べまわり、「調べたらなんでも面白い」と面白がる性格を持っていた。

みうらじゅんは、誰もすごいと思わなかったことを「マイブーム」として思い込むことによって、徐々に他の人にも浸透させていく「ない仕事」を作る天才だった。「ゆるキャラ」ブームの立役者であり、いとうせいこうと共に『見仏記』と言う本も出し続けている。

面白主義は、日本のサブカルチャーの豊かさの元になったと考えて間違いないし、よい所も素晴らしい人もたくさんいる。では、面白主義の何が問題なのだろう?それは「モノの見方」を変えれば世界が変わることは確かにあるかもしれないが、一方で実際に行動に移して状況を変えなければ「そこに地獄がある」という事実は変わらないからである。70年代、あらゆるものが記号化し、重々しい話をしていた学者も「ニューアカデミズム」の名前で、漫画や小説を面白おかしく話していた。

しかし、90年代に、サブカルチャーは大きな転機を迎える。当時の90年代の人々はオウム真理教をサブカルチャーとして面白がってしまった。その当時の人々が公開している様子は↑のTogetterにまとめられている。当時のバラエティにもオウム真理教は出演していた。世界の見方を変えてくれるものとして「面白そうな」ものとして、真理教を持ち出してしまった。(このあたりは、『ポスト・サブカル焼け跡派』に詳しい)

有名な麻原の空中浮遊写真が「ムー」の「トワイライトゾーン」に載ったのもその頃(1985年)だね。彼の出発点はサブカルチャーだったといえる。半分ネタ、半分本気みたいなノリから始まったものが、徐々に「救済」を志向するようになっていく――。                                                                              TVOD『ポスト・サブカル焼け跡派』(p80)

この「半分ネタ、半分本気」というノリは、どこかVtuber初期の混沌とした時代を思わせないだろうか。オウム真理教によるサリン事件がある同年、新世紀エヴァンゲリオンのブームが始まる。

そう、私が月ノさんやVtuber界を見て警戒しているのは「カルト化」することである。しかも月ノさんの場合、椎名林檎と同様、本人が優しすぎるがゆえに流される形で持ち上げられる「カルト」である。

繰り返し念のために言えば、面白主義自体が悪いわけではない(むしろ私もよいものだと思っている)。ただ、面白主義は、物事を相対化できるアイデアを持つ人を持ち上げすぎる傾向がある。緻密なアイデアは人に説明する難易度が高く、時に危険なアイデアも含む。さらに一歩間違えると「空気読み」になってしまう。

『月ノさんのノート』を見ればわかるように、月ノさんは、基本的に他の人の考え方を操作することを避けようとしている。その一方で彼女は、やくしまるえつこに代表されるように一意的な解釈を受け付けようとしない作品を作り、「なぜかこの人には惹かれる」とか「月ノ美兎は月ノ美兎にしかわからないヤバいやつだぜ!」「さすが月ノ美兎!」となる。

それは、誰もが彼女ほどのレベルで物事の「面白いところ」を発見できるわけがないと思い込んでいるからだ。月ノさん自身はかなり方法論をはっきり喋っている(ノートを取る・逆張りをする)し、なんなら『月ノさんのノート』は彼女自身が創作しているときに考えているところや苦しみを実演している。そのうえで、最後のあとがきに「自分は自分のためだけに演出家になれる!」と書くのは、この本自体がそういう「演出」で出来ていることの証左だ。

そこをはっきり書かないのは、彼女の「やさしさ」なんだと思う。



平田オリザ『演劇と演出』では、カルト化、自己啓発セミナー化する集団の特徴を次のようにまとめている。

・勧誘がしつこくないか。 
 ・規範となっているものが、絶対的に正しいとされるリーダーの感性に委ねられていないか。
・その規範以外の、演劇論、方法論を、すべて否定していないか。 
 ・リスク、マイナス面の説明があるか。
・機構がピラミッド型で、無用な序列競争がないか。 
 ・授業料は妥当か。

