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日記:名前もしらない甥っ子

 僕は外に出る。当たり前だ。この僕だって外にくらい出る。あんまり舐めた調子でいるといつか痛い目にあわせるぞ。

 僕は外に出る。左に折れて、横断歩道を渡る。と、そのとき、視界の端に男の子がうつる。だぼだぼの学生服に身をつつんだ、近くの中学の男の子だ。かれはちょいちょいと左右に素早く首を振ったあと、まるでスタッカートをうつみたいにしてぴょんぴょん跳ねて横断歩道を渡る。そして、どういったらいいのだろうか。その男の子はその調子で跳ねて歩き、僕の背中を叩こうとするのだ。まるで僕が数年来の気の置けない友人みたいに。

 はあ? なんでそうなるのだろう。わからない。でも、その男の子が僕の背中を叩こうとしているのはたしかだった。彼は鼻歌をふんふん言わせ、わくわくの足取りでこちらに近づき、いまにも背中を叩こうとしていたのだった。
 僕はふだんから早く歩いている。ちょいと走っているというひと以外で、僕より早く歩いているひとはまずいないというくらいに早足で歩いている。だからまるで電撃にうたれたみたいに僕は直感としてわかる。この男の子は僕の背中を叩こうとしてる。そうじゃなきゃこんなに早足で、お調子者のティガーみたいに跳ねて歩いたりするわけない。そしてたぶん、この子は僕の甥っ子なのだ。

 僕はすたすた、彼の背中へのノックを避けるために全力で歩いている。同時に頭のなかではぐるぐる考えている。まちがいない。こんなかたちで会うとは思わなかったが、彼はきっと名前もしらない甥っ子なのだ。

 彼が僕の名前もしらない甥っ子だと、なぜわかったのか?
 それをここでことばでして説明するのは僕の手に余る。そういうのって、ちらりと彼を見た人間にしかわかりっこないものだから。だぼだぼの学生服を着て、うきうきしながら跳ねて歩いていて、さっぱり刈り上げた髪に笑顔の表情で歩いてきてる彼。僕は首を傾け、ちらりと目の端でとらえる。電撃。まちがいない、彼は僕の甥っ子だ。

 それからしばらく、僕と、僕の名前もしらない甥っ子はデッドヒートを繰り広げていた。僕は大逃げのかまえでぐんぐんと歩いた。彼はかろやかにその足でアスファルトを蹴り上げながら、虎視眈々と僕の背中に手を伸ばすタイミングをうかがっていた。だから僕は意味ありげにコホコホ咳き込んだ。まるで音楽にノリノリでそれ以外なにもわかりませんよというふうに英語の歌詞を口ずさみ、ぐいぐいと一歩大きく踏み出しては早足で抜けていった。

 そしてだんだんと思考は漂流し、僕は名前もしらない甥っ子のことを書こうと考え始めた。甥っ子との出会いを、小説かなにかに書いてやるのだ。ひとつ文章のかたちにしてやるのだ、と。
 マンションが現れ、道がそっと影にかくれるとき、僕はアイデア、それ自体について考えていた。
 やがてアイデアを忘れてしまうということを考え始め、つぎのときには忘れていった数々のアイデアたちのことを思った。アイデアの死について。頭から抜け落ちて、ぼとぼとと道端に転がる、アイデアの死体たち。魂の抜けて、その骸(むくろ)もさびしくうごかないアイデアの死体たち。僕はどしどしと歩きながらもさびしくなって目をつむり、亡くなった彼らに黙とうを捧げた。そして右目からきらりとダイアモンドみたいな涙を流しながら、必ずこの名前もしらない甥っ子については書いてやるからなと熱く決意したのだった。名前もしらない甥っ子については小説でも詩でもなんでもいい。きちんと書いてやるからな。赤子にやるみたいにこの二つの手で抱いてやって、どんな困難があっても必ず立派に育て上げてやるからな。僕は鼻息を荒くして大股で歩いて回り、決意とともにひとつ強くなってこぶしをぎゅっと握りしめていた。そしてスーパーに入ったとき、ふと彼がいなくなっていることに気がついた。

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