大西羊
僕のエッセイです。
大西羊(onishi_hitsuji)の小説をまとめています。おもしろいのが書けてるとうれしいです。
海外文学が多いです。
私は座って本を読んでいる。文庫本だ。三条の丸善で買った本だ。 読者のあなたも本を読んでいる。でもそれは買った本じゃない。加えて、あなたは座っていない。 あなたは立って本を読んでいる。満員電車でつり革を持って立っているとき。そのときに目の前で座っている人が読んでいる本をちらり盗み見る調子で私の本を読んでいる。 ああ! なんて素敵な裸体の表現なんだろう。読んでいる私の胸がずきずき痛む。 読んでいる私は途端に取り乱してしまう。胸が掻くようなうずきを訴えてやまない。それま
ここのところ短歌を多く読んでいる。ツイッターで。 うだる暑さにカンカン鳴る踏み切りや、二駅三駅の車内といったちょっとした時間に読んでいる。 これがけっこう楽しい。私にとってこれまで短歌といえば歌集だった。歌集といえば寺山修司だった。だが、世界の良さはまだまだ色々と隠されているらしい。たとえツイッターでも少し探せば、ごろごろと感じのいい歌が転がっているさまを見つけられる。 フォローしている方のだけでなく、#tankaで検索することもある。”おすすめ”に流れてくる知らな
夜。二人の友人が寝静まったあと、僕だけが三時過ぎの部屋でまだ音楽に耳を向けている。 十年来のちんけなスピーカーから流れているのはEpic Moutainの「What Happened Before History」。 Epic Moutainは特定の顔をもつ音楽家の代名詞というわけではなく企業の名であり、その音楽も「Kurzgesagt」というYoutubeチャンネルに向けられて作られたものであるけれども、僕は彼らの音楽に心惹かれた。彼らの音楽が流れると、僕はきまって顔をあげ
レイモンド・カーヴァーの短編、「ファインダー」を読む。 「ファインダー」は短編集『愛について語るときに我々の語ること』に収録されている。『愛について語るときに我々の語ること』という、一見奇妙なタイトルは同名の短編の以下の部分からとられている。 すごくいいセリフだと思う。僕も愛について語る行為は、メル(作中の人物)が言ったようなものだと考えている。以前、それほど親しくない人物に「ぜひあなたと愛について語りたい」とせがまれたが、僕は断固拒否した。語るという行為はどうしようも
きのう、僕はバーにいた。疲れ切った彼女に呼ばれて、そこでウィスキーをちびちびやっていた。ただ、じっさい彼女と話し続けていたかといわれれば、そんなことはなかった。瞑想をするみたいにして長く本を読み続けていた――『寺山修司全詩集』、『羊をめぐる冒険』。そのときの僕は無料の落花生の殻に爪をくいこませてそれを剥き出しながら、フィクションの人物になりたいと考えていた。『羊をめぐる冒険』にはそう思わせるだけの十分な説得力があった。 そしてバイトを朝の四時にあがると、僕たちはぶるぶる
いまnoteには、書いたもののうちの半分くらいを公開しています。 公開していないのは、短編以上の長さの作品です。 (著作権とか未公開とか、そのへんのくだらないしがらみのためです) ここでそのことをお断りしておきます。 「日記ばっかり書いてるじゃん……」 そう思われたくないので!