私は、Youtubeのシステム上、大文字にした3点は完璧には避けにくいと感じている。特に事務所の場合、時代を切り開いた先駆者は高確率で持ち上げられる可能性がある。
そしてYoutubeは不可避に「数字」を意識する作りになっている。「お布施」と言われるスーパーチャットも、時には高額になり得る。

エンタメをはじめ、人を集める職業は、どうしてもこうした要素は部分的にありえる。そして人は少なからず人に頼らなくては生きていけない。だから完璧も存在しない。アイドルを目指すということは、少なからず強い感情を巻き起こすことになる。

この点は、どうか注意されてほしい。


オウム真理教以降、宗教が危険なものとして意識されてから、「自己啓発」、つまりは自分自身を探したり、成長させることを最善の策として考える言説が増えてくる。ご存じの通り、これも時に危険なものになる。YouTuberのDIY精神などはその一つだが、余裕のあるまったりとした時間を取ることも大事。

タモリさん・中沢新一さん・糸井重里さんによるインタビュー。

現在、VR技術の文脈では「プロテウス効果」が注目されている。これは、自分が使っているアバターの設定や見た目に性格や行動が引っ張られるというものだ。では月ノ美兎の設定を見て見ると・・・

高校2年生。性格はツンデレだが根は真面目な学級委員。
本人は頑張っているが少し空回り気味で、よく発言した後で言いすぎたかもと落ち込んだりする。

そして、これは…本来言うつもりではなかったのだが…ただ、月ノさん本人の身の安全にも関わる部分があるので、少し書かせてほしい。何を意味しているかは、ファンの方なら感じるだろう。

大事なこととして、にじさんじには数人、明らかに性の自認について、悩んでいる方がいる。そして、私見では…月ノさんがよく繰り返しよくやる「ある発言」は、月ノ美兎自身の魅力と天秤にかけて、リスクが高い。私は海外のエンタメ界の様子も見ているので、切にそれを感じている。

サンドウィッチマンのお二人が言ったように、『人が傷つかないお笑いは存在しない』。だから責めるつもりもないし、大きい話でもないし、止める権利もないのだけど… アイドルとしてこれから出ていくなら……本当にいろんな材料を集めてよく考えてみてほしい。流されずに、自分の形をよく見直して上げてほしい。月ノさんの憧れた人たちも、これから関わる人たち(この方は私の推しです)も少しずつそういう問題を考えている人だからだ。

この話は繰り返さないが、読まれていたらどうか、お願いします。

魔界ノりりむさん、相羽ういはさんの推しである大森靖子は、性、お金、恋愛の暗いところも全て、包み隠さず語るミュージシャン。りりむさんは、彼女の曲を聴くと「女の子であることが好きになる」と述べている。

星野源は、確かに「面白主義」の一人として考えることはできなくはない。しかし、ハーレムを作っていて人気者に見える彼の本や、音楽のルーツを探るとそこにはマイケルジャクソンの孤独に寄り添い、いじめを受けていた過去について、政治について赤裸々に語る姿が見える。彼は、アーティストが深読みされる存在であることを知っていて、だとすれば自分を媒体として、過去と現在をつなぐ存在であろうとした


大槻ケンヂは、1999年に地球が滅びるというノストラダムスの大予言を自分が信じてしまったことから、リテラシーについて反省した。実は、この反省の一部は、絶望先生の『林檎もぎれビーム!』や『あれから』の歌詞の中で、繰り返し「それってカルトか何かの勧誘?」「マニュアルで嵌めてるだけかもよ?」という言葉で出てくる。この言葉は、大事だから本当によく覚えていてほしい。


プレイヤーとプロデューサー、アーティストと運営

月ノ美兎の優しさとは何だろう?

