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エッセイ:官能的クエスチョン・マーク

 私は座って本を読んでいる。文庫本だ。三条の丸善で買った本だ。
 読者のあなたも本を読んでいる。でもそれは買った本じゃない。加えて、あなたは座っていない。
 あなたは立って本を読んでいる。満員電車でつり革を持って立っているとき。そのときに目の前で座っている人が読んでいる本をちらり盗み見る調子で私の本を読んでいる。

「キブツでは、なんでもただだったわ」
「ただ!」ジョーは彼女を見つめた。「そんなことは経済的に実行不可能だ。どうしてそんな基盤で経済が成り立つ? 一ヵ月以上も?」
 バットは平然とブラウスのボタンをはずしつづけた。「わたしたちの給料が払い込まれているから。仕事をすればそれが貸し方に記入される。わたしたちの稼ぎの総計が、キブツの経費をまかなうわけ。事実、トピーカ・キブツはここ数年間、ずっと黒字なのよ。わたしたちは集団として、経費以上の収入を上げてたわ」ブラウスを脱いだ彼女は、それを椅子の背中にかけた。目のあらいブルーのブラウスの下にはなにも着ていない。ジョーは彼女の胸に目をひかれた。上を向いたはちきれそうな乳房、それをしっかり支えているひき締まった肩の筋肉。

フィリップ・K・ディック『ユービック』浅倉久志訳

 ああ! なんて素敵な裸体の表現なんだろう。読んでいる私の胸がずきずき痛む。
 読んでいる私は途端に取り乱してしまう。胸が掻くようなうずきを訴えてやまない。それまでの筋がどんなものだったかなんてすっかり忘れ去ってしまう。
 そしてあなたも同じだ。読書的盗人であるあなたもどきりとしている。胸が赤くなるのを感じている。
 興奮している。いきり立っている。あなたはいまや恍惚とした自身の感情から目を背けずにいる。満員電車でスマートフォンを眺めている、うつむき的ざわめきに隠れて。

 ここで、「いや……」とあなたは思う。
「そんなことはない。性的なこと? 私は昔から興味がない……実際、ユービックの引用を読んでも何も思わなかった。ゾーニングができていないとは思った。私はそんな気分じゃなかった。みだらに破廉恥な描写を公共のnoteに持ち込むのはやめてほしかったな」
 といったことをあなたは思う。
   そして口にする。
「云々……」

 私は性的なことが好きだ。
 性的なことが嫌いな人はいるのだろうか? 
 苦手な人はいるだろう。
 実際、「私はずっと性的なことは苦手で、それには触れてならないと考えております」と告白を受けたことがあった。昔のガールフレンドも私がそういったきざしを口にすると林檎のように顔を赤らめた。
 でも、それは「嫌い」ではないと思うのだ。それはいままで食わず嫌いだった料理に対する感情に似ていると思うのだ……
 それは異国の飲料物なのだ。カップ一杯のスープだ。その色はどす黒い赤。
 鼻を利かせれば春の雨のような甘みを感じる。刺々した香料も同時に。
 値段は奇妙なまでに高い。緑黄色野菜のランチが十二回、あるいはニ十回と食べてもまだ足りないほどに。
 カップを手にすれば表面にとろとろと流れが起きる。持ち上げて揺すれば表面が震える。震えは痙攣に似ている。そこには夥しい数の溝が見える。醜く打ち上げられた魚類の死体を、あなたは何故か思い出す。
 やって来たウェイターは穏やかな声で言う。
 こちらの棒を使って、召し上がってください……

 私は性的なことが好きだ。
 性的なことが嫌いな人はいるのだろうか?
 非科学的”波”が思考すべてをお見通しにする。もしも、そのような奇怪な異能によって人々から嘘や隠し立てが取り除かれ、気持ちがなんでもあけすけになったとき。
 そのときに性に関する関心が「完全に無い」と言える人間は、たったの一人でもいるのだろうか?
 
 文末。クエスチョン・マークは官能的に身をよじらせる。
 しなやかなフォントの黒の裸体があなたの瞳に甘く問いかける。

というのも、
官能のあやまちに対して言い逃れの理屈をもちこみ、
――告発すべきなのに、弁護している――、
そしてぼく自身に向かって論告をはじめようとしている。

シェイクスピア『ソネット集』柴田稔彦訳

***

 隣でおばさんたちがずっと話している。
 本当にずっとだ。もう三時間話している。私が驚きと童心のまなざしで『ユービック』を読んでいるときも。レシートの裏のメモを見返しながら、よちよちこの日記を書き出しているときも。

ドトールのレシートがメモの犠牲になった。
UBIK以外は1ミリも活かせなかった。

 おばさんたちは一度も声を出さない。込み上げてきた笑いをこらえきれないときをのぞいて、ずっとその口を閉ざしている。
 代わりに手を宙で躍らせている。ときには相手の手をがしっと掴んで、力づくで何か語っている。拳をつくり「ガンガンガン」と、ドトール全体に響くいきおいで机を叩くこともある。
 おばさんたちの手の動きはすさまじいものだ。それは一たび唱えられれば、何もかもを綺麗な平地へ還元していく魔法、ユタの大地をさらうハリケーンのようだ。
 私はそんなおばさんたちをちらちら見ていた。おばさんたちが私をちらちら見るからだ。
 手の動きは綺麗だった。私の美的感覚は痺れた。
 ちょっと憧れるくらいに素敵だった。バレエを見るときと同じだ。確かにあの動きになら、人生を捧げてもべつにいいんじゃないのか。そんな説得力が手話にはあった。ここで私も手話の二人に分け入っていき、右手左手で自身の気持ちを曝け出したい。木曜日のドトールで、そんな欲望に捉えられる。

 動かない事実を一つ教えよう。
 つまり、現実に不可能な欲望は虚しいんだと。

***

 今朝、私は血を抜かれる。使者は銀色の注射器。右腕の静脈へ、鋭い痛みとともに針が侵入する。シリンジの清潔なメモリが染まっていく血に。
 その色はどす黒い赤。

 血が吸い上げられている感覚は恐ろしくはっきりとしている。
 あなたは想像する。注射器があなたの血を吸い上げていくシーンを。
 針がゆっくり、ゆっくりと近づき、痛みとともに肌を貫くのを。

 
 
 注射筒に血は夜のようにそっと静かに満ちる。そこには色気がある。色気とは闇のような、非常にゆっくりとした動きから生まれる。

 私は夜に歩く――四条大橋から下りて、三条に続く鴨川の土手を。
 鴨川にはたくさんの人がいる。歩く人。シャッターを切る人。走る人。汗ばんで良い匂いのする、相手の髪を親密に梳くカップル。
 性的なことが嫌いな人はいるのだろうか?
 鴨川には無