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短編小説:レストラン

 歳月にくすんだ床板も、夕刻になると鼈甲のように輝いた。輝きはテーブルや樫の椅子、黒革張りのソファ、本棚、色の褪せたカウンターにも等しくおとずれた。おじは太った指を交差させ、手を組んでいた。カウンターの内側に深く腰掛け、窓をはさんだ向こう側の世界に視線を投げかけていた。外の世界には、人々の雑踏があった。子どもたちの高い声があり、自転車の錆びついた回転があった。ぱたぱたと窓枠にうちつける風や、北のほうから鳴り響く電車があった。ガラスを通してそれらはくぐもった音となってこちら側に漏れ出していた。おじは耳をそばだてていた。それから、石のように重たくまぶたを降ろし、両手の親指をこすり合わせた。店の中にはけむたい空気が立ち込めていた。夕日は歪な光線となって漂っていた。

 ガラスドアを開いてやって来たのが僕とそのガール・フレンドだった。僕たちは長く伸びたまつげの下から、控えめに店内を見渡した。おじはすぐには顔をあげなかった。まだ窓枠に手をついたままで、自分の手のところへ視線を落としていた。僕は彼女の手をとって歩いていき、角のテーブル席についた。
 レストランには、皿も、ナイフの固い音もなく、他に客はいなかった。それと同じように、僕たちは店に入ってから沈黙していた。彼女はカシミアのマフラーをとり、バッグをわきに置いた。僕はナイロン地のコートを脱ぎ、椅子の背にそっとかけた。
 おじはゆっくりとした歩調でこちらへやって来た。そして言葉なしにメニューをテーブルのうえへ置いた。僕はうつむいていた。彼女はおじを見つめているようだった。ぱちぱちとまばたきを繰り返しながら、その栗色の瞳をおじの方に向けていた。メニューを置いたあと、少しの間おじはそんな僕たちのところから離れずにいた。しかし、やはり何も言わないままに戻っていった。
 おじがいなくなってから、僕は顔をあげた。メニューを手に取り、長く伸びた白い指でページを開いて彼女の側に差し出した。

 僕が口を開いた。
「ねえ、どれにする?」
「私から決めていいのかしら」
「もちろんだよ」
「何にしようかしら」
 彼女は言った。
「少し、待っていて」
「わかった」
 僕はそう言った。そして、そう言ってしまうと、赤い唇をゆっくりと閉じた。

 店の中は、照明がついていないためか、夕日の輝きと影の薄暗さで満たされていた。僕たちの角の席には西と南に窓がついていた。ただ、カーテンが降ろされているために、まぶしすぎることはなかった。夕日は低い角度でレストランに入り込み、その影は引き延ばされたように長く伸びていた。油と日焼けあとのあるメニューには写真なしの名前たちが縦に並んでいた。彼女は伏し目のまま、その名前たちをひとつひとつ巡っていった。僕は息をついた。そして、手を組んだ。
 テーブルには平たい円形の木目がくっきり残っていた。木目はへびのような縦に細長い円を描いていたが、ふちのところで撃ち落とされたように途切れていた。夕日が差しこんでいる窓を見やると、ガラスは薄く、古びているようだった。レストランは一面木の造りで、梁には時計がかけてあった。入口近くの本棚には、絵本やおもちゃといった子どものためのものが丁寧に収められてあった。

 僕が最後にこのレストランをおとずれたのは、六年前の冬だった。僕は十四歳の少年で、そのときは家族と一緒だった。
 雪が降りはじめたころで、夜になると冬の大気はいっそう引き締まっていた。とても寒かったから、十四歳の僕は車から飛び出すとすぐにかけていき、細い腕でずっしりと重いガラスドアを押し開いた。外の世界と違い、レストランはとても暖かった。そして賑やかだった。そのとき、すべての席はうまっていて、どれくらいの時間のことか、僕は父と母とともに席が空くのを待っていた。
 僕はガラスドアの隣で立ち尽くしながら、八十年代の音楽や、食事の時間を楽しむ人々の流れいく言葉を聴いていた。手もとの本棚や、背中の木の壁はつぶらな白熱電球に照らされて、明るい黄色に輝いていた。レストランの熱気は厚みのある食べ物のにおいでいっぱいになっていた。鼻で息をするたびに舌が夏風のように湿った。
 僕はいまかいまかと待っていた。母は僕の様子を見てにっこりと笑っていた。そこはおだやかな暖かさと、健康的な明るさが約束されているような場所だった。ゆるやかに時は流れ、楽しげな笑い声は長く響いた。そして、外では雪が降っていた。ごつごつとしたアスファルトの黒いくぼみに、溶けかけたざら目雪が積もっていた。