それは恐らく、全ての物事を俯瞰して考えるメタ思考だった。自分の知識を活かして、文脈をよく考えて、それをどのようにすれば面白い方向に持っていけるか考えることのできる視野の広さだった。

彼女は、自分が「サブカル」の話をしたり、モツの話をしたら喜んでくれたという事実から、どんどん変な女の子へと変身していった。それは、彼女が大好きな「みんな」が望んだことだったから、だろう。


だから、他の人が粗相を行っても、できるだけ自分が泥をかぶるように、あるいは他のバーチャルユーチューバー「月ノ美兎」という存在に恐れおののいている子に対しても、自分が泥をかぶることができる。照れ隠しがあるが、明らかにここで月ノさんはリゼさんに「好き」と伝えている。『月ノさんのノート』には「客観的」「ものはいいよう」「見方を変えれば…」という言葉がよく出てくる。そして、逆境をはねのけ続ける彼女は「正義の味方(ヒロイン)」と呼ばれるようになった。

ところで…この視点は本来、アーティストが持つものというより、運営やプロデューサーが持つ視点じゃないだろうか?あるいは、前述の椎名林檎ややくしまるえつこの持っていた、自分を作り上げる自分の目線じゃないだろうか。


東浩紀『テーマパーク化する地球』では、「運営と制作」の関係性を、「親が生まれて来た子供とどう接するかの関係性」だと書いていた。親(運営やプラットフォーム)は、子ども(アーティスト)がどのように成長するのかの環境を整えることができる。

最終的に、子供は成長し、親と子供は対等な関係へと変化していく。でもその時に親に対して子供がくっついたままでは、次の世界を開くことはできない。東浩紀氏の場合、自分の会社の社員が等価交換(仕事をして給料をもらったら、それで終わり)に従いすぎるあまり、トラブルになった。

芸術の中でも、アイデア出しや思想のすりあわせは、特にトラブルの元にもなるし、時間がかかりやすい。でもその努力が無ければ、芸術はいきなりただの商品になってしまう。

大森靖子さんは、特に小室哲哉さんとつんく♂さんが「アイドルは強くあってよい」というイメージを作ったことを感謝している

この目線でYouTuberを考えると、非常に難しい問題がある。私の場合はYouTuber Premiumに入り、なるべくグッズからお金を還元したりしている。他の方なら二次創作やファンサイト、クチコミという単なる等価交換以外の形で還元するだろう。これが余分なものを許容する文化の礎になる。

しかし、完全に月ノ美兎を「コンテンツ」として扱ってしまえば、一番快楽の大きいコンテンツを、短期的な目線で月ノ美兎にコメントなどで要求することができてしまう。ジャンプ漫画で言うところの辛くて長い「修行シーン」を許容できなくなる可能性があるのだ。

おそらく、ここが3年目で月ノさんが雲隠れした理由ともつながってくる。

実は、私の周りの学問系の方は、YouTuberが「自分の思い出を売り物に」することをおススメしなかった。それは、自分の思い出をネタとして消費するためにどんどんやっていることがエスカレーションしていく可能性が否定できなかったからだ。でも彼女はそれを三年間、慎重にやり続けたし、ファンのことをそれでも信頼し続けた。しかし、それは自分の檻の中に自分を閉じ込め、セルフパロディを続ける苦しみを引き受けることになる。(逆におすすめはQuizKnockやトリビアの泉のように、鉄板のフォーマットを手に入れることだった。ただし、これはあくまで外野の言葉である)

問題は、ファンがどうやって「ガチ恋」や「信者」「極端なアンチ」ではなく、自立した観客になれるか、それを許す場を作るかだろうと思う。時に賛成し、時に違和感を口にできる存在である。なぜなら彼女は、ずっと「一緒に遊ぼう」「おすそわけをしてほしい」と呼び掛けているからである。視聴者を信頼し続けているからである。

勘違いすんな 教祖はオマエだ!

