「就職説明会」という言葉ではなく……

みなさん、こんばんは。禧螺です。

今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


来月から始まる大学の授業に備えるに際して、自分が将来どうなりたいかを考えていました。

将来、自分がこうなりたい・こうした職業に就きたい、といった具体的な理想像は、高校生もしくは大学生で「キャリアデザイン」等をはじめとした、就職説明会で考えられた方が多いかと思います。

ちなみに私は、学生時代にあった企業主催の就職説明会には、一度も出たことがありません。

今になって、私が「こうなりたい」と思う人達から、実際に経験談を伺ったり、アドバイスをいただく機会をいただいています。

今が、私のとってのタイミングだ、ということです。



💭

就職説明会。

これのどこが気に入らないのかが分からないのですが、私には相性が合わない言葉です。

社会に出て行くとき、どこかの組織に所属するとき、能力値を測られたり、見られることがありますよね。

普通のことです。

社会経済を回すのであれば、より低コストで高い利益を得ながら、社会に還元していく。

むしろ基本中の基本のことだと思われます。

だからこそ、自分の好きなこと・興味あることを極めて、それを活かした職に就くとか、一つのことだけではなく、いろいろな分野を深めながら社会貢献していかれる方が居ます。

どちらも尊いです。


ですが、その時の私は、就職説明会が、自分のためになるとは、どうしても思えなかった。

最初の学校でのガイダンスは、全員出席を求められたので出たのですが、何も感じられなかったのです。

感じ取ったことと言えば「ああ、私はこれで人間としてではなく、商品として見られるんだな」と思ったことで、むしろ腹立たしかった。

「選んでもらえなければ、人間として欠陥品という意味なのだろう」とさえ思いました。

そんなふうにも捉えられる渦の中に飛び込むのが、どうしても嫌でした。

当時、私は大学での自由な学びと、教授たちの学びや人生経験の話の方が好きでしたので、空き時間に部屋に伺い、お話を聴いたり意見交換したりする方が好きでした。

その「好き」はありがたいことに、現在の私の、noteを中心とした創作活動に力を発揮してくれています。

一時「就職説明会に、ちゃんと参加しておけば…」と思ったことがあるのですが、今なら胸を張って言えます。

「参加しなかった私は、私自身の望みをちゃんと知ってた。行かない判断ができて偉かったよ」と。


現在、私の将来やりたいことを、実際にやっている人達が周囲に居て、お話を聴くことができたり、note記事にてそのノウハウや、やりがいを教えて頂く事が出来ています。

苦労されたお話や、試行錯誤の過程等、事細かに知れるようになってきました。

それも、自分の憧れる人たちにばかりです。

そんな環境に置かれていることがありがたく、この方法で社会に復帰できたら、次は似た状態の方を支援することが出来れば嬉しいなと、かすかに未来を思い描いています。


私は、なるべく苦労したくないです。

小学生時代のからかいや、中学生時代でのいじめで、散々生きることそのものに苦労してきましたし、それも原因の一因となっている深く根付いていた自己否定感に、ようやく向き合えるようになってきました。

自分のやりたいことに関する努力はし続けたいけれど、自分の「生きたい」の思いが削られる苦労はいりませんし、したくありません。


「そんな甘い考えで、食べていけないよ」と思われた方も居るでしょう。

私は、食べるため、働くために、生きたいわけではないので、いいのです。

私が私として生きたいから生きるのです。

その気持ちを理解してくれる家族をはじめ、周囲のクリエイター様に恵まれている。

今日も、生かされている。


「就職」ではなく、

なりたい私になるためのタイミング、社会貢献ができるタイミングが来た

と捉える方が、私自身のテンションが上がります。

頑張れ私。

それに、私と似た状況にあるかもしれない人たちにも、こうしたチャンスが来て欲しい。

こんなことを願うのは欲張りでしょうか。

でも、そのタイミングが、今をめいいっぱいに生きている人達にむけての、祝福であって欲しい。


そんなことを、考えています。



💭

トップ画像は にゃこぱん様 からお借りしました!

ありがとうございました。


みなさんに、ここで出逢えて嬉しいです。

この記事にお時間をいただき、ありがとうございました。


それでは、今日はここまでです。

みなさんの本日が、素敵なものでありますように。

クリエイターの活動費として、使わせていただきます。 また、日本を中心とした、伝統文化を守り後世にも残して参りたいですので、その保護活動費としても使わせていただきます。