 トレーに乗せておじがクリスタル・グラス二つを持ってやって来た。もう注文は決まったかい? と、僕が彼女に訊ねた。彼女はうなずいて、「ミート・パスタと、シーザ・サラダ」と、言った。それは文字を舌の上で転がすような、緩慢な発声だった。僕はハンバーグ・ステーキとミネストローネ、そしてロールパンを注文した。それから、黙ったままでおじを見ていた。おじは左手の鉛筆で注文を書き連ねていた。
 久々に会ったおじは、実際に過ぎた歳月よりも、ずっと深く老け込んでいた。あごはたるみ、髪は灰っぽい色合いになっていた。クリーム色だった肌は黒くくすみ、頬はこけて影が張っていた。太った首元で皮があまったように垂れさがり、皺が寄っていた。また、眼は深く落ち窪んでいた。奥には灰色の瞳が薄く輝き、歪んだ形で僕の姿が映りこんでいた。

 最後に、おじは低く扁平な声で繰り返した。

 ミート・パスタ、シーザ・サラダ。ハンバーグ・ステーキ、ミネストローネ、ロールパン。

 ご注文は以上でよろしいですか?

 僕はうなずいた。


「ここが、あなたのおじさんのレストランなのね」
「そうだよ」僕は言った。「ここが、そうさ」
「私、てっきりグリルだけのレストランだと思ってたけど、そうじゃないのね。こんなにたくさんの洋食を取り揃えているなんて」
 彼女は続けた。「ねえここはいつからやっているの?」
「僕も詳しくは知らないけれど、五歳のときに来たことがある」
「十五年?」
「あるいはそれ以上だね」

 僕はしきりに手を組み替えていた。右手で左手をもみ、左手で右手首をにぎった。彼女は珠のような瞳をくるくると転がし、まつ毛を妖精のようにはためかせていた。
「ここはとても静かなところね」
「そうだね」
「私、静かなところは好きよ。静かなところだと、音が綺麗に響くの。水たまりに雫が落ちて、その波紋が均一に広がっていくみたいに。私はそういう音の響きがとても好きなの。放課後にひとりきりで音楽室のピアノ弾くみたいにね」
「ねえ、あなたピアノは好き?」彼女は僕にそう訊ねた。
「好きだよ」僕はそう言った。「それと、前にも話したはずだよ。『楽器の中ではピアノが一番好きだ』って」
「そうかしら」
「そうだよ。うん。ピアノは好きさ。静かな音の響きのこともね」
 僕は言葉を切るようにそう言った。そして、キッチンは静かだった。しかし耳をすませばことことと、鍋や蒸気の音が聞こえてくるようだった。僕は警戒心を持って、少しだけカウンターに視線を投げかけてみた。しかし、もちろんそこには誰もいなかった。おじはキッチンにいるに決まっているのだ。
「ピアノは素敵だわ。眠るまえにショパンを聞くことにしてるの。すると、いい夢が見れるのよ」
「そうなんだ」
「そうよ。眠るまえの、本当に真っ暗になった部屋でショパンを流すの。すると、そこにはいつもと違う、夜の海のようなどこか奥深い美しさがあらわれるの。私はそれを聴きながらベッドに入って、目をつむる。深く、潜るように目をつむってから、ゆっくりとピアノの音に集中するのよ」彼女はそう言った。「そうすると、いい夢が見られるのよ」
「いい夢が……」と彼女は呟いた。僕はいまだ手を組み替えていた。右手の指を左手の指ではさみ、あるいは左手の指を右手の指ではさんだ。顔をまっすぐに前に向けて、伏し目がちに話す彼女を見つめた。

 依然レストランは静かだった。夕日は柔らかく、絹のように差し込んでいた。木々は濃い色に塗れていた。
 僕は息をついた。椅子に深く腰掛け直した。彼女はまた静かになって、レストランの内装を確かめていた。時計の秒針が音もなしに一周し、しばらくしてまた一周した。僕はもう一度息をついた。そして目をつむって、時間がたつのを待っていた。
 あるときになって、どこかの空で飛行機が大気を震わせているのがわかった。それは非常に微小な、いつもならまったく気づかず、意識の内に入ってくることもできないようなものだった。それでも、そのときの僕にはわかった。ここから離れた、とても遠くの空のものだったけれど、飛行機が確かにそこを飛んでいることが。白い翼がたそがれの時間を切り裂き、そのオレンジ色の海で泳いでいることが。ただ、目を開いて空を探しても、飛行機の姿はなかった。西の窓からも、向こうの北の窓からもそれは発見できなかった。彼女は僕と同じように静かにしていた。ふたつの手をナプキンのように並べたままで、栗色の瞳を動かしていた。おじがシーザ・サラダを運んでくるまでの間、僕は飛行機を空に探し続けていた。彼女は水のように静かだった。