肌がよく荒れる。 肌が弱いのだ。二日連続で寝不足になれば荒れるし、野菜をきちんと200グラム摂らないと荒れる。そして、眼鏡をかけても荒れる。いまもそう。新芽のかたちでして鼻あてが優しくタッチしている、鼻の頭がふっくらとあたたかに腫れ上がっている。 きょう、MONKEY vol.30の「トスカ」と「最後のドアを閉めろ」を読む。 「トスカ」は不思議な短編だった。このように夢幻から夢幻へと泳いでいくような書き方をするのはずいぶん勇気のいることだと思う。私たちが語るような「バラン
手紙がとどく。山になるくらい、どっさりと。 寝ぐせのわたしは、玄関の靴のそばに落ちて土ぼこり・砂まみれになったそれらを一つひとつ拾いあげていく。上等の、ステキなクリーム色の封筒のそれは、ほんとどっさり、バケツ一杯ぶんくらいある。 一通目の手紙にはこう書いてある。 あなたのことを 好きになってしまいました だから届く 水星の恋文 すっぴんのわたしは封印を破って他の手紙もぜんぶ読んでく。「あなたのことが」、「あなたのことが」、「あなたのことが」。「好きになって
(あたりは静かで、真っ暗闇だ) (遠くにぼやっと、光が見える) (すごくゆっくり、近づいていく) (パチリと携帯のライトをつける) <どうも……> <どうも、こんにちは。はじめまして。お忙しいところ、すいません。水を一杯いただけないでしょうか?> <え? あんた、誰?> <いえ。わたしは、なんでもないんです。ただ、グラスで一杯、水をいただけないかと思いまして、お声かけしたしだいです> <水? あんた、水って?> <ええ。水を一杯、グラスでいただければと思いまして> <ハッハー
僕は外に出る。当たり前だ。この僕だって外にくらい出る。あんまり舐めた調子でいるといつか痛い目にあわせるぞ。 僕は外に出る。左に折れて、横断歩道を渡る。と、そのとき、視界の端に男の子がうつる。だぼだぼの学生服に身をつつんだ、近くの中学の男の子だ。かれはちょいちょいと左右に素早く首を振ったあと、まるでスタッカートをうつみたいにしてぴょんぴょん跳ねて横断歩道を渡る。そして、どういったらいいのだろうか。その男の子はその調子で跳ねて歩き、僕の背中を叩こうとするのだ。まるで僕が数年
もうどこに書いてあったか思い出せない。とにかく村上春樹の小説のどこかで、隣のビルの窓をのぞいて、そこで働く男たちの性欲を感じ取るシーンがあったのを覚えている。 主人公の「僕」は働く男たちの胸の大きな女の子を眺めて、「他人の性欲を感じ取るのって、ふしぎだ」みたいなことを思っていたはずだ。僕がポルノハブとかを見ているとき、けっこうな頻度でその「僕」のことを思い出す。 「他人の性欲を感じ取るのって、ふしぎだ」 僕は当然ポルノハブを見る。 それと同じで、あなたもポルノハブを
きのう、あなたと長いこと話して、僕も日記を書こうと思った。もちろん、僕もあなたと同じ人間だ。日記を書こうと思ったことなんて何度もある。ほんとうにたくさんある。天の川の星の数とおんなじくらいたくさん。でも、ハッシュの番号が二桁を数えたことは一度もない。 今回はわからない。もしかしたらチップを積み上げるみたいに、十、二十といくかもしれない。あるいは「日記#2」を書いたあとに「こんなことをしている場合でない」と思い立ち、さっさと後ろのドアから出ていくかもしれない。「さようなら
僕は小説を書きたい。 ここ一週間ほど、そう思っている。スーパーに行き、<にんじん、じゃがいも、たまねぎ、糸こんにゃく、こまぎれ肉>をかごに入れ、明日の朝食のためにパンコーナーでバゲットを手に取るときもそう思っている。僕は小説を書きたい。 そう思って過ごしていながら、僕は小説を書いていない。なんども、なんども、書こうとはしているのだが書いていない。 最近書いたのはメモ書きのような日記だけだ。自分の思いの丈をつづった、誰に宛てたわけでもない文章をひっそりと書いた。もちろん
未来をひらく まだ四分の一しか読んでいないころからわかっていた。自分がこの小説について感想文を書くだろうなということが。だから物語を追うついでに、どんなふうに感想文を書こうかゆったり考えていた。『都会と犬ども』みたいに、僕も中学校時代を振り返ってみようかな。作中のアルベルトの生き方を現代人の若者と重ねてみようかな。引用についても思った。ここの表現はなかなかいかしてるし、感想文のなかに取りいてもいいな、というふうに。 でも、いちばん考え込んでたのは冒頭とタイトルについて
お風呂は気持ちよかった。前日にはシャワーをあびた。それも気持ちよかった。しかしお風呂はもっと気持ちよかった。その事実は僕に風呂掃除の必要性を訴えかけるにいたった。キリン堂で僕と運命的な出会いをした「ルック+ バスタブクレンジング」は「シュシュッとかけて、六十秒待つだけ!」と、秘密を打ち明けるようにそう語った。しかし、甘い言葉はやはり信用してはならなかった。六十秒待てども、百二十秒待てども、あるいは五月がくるのを待てども、こびりついた浴槽の水垢はみじんも取れなかった。掃除なき
はじめは「ハンティング・ナイフ」だった。 みなさんはご存じだろうか? 「ハンティング・ナイフ」。 小説のタイトルで、作者は村上春樹だ。「ハンティング・ナイフ」は短編小説で、『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている。 物語が僕に答えを与えることなく、いわば陰を広げるようにして、夕日の砂浜を藍色に染めていく。そのような不思議な感覚をもたらしたのが、「ハンティング・ナイフ」だった。 しかし、僕は「ハンティング・ナイフ」が特別だと話しているわけではないのだ。 たとえば