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エッセイ:「しゃがみこむ太陽、読めない小説」

 はじめは「ハンティング・ナイフ」だった。
 みなさんはご存じだろうか?
「ハンティング・ナイフ」。
 小説のタイトルで、作者は村上春樹だ。「ハンティング・ナイフ」は短編小説で、『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている。
 物語が僕に答えを与えることなく、いわば陰を広げるようにして、夕日の砂浜を藍色に染めていく。そのような不思議な感覚をもたらしたのが、「ハンティング・ナイフ」だった。
 しかし、僕は「ハンティング・ナイフ」が特別だと話しているわけではないのだ。
 たとえばジョン・チーヴァーの「泳ぐ人」。これも私に同じ印象を与えた。
「しゃがみこむ太陽、読めない小説」
 僕がそれらの小説について思うのは以上の表現だ。

 さて。二つの他に読めない小説は何があっただろう?
 まずは「白い象のような山並み」だろう。
 アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイの作で、バーでのむカップルの話だ。女が向こうに見える山並みを「白い象みたいじゃない?」と語る。男は返答をうやむやにして、カップルのあいだに横たわるいままでの問題を「また」というように語り合う。そんな小説だ。そしてこれも「しゃがみこむ太陽、読めない小説」ということになる。
 他に? 
 あげて出てくるのはカポーティの「無頭の鷹」だろう。
 それに加えて? 何か別の作品は。
 そういうことになればオクタビオ・パスの「青い花束」だ。
 やろうと思えばあといくつかあげることはできるだろう。

 しゃがみこむ太陽、読めない小説。
 僕はそう表現したが、もちろん実際の意味で”読めない”わけではないのだ――「ハンティング・ナイフ」、「泳ぐ人」、「白い象のような山並み」、「無頭の鷹」、「青い花束」。どれも僕にやさしく日本語で用意された文章があるし、すべて面白く読めてしまう。他の短篇小説と比べて、より興味深く、ひどく集中してしまうほどにこれら作品はよく書かれていると思う。とくに「白い象のような山並み」と、「無頭の鷹」、「青い花束」はそうだ。
 しかし、これらの作品は、同時に”読めない小説”でもあるのだ。
 しゃがみこむ太陽、読めない小説……
 読後、僕の頭はそれら作品のなかに囚われている。仕事から帰ってきて、ある晩。僕らは料理を作って食べる。Youtubeを見て風呂に入る。そして髪を乾かす。電気を消して眠るとなる。しかし、なかなか寝付けない。それどころか、だいぶ昔の夏祭りのことをあふれるように思い出す。ぼんやりと、幽霊のように頭に現れては消えていく曖昧な記憶が、しかしそこにある。
 読めない小説を読んだあと、僕はそのようだ。”作品に囚われている”。僕が、望んだわけじゃない。小説たちが鋭く、そして劇的なかぎ爪でもって僕を離さないでいるのだ。黒いかぎ爪は僕の肉に喰い込み、白い肌を切り裂き、血が伝う。ただ、僕は苦しんでいるのでもない。僕は暗示にかけられたように座りこみ、ただただぼうっと小説のほうを拝んでいる。

 しゃがみこむ太陽。
 僕らは歩いている。五月晴れの今朝のなかを。
 今朝はとくに晴れている。それまでの夜が切り裂かれたように、二つに割れて、強い光線が駅の階段、学校の玄関、アパートの廊下まで迫っている。光線の向かいはやはり影になっていて、その光線の著しいために、影も目で捉えられないほどに低く暗くなっている。

 僕は小説を書いているのだが、今朝はそういった読めない小説のために書いているのではないかと思った。もちろん違っているのだが。
 だが今朝はそう思ったのだ。光線に貫かれ、影が押されている公園の一角で思っていたのだ。書いている僕の小説は、読めない小説のためにあるのではないか、と。僕は読めない小説たちにかぎ爪でいまも捕らえられていて、彼らの影響のなかで信仰のように小説を書いているのではないか、と。
 もちろん、違っている。そんな考えは間違っているのだが。

 しかし、やはり、思う。海にはいま夜がやって来ている。最後の光線はかき消され、藍色をした淡水のように息が詰まる夜が空に映し出されている。僕は書いているがしかし、この心のなかに残っている、一部の作品のせいで書いてしまっているのではないか、と。”僕”という個人が「書きたくて」というのではなく、生まれつきの運命のように、無味乾燥な心で書いているのではないか。そして原因は読めない小説たちにあるのではないか、と。

 読めない小説がいちばん好きということはないのだ。
 同じ作者の作品でも、他にずっと好きな作品はいくつもある。
 むしろ、読めない小説は不完全とさえ感じる。これは不完全だ。もっと上手く書けたはずだ。
 しかし、読めない小説は僕の心を離さない。
 そして太陽はしゃがみこみ、身の毛がよだつ笑みを浮かべて、僕のことをいつも見ている。
 いつも見られている。


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