 シーザ・サラダにはレモン・ドレッシングがかけてあった。僕らは大皿に盛られたシーザ・サラダをそれぞれに取り分けて、それぞれに食べた。
 続けざまにロールパンがやってきた。網かごに六つ入れられ、どれもふっくらとしていた。僕はそれを手にとり、ちぎり、食べた。彼女も僕と同じようにして食べた。そしてロールパンに関して、とくにソースは使わなかった。僕は熱いうちがいいんだと言い、先にロールパンをすべて食べた。そして、シーザ・サラダにふたたび取り掛かった。また、時刻は七時に差し掛かっていたが、客は僕たちだけだった。そして、それからも来客はなかった。ミート・パスタがあり、ミネストローネとハンバーグ・ステーキがあったが、来客はなかった。時刻とともに日は完全に落ち、店内には光が灯った。僕らはそれらの料理を分け合って食べた。ペンネが扱われたミート・パスタも、小皿に取り分けて食べた。水を飲み、ハンバーグ・ステーキをナイフで切り分けて、二人で食べた。僕はロールパンをおかわりした。ミネストローネは二つのスプーンを使って、ひとつの皿から各々に掬って食べた。そしてロールパンをミネストローネに浸して食べた。二人ともそうした。ある時点で外の雑踏の音が大きくなり、ある時点でまたもとに戻った。僕たちは単調に食べた。じつに静かだった。また、お互いに、口元を汚すことさえなかった。かちかちといった食器の音も響かなかった。

  僕が、最後におじに会ったのは、六年前ではなかった。それは、三年前の冬至だったはずだ。姉の結婚に際し、式場にさえ来なかったが、そのあとの懇親会にておじと会ったことを思いだした。が、実際には会ったというようなものではなく、遠目からそのシルエットを認めただけだった。人の多い祝いの席であっても、おじは静かだった。おじだけが唯一水を飲んでいた。

 おじと僕らには距離があった。ふたつの丸テーブルをはさんだ距離だった。あるいはそれ以上の距離があった。僕らが祝いの言葉を交わしている間も、おじはひとり緑のカーテンのそばに立ち、ずっと水を飲んでいた。重心を失った身を支えるように窓枠に右手をつき、視線を窓の向こうの暗がりに投げかけていた。そして、またやはり、沈黙していた。その姿は、まるで夜と溶け合うようだった。緑色のカーテンはおじの影で暗くなり、古い石材のように動かなかった。

  懐かしい白熱電球の輝きが灰みがかった黄色になって伸びていた。僕は食後のコーヒーを飲んでいた。彼女も僕と同じで、エスプレッソを飲んでいた。それぞれのソーサーには、使われなかったコーヒー・フレッシュが残っていた。
 繰り返す言葉のような外の風の吹き返しがひとしきり続いた。それが終わると、あたりはすっかり黙り込んでしまった。細かく震えたそばのガラスはやはり古いもののように僕には思えた。

「美味しかったわ」
 彼女はそう言った。
「ねえ、美味しかったでしょう?」
 続けざまに彼女はそう訊ねていた。
 おじはカウンターに座っていた。手を組み、重く息をついていた。

 時刻は八時を過ぎて、すべては水を打ったように静かだった。窓から眺める夜の樹も、眠るように止まっていた。
 どこか、この場所から離れたところで犬が鳴いた。それから白いはずの飛行機が、赤く点滅しながらその音をこちらに寄越した。本当にずっと遠くの、どこかの世界から。僕はまた同じように夜空にそれを探した。

 僕らは勘定を済ませるとレストランを出た。ガラスドアの前でそっと一度だけ目を合わせた。そして夜の道を進んだ。犬はまだどこかで吠え続けていて、街灯や、家々の灯りは綺麗だった。
 やがて河川敷に降りた。夜であっても川は休みなくせせらいでいた。石に流れがひっかかり、光が小さく反射していた。上流に向かうにつれて、車のタイヤや、人々の話す声が戻って来た。僕たちは川の側面に張り付き、ずっと歩み続けた。川面は風のようにゆらめき、暗い緑の色に沈んでいた。少年が石を投げると、鴨はいっせいに飛びたった。つがいになった黒い点がばたばたと羽を動かして、西の空へ去っていった。

 あるときになってその鴨の群れのことについて彼女が話し始めると、僕も口を開いた。そのころには、ずいぶん明るい場所に出ていた。ビルが頭を出し、交差点には行き交う人々の姿があった。駅につくと、僕たちは切符を買って電車に乗り込んだ。並んで座席にかけ、電車が駅を離れたあと、昔、僕は飛行士になりたかったんだ、とそう言った。
「いまのあなたは、そういうふうには見えないけど」
「昔のことだからね。僕がまだほんの子どものときに考えていたことだから」
 車内は明るかった。また、静かだった。車輪の回転は絶え間なく聞こえていたが、それでもなお静かなように感じていた。車両はがらんとしていた。シートとシートの間にぽっかりと空間があき、つり革が中空で不安定にさまよっていた。
 そこにいるのは僕と、彼女だけだった。
「昔、僕とおじは仲がよかったんだ」僕はそう言った。
「そうなのね」
「そうだ」僕はそう言った。
「昔は僕もよくおじのところへ遊びに行ったんだ。でも、子どものように遊ぶんじゃなくて、いつも二人で話をしていた。朝や平日の、人の少ないレストランでね」
 彼女は言った。「あなたはそこで飛行士の話をしたのね」
「そうだね。おじにだけ言ったんだ。『僕は飛行士になりたいんだ。どうしても』って」
「それで、いまのあなたはどうして飛行士になろうとしていないの?」
「わからないよ。どうしてなんだろうね」

 電車が町の中を、飛行機が夜の空を過ぎていった。湿った空気は暖かかった。

「ねえ、ひとつ訊いてもかまわないかしら」
「いいよ」僕はそう答えた。
「どうしてあなたたちはあんなふうになってしまったの?」
 彼女は僕を見ていた。まなざしは銀色の金属のように震えることはまったくなかった。僕の隣に座り、ぎゅっと強くこぶしを握り、それを膝の上に並べていた。ゆるいカーブに差し掛かるたび車輪ががたがたと音を立て、そして、そこは静かだった。
「あの人に優しくすることは本当にできなかったの?」

 僕はわからないよ、としか言えなかった。彼女はそんな僕のことをずっと見つめ続けていた。二対の栗色の瞳をもって。

 おじは僕らがいなくなったあと店を閉める準備をした。表に出していた看板を折り畳んでしまい込み、ネオンの電源をひとつひとつ落とした。すべてのテーブルを拭き、すべての白熱電球を切ってしまうと、レストランは、そのキッチンにいたるまでも、真っ暗なものになった。そして、おじはカウンターの内側で、また深く座りこんだ。灰色の瞳は外の世界に向けられていた。大きな両手には水の入ったクリスタル・グラスがあった。おじは本当に少なくなった夜の人々をずっと見つめていた。稀に通りかかる人々は急ぐなり、二人きりで話すなりしながら、角を曲がって見えなくなった。

 レストランはからっぽだった。古いガラスはときおり風の音を立てていた。秒針は陰にあっても動き続けた。夜の海に流された小舟のように、闇の中を進み続けていた。

 おじは僕のことを考えていた。今日の僕のふるまいについて、僕に対するおじ自身のふるまいについて。そしてまた、自分自身のことについても考えていた。からっぽになったレストランについて考えていた。目と、口を閉じたままで、落ちていくように深く、深く考えていた。そして、時を取り戻すように古い記憶を遡った。まだ二人が仲のよかったその時について。夜や風のことを想い、また僕のことを想った。

 いったいおれがなにをしたというんだ?

 おじは目を強くつむり、指でぎゅっと押し込んだ。闇が目の裏側にまで染み込んだ。それからそっと手をのけて、目を開いた。それでもまだおじはひとりぼっちだった。隣に誰もいなかった。霧のように夜闇が立ち込めていた。

 彼は何を思っていたのだろう。ずっとそこに座っていた。息も立てず、指をこすり合わせることもなく、頭を垂れて、クリスタル・グラスのその水面を見つめていた。闇の中でも、それが平静であること、そして冷たいことが、彼にだけはわかっていた。


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