月ノさんは、自分の雑談のためにネタをしっかり練ってくれるし、ニコニコしながら話をしてくれる。しかし、彼女が方針転換をしようとした時、その反対意見は「直接」月ノさんにいってしまう。おそらく、デレマスの緑の悪魔さんのように、アイドルプロデュースにおいて運営が前に出てくるのは、そうした批判をクリエイターに直撃させない防護壁的な意味がある。まさに「親」である。

ポップカルチャー研究の田島悠来氏のBrutusの記事によると、近年の「推し」概念は、SNSによりファン同士の対立が可視化されたことによって、純粋な推し行為から、プロデューサーの観点で推す行為が増えて来た。そしてその先駆者的存在こそアイドルマスターだったいう。

私はこの、ファンとライバーの距離感についてずっと悩み続けている。なぜなら、にじさんじは間違いなくファンとの共創によって発展してきた。しかし、視聴者の数が一定のラインを超えると、視聴者の声は「」に見えてくる。「アンチ」「自治厨」といった大きな枠組みでしか語ることができなくなる。これは、大森靖子さんが一番嫌う複雑な状況や文脈を簡単な言葉であっさり論じようとする磁場である。


美学者の伊藤亜紗さんは利他行為について次のように述べている。

さて、ここまで「利他」という問題について、さまざまな論者の考えや具体的な事例に即して考えてきました。その中で、利他とは「聞くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すことである、と同時に自分が変わることである、というポイントがみえてきました。そしてそのためには、こちらの善意を押し付けるのではなく、むしろうつわのように「余白」を持つことが必要である、ということも分かってきました。             伊藤亜紗「第一章「うつわ」的利他 ーーケアの現場から」『「利他」とは何か』(集英社新書) 

伊藤さんは、100%の安心を求めるのではなく(そのようなものは存在しないので)、社会的不確実性を受け入れること、相手の力を信じることが大切だと述べている。これは、私が月ノさんに感じている力である。

相手を支配したいと考える権力欲を避けながら、それでも相手の言葉を真摯に聞き、それでも伝えるべきことを伝えること。

果たしてそうした場所を、にじさんじは持つことができるだろうか。私はそれを願って、noteを書いている。

評論家や哲学者の間でも、推し概念の謎は段々と問題になってきている。

秋元康は、著書『企画脳』(2009)で「ロック的な音楽には、プロデューサーの影があるのはよくないので、自分の名前は伏せる」と述べていた。しかし峯岸さんの事件以降、秋山さんは欅坂46という相当メッセージ性の強いアイドルを手掛けることになる。これは、秋元康自らが「言わせている感」を感じ取られる危険を冒しても、彼女たちの自律性を大事にしようとする変化がみられる。


ColdplayのViva La Vidaは、昔、大きな権力を持った王様が実は「Puppet on a lonely string(一本の糸で操られる人形)」にすぎず、革命により凋落していく様を描いたもの。実は啓蒙専制君主のフリードリヒ2世が「君主は国家第一の僕(しもべ)」と述べたように、王様の中にも人々や臣下の声をよく聞き、そのとりまとめを行おうとした人もいる。


Serial Experiments Lain ーー「アタシがいるよ気づいて」

岩倉玲音はついに境界を脱して私と正対し、私の内面でいつまでも生き続ける。それができたのは、彼女が私に向かって言葉を投げかけ、声で呼びかけたからだ。アニメの本篇において彼女はネットと現実の融合した世界を自在に作り替えるようになるが、やはりそのことは真には問題ではない。なぜなら、やはりネットワークは場所ではなく、そして彼女がいるのも場所ではないところだからだ。それを忘れてしまうと、彼女は「本当のあたしのいるところ」という、固有の内面と物理的な場所を求めて、先ほどの混乱した問いに立ち戻ってしまうだろう。しかし「ここ」とは限定しうる空間ではなくて、たくさんの私が彼女の呼びかける声を受け取ったということから遡及的に求められる場のことである。本当に越えられようとしているのは、ネットと現実のあいだにある物理的な境界などではなくて、私と彼女のあいだにある境界だった。                                                 さやわか「笑わない少女は私につぶやく 安倍吉俊の視線は届くか」『キャラの思考法』

Lainは、確かに時代を先取りした作品だと言われている。しかし、本当に革新的だったのは、「ネット空間」という呼び方で世界を見ることが難しいという事実である。

インターネットが空間ならば、「私の場所はどこ?」という岩倉玲音の問いは、無限にループしてしまう。しかし、月ノ美兎が事実として、我々の視覚上ではペラペラの存在であるように、「空間とはまた別の」論理で繋がっている

さやわか氏は、Lainの存在は彼女の声を受け取った人々がそれぞれに作るイメージによって成り立っているという。恐らくこれは、Vtuberの存在が二次創作と切っても切り離せないことも併せて考えると、今の現実を正確に写し取っている。黛灰くんが実際に示したように、演者と観客の関係はくっきりわかれたものではない。

絶望先生は、ラジオや作品内に大量のパロディや現実に「絶望先生」という作品に対して起こったことを取り入れるせいで、全てを相対化しようとする。この作品は、ニートやひねくれた人々に対して、少女趣味や色んな意味でギリギリの言葉で呼びかけをかけ続けた。



生まれたてのジュエルはピンク ーーそしてアイドルというプレイヤーへ

私がこの記事を書き始めたのは、アイドルについて考える必要があったこと、百合やBLについてこれから書こうと思っていたこと、色んな理由があるが、一番は、Juvvelの配信コメが少し荒れ狂っていたこと、そして気のせいか月ノさんの初配信でのトーンが低かったことだ。

私の解釈だけ、少し書かせてほしい。月ノさんは、元々「おもしれーやつ」として出て来た。そして雑談やゲーム配信でも、「まるで友達といるような」視聴者との絶妙の距離感を大事にしてきたし、それは今も保たれている。


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(月ノ美兎 - YouTube Music Weekend スペシャルライブ 11:10~)例えライブの時間であっても、月ノさんはコメントの方を見続けた。というかこのレベルで後ろを向くアイドルって革新的では…?

問題は、それが五人ユニットの場に立ち、「場を俯瞰してみる」力を本気で出してしまうと、おそらく場を制圧してしまうことだ(ここは面白主義の段で書いた)。たけし軍団になってしまう。

また、アイドル(ここではAKB48やアイマスを想定している)は、総選挙などの「上昇」「成長」そのものを物語として提供してきた。デレマスは、まだ未完成なアイドルと共に歩む過程そのものを物語としている。

一方でこれまでの月ノさんの評価は「かっこいい」とか「イチロー(リゼ様談)」とか、完成されたものとしてが多かった。だから、Daokoさんのように完成されたものとして、ひとりで出ていくのと違い、Juvvelでの活動はこうしたこれまで培ってきた価値観が衝突しまくっており、一部リスナーの混乱を招いたと私は考えている。

もしもAKBやアイマス式ならば、全員の最終目標であるだろう3Dお披露目配信までの間の「関門」をはっきりさせるのは一手ではある。またPUFFYのように、ゆるーいアイドル像を提示してみる手もある。また星野源は、自分が中心になる音楽活動でもでもなるべく周りのバンドメンバーが映るようにバランスを取っているという。

今回の状況は、ある時期の椎名林檎が抱えた問題に近い。椎名林檎は一時期(2015年頃)、自分は裏方に入ってプロデューサーとしてやっていきたいと述べていた。しかし、彼女の周りには彼女自身が歌うのを望む人が多かった。その結果、オリンピックに際して東京事変は復活することになる。

だから、Juvvelというユニットは、おそらく委員長が場を取り仕切る人(プロデューサーやメタ)の能力ではなく、プレイヤー(ベタ)としてどのような立場になるのかという大きな転機になっている可能性が高い。


終わりに Happy EndとTrue End

誰に話を聞いてもよぉ。戦場ヶ原から聞いても、羽川から聞いても、両親から話を聞いてさえ、お前があんな趣味を持っているだなんて情報は無かった。そこまでお前は頑なにあれらの恥ずかしい創作物を隠しきったんだ。お前は誰にも言わなかった。それはつまり、お前にとってそれが本当の夢だからだろう。本当の願い事は、他人にも神様にも言うもんじゃないからなぁ。神様になったお前は幸せなんだろう。楽しいんだろう。だけどお前、神様になりたかったわけじゃないんだろぉ?                           
色々調べた。だが、そうだ。なにも知らない。重要なことは、なにも知らない。お前のことは、お前しか知らないんだから。だからお前のことはお前しか大切にできないんだぜ。そしてお前の夢も、お前にしか叶えられない。 貝木 泥舟(恋物語)

『月ノさんのノート』で、月ノさんは「自分が嘘をついていること」を仄めかしている。

月ノ美兎が、ついていた嘘は自分自身に対してだった。そもそもVtuber自体が表と裏をつくる嘘みたいなものだ。それは、口で事実と違うことを言うのではなくて、自分の気持ちを言わない、挫けた所を見せない(あるいは立ち直って見せる)という形でだった。だから、委員長は意地でも委員長であり、清楚であると主張し続けた。それは彼女の優しい、セルフプロデュース(自己演出)だった。

臆病な彼女が好きだったのは、「みんなが笑ってくれる」ことだった。だから、彼女は自分自身を素材として扱われることをよしとしたし、自分が笑われることを厭わなかった。


『ポスト・サブカル焼け跡派』では、椎名林檎について語られたのは、現代の「過剰適応」の病についてだった。SNSやコメントは、「相手の反応」が大量にある場所であり、それに対して気遣いをして疲れてしまう。特に幼少期に寂しさを抱えた人が陥りやすい。一方で、日本の社会で気遣いがうまい人は「世渡り」がうまくなっていくため、ここにジレンマが発生する。

精神科医の名越康文氏は、「自分の言葉で話す」ためには、自分の身体感覚で「言いたい」と思える言葉を持つことだという。相手の反応を見ながらしゃべる言葉は、どこかで薄っぺらさを抱えてしまう。こうした悩みは、例えば物語シリーズでは文字通り委員長である羽川翼が抱えたものだった。

あなたが幸せになれないのは あなたが幸せになろうとしていないからだよ    幸せになろうとしない人を 幸せにすることは誰にもできない                 羽川翼(終物語)


「夢」は時に、他の人にとって理解されないものだった。そして『ハチミツとクローバー』が教えてくれるように、才能がある人も、才能から逃れられないように創作をしていたり、才能と自分のやりたい方向性がずれることがある。だから、今ファンとして彼女にあえて向ける言葉を言えば…大森靖子のVOIDのように、面白くない姿を見せてもいいんだぜ

ギャルゲーだって、みんなが喜ぶハッピーエンドが、実は誰かにとってバッドエンドだったりするかもしれない。

「わかったつもりでいい」とか「月ノ美兎は救えない」とか言って、ずるい予防線をはりまくっている子を、完璧に知ったり、助言することは不可能だ。でも、さんざん人を救ってきた女の子が、「自分自身を」救いに、文字通り人を笑わせる「アイドル」になろうとした時に石を投げつけられるようなことを、私は認めることはできない。

少なくとも彼女の後ろに見えるサブカルチャーの歴史は、社会の波やキャラクターの呪縛にもまれながらも、それぞれやり方で、それぞれの場所を探しにいった、その戦いの記憶が刻み込まれている。

JuvveLや月ノさんが、自分たちの形を見つけられますように。



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