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大西羊
2023年10月23日 04:24
手紙がとどく。山になるくらい、どっさりと。 寝ぐせのわたしは、玄関の靴のそばに落ちて土ぼこり・砂まみれになったそれらを一つひとつ拾いあげていく。上等の、ステキなクリーム色の封筒のそれは、ほんとどっさり、バケツ一杯ぶんくらいある。 一通目の手紙にはこう書いてある。 あなたのことを 好きになってしまいました だから届く 水星の恋文 すっぴんのわたしは封印を破って他の手紙もぜんぶ読ん
2023年8月28日 03:39
(あたりは静かで、真っ暗闇だ)(遠くにぼやっと、光が見える)(すごくゆっくり、近づいていく)(パチリと携帯のライトをつける)<どうも……><どうも、こんにちは。はじめまして。お忙しいところ、すいません。水を一杯いただけないでしょうか?><え? あんた、誰?><いえ。わたしは、なんでもないんです。ただ、グラスで一杯、水をいただけないかと思いまして、お声かけしたしだいです><水? あん
2022年2月3日 17:19
歳月にくすんだ床板も、夕刻になると鼈甲のように輝いた。輝きはテーブルや樫の椅子、黒革張りのソファ、本棚、色の褪せたカウンターにも等しくおとずれた。おじは太った指を交差させ、手を組んでいた。カウンターの内側に深く腰掛け、窓をはさんだ向こう側の世界に視線を投げかけていた。外の世界には、人々の雑踏があった。子どもたちの高い声があり、自転車の錆びついた回転があった。ぱたぱたと窓枠にうちつける風や、北のほ
2021年8月27日 10:43
僕のガール・フレンドは以下のようなことを伝えた。①先日、占い師のもとを訪れた。②友達と一緒だった。 そして、僕がそんなおもしろそうなことについて口をはさむその前に、以下の二つをつけ加えた。③私は、占いなんて興味ない。④そのときは、友達についていっただけ。 彼女は「こんな話したくなかったんだけど」というような顔をした。④について、「本当は行きたくなかったし、いつもなら断るところだったけ
2021年8月12日 00:56
花の話をしよう。 といっても、今現在僕のふところに花の話は存在していない。妖精の話や、クリスマスの話なんかはあってそれを語ることはできるのだけど、花の話に限っては持ち合わせていない。つまり、花の話をすることはできない。 いや、僕はこれについて申し訳なく思っている。いや、本当申し訳ない。ここに深く謝罪をする。 ここは花の話の場所なのだから、もちろん、花の話があったのなら、もう血眼くらいの
2021年8月10日 15:46
***サークル活動の一環で、テーマとページ数が制限された小説を書いた。それら四作品をここにまとめている。***世界の終りと……ワンダーランド 朝がた、電話があった。窓辺のところで、愛用の黒電話がちりちりと鳴った。僕は朝を楽しんでいるところだった。実に心地よい日で、湿ったそよ風がふき込み、鉢植えのトマトは緑の色に輝いていた。「まただよ」相棒は開口いちばんそう話す。「世界が終るってさ
2021年5月26日 21:16
ただぼんやりとクーラーの効いた部屋でテレビを眺めている。ダブルのカウチに腰かけながら、ときどきチャンネルを変えたりしている。外はまるで暑すぎた。むき出しの熱気に耐えられるほど、僕はタフなつくりじゃない。だからこうしてぼんやり休日を過ごしている。七月の太陽はぎらりと笑い、雲はうんざりした顔で浮かんでいる。妻がどたどたと部屋に入ってきても、僕はぼんやりテレビを見つめていた。極めてぼんやりした頭はとけ
2021年5月22日 16:18
日曜日の朝、紅茶を淹れると私は机に向かって言葉を書いた。死んでしまったあの子の言葉を。手のひらの半分もない、ごく小さな紙切れに私は言葉を認める。「おはよう」、「明日は体育があるんだ」、「これ、プリントだって」、「お母さん、今日って何曜日だっけ?」。 昼食にラビオリを温めた。仕事の電話があった。皿を洗って、戸棚にしまい、取り出したタンブラーに買ってきた水をついだ。砂糖漬けのレモン数枚を小皿に出
2021年5月18日 20:05
顔も服装も知らなかったけど、横顔を一目見てわかった。そのいで立ち、息づかい。かれだってことが私に伝わってきた。 私はそれまですごく緊張していた。ことが決まってからずっと。『雪国』、『砂の女』、『さようならギャングたち』。ここの一週間はどれも手がつかなかった。ぼうっと気を取られて、気がついたときには西の空を眺めていた。鷹揚な顔つきをした文学さんが佇むあの空を。私の意識は他にあって、様々なことを考
2021年1月18日 14:37
――水 僕には水の精霊の声が聞こえる。 いや。実際のところ、それは水の精霊の声ではないのかもしれない。それは水の声であって、精霊が話したり叫んだりしているわけではないのかもしれない。 僕には水の声が聞こえる。 それは……雨の降っているとき。シャワー室でうつむいているとき、車窓から湖を眺めたとき、蛇口をきつくしめあげたとき。 そして、水をのむとき。誰かが水をのむとき、僕の耳には精霊の声が
2020年11月30日 14:06
――人は死んだあと、その魂が天国と地獄にわけられるという。それを聞いたとき、僕は地獄に落ちるだろうと思って一週間ばかり落ち込んでいた。 この話を彼女にすると、彼女は天国と地獄の他に「あの世」の存在を僕に示した。シャワーを浴びたあと彼女は言った。「天国か地獄にきっぱりと分けられる人間なんて、実際にはいないのよ。みんなそれぞれに天国的な性質と地獄的な性質の両方を抱えているのよ。その程度が人に
2020年11月23日 19:16
「おぼえてる? ねえ。二人でトイザらスに行ったときのこと」 娘がからかうようにそう言ったのを聞いて、母は皿洗いの手を止めた。「いま、なんて?」「トイザらスのことよ」 娘はそう言う。ついさっきまで笑っていたのに、いまではもうテレビに見入っていた。母はキッチン越しにその姿を見た。娘はソファに横たわっていた。「トイザらスのことねえ」 母はまた手を動かしはじめる。流れで切るように皿を回し、ごしご
2020年11月14日 20:09
そこは厳密な空間だった。暗いトーンの青が部屋中に張り巡らされていた。われわれはその青いソファにかけた。いくらか緊張していた。ソファにかけてしまったのは、向かいに座る彼がそうするよう勧めたからだ。座ってから、その空間と同じような沈黙が流れていた。それは気分を悪くする静けさだった。われわれは――三人組だった――みながみな緊張しきってしまっていた。誰も話しはじめることはおろか、声を出すこともままならな
2020年11月12日 12:52
「なあ」「なあ?」「ん……なあに?」僕が呼びかけると、その小ぶりな影がこちらに向き直る。「ダンスはどうだい?」 彼女は甘ったるい声で「うーん」と唸ってみせる。考えるふりをしながら、この暗いフロアのなかで僕の両目を探している。緑色の艶やかな瞳が僕に向けられる。そして、彼女は僕に触れる。「うーん……どうしようかな? ふふっ……」 彼女はまたも甘ったるい声でそう言う。僕の身体に彼女の手がふれ