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日記:ジンの一杯

夜。二人の友人が寝静まったあと、僕だけが三時過ぎの部屋でまだ音楽に耳を向けている。
十年来のちんけなスピーカーから流れているのはEpic Moutainの「What Happened Before History」。
Epic Moutainは特定の顔をもつ音楽家の代名詞というわけではなく企業の名であり、その音楽も「Kurzgesagt」というYoutubeチャンネルに向けられて作られたものであるけれども、僕は彼らの音楽に心惹かれた。彼らの音楽が流れると、僕はきまって顔をあげ聞き入った。どんなときに聞いてもEpic Moutainの音楽は焼き立てのパンのような優しい感じがする。きっと、優しい人たちが集まって作っているのだ。

***

大抵、「感覚」というものはトカゲだ。「感覚」はふだん、僕たちの肌のうえを我が物顔ではいずり回っている。何かしら僕らが触れる――接触すると、トカゲは「ぼくの持ち回りでしょ?」と言わんばかりにせこせこ駆けてきて、いま肌とつながっているその第二存在についてあれこれイノセントな意見を述べる。
しかし、実際に強大な恐怖や、水底に突き落とされたかのような不安がやってきたとき、トカゲはそそくさと安全な土地へ逃げ出してしまう。あとには感覚を失い現実の冷たさに凍える私と、むごたらしい清算の時が待っている。トカゲが残した生餌のしっぽが、そうした僕らの断絶の風景のとなりで笑うようにぴくぴく震えている。

***

きょう、悪童と会う。
友人だ。
悪童はいつも嫌らしく笑った。ハハハ……
その笑い声を耳にすると、僕はむずがゆい気分になった。嫌な気分になった。あるときには”身震い”さえ覚えた。僕の本能、つまりトカゲが、何かしら致命的なまちがいを遠くない未来にその悪童によってもたらされることを感じ取っているのかもしれなかった。
悪童はせせら笑い、僕と京都の風景を歩いた。歩きながら自分の顔だちの素晴らしさについて「残念だ」と語った。素晴らしい顔だちのために、一種の面倒ごとに否応なく巻き込まれる運命にあるのだと語った。僕は肩をすくめ、黙って耳を向けていた。
実際、悪童は素敵な顔立ちをしていた。悪童の顔だちは樹皮のつるつるとした一本の木のようだった。目の前にすれば吸い込まれるように触れたくなった。触れれば、もっと求めたくなった。そのことを話すと悪童はもっと笑った。ハハハ……
ハハハ……

それからさらに歩いていると、あるタイミングを境に悪童は黙り込んだ。夜のコンクリートのように言葉を失った。
信号待ちのとき、僕は心配になって悪童の顔を覗き込んだ。その顔は重く暗かった。巨大な恥に晒されて、自分の振る舞いに身震いを覚えているような暗さを湛えていた。
僕が急に黙ったねと話すと、悪童は弱々しく顔をもちあげた。
そして言葉なしにただ笑うのだった。
ハハハ……

悪童が押し黙っている間、僕は友人のことについて話した。ここでは仮に「Y」と呼ぶ。
Yはうんと小さいころからの僕の友人だ。小中、そして高校のときまで関係をもっていて、高一のときに喧嘩別れした友人だ。
彼はじつに魅力的だった。そうだ、寡黙の人だったのだ。彼は日に二、三度しか口を開かなかった。その勇者のような顔つき、鍛えられた肉体も相まって、Yはサラブレッドのような魅力を備えていた。僕は躁鬱の鬱にある悪童に対して問いかけた。
「Yはいまごろ何をしているのかな?」
「女の子と寝ているのかな?」
僕の話を聞きながらも、悪童は押し黙っていた。動力源を失った古時計のように沈黙していた。
信号を待っている間も悪童は沈黙していた。白い肌を一段と白めかせ、百合のようなその顔をろくでもない京都の十字路に向けていた。
それから僕も黙ってしまった。悪童の鬱が伝染したのだ。
二人で歩いていた残りの数十分は、すべてろくでもない京都の十字路を巡ることに費やされた。素っ気なく、どこまでも合理的な十字路を三つ四つと歩いて抜けた。十字路で信号を待っているときびゅんと車がひとつ横切るたびに、僕の魂は水を奪われひからびていくみたいだった。
やがて十数の十字路を抜け、ぱちぱち不安定な蛍光灯がする京阪の駅についたとき、そのときにはすでに僕ら二人の魂は埃をかぶって色褪せていた。どちらも何も話さなかったし、どちらもどのような笑い方も持たなかった。

***

p.s.タイトルはいまジンを飲んでいるということだ。
美味しいよ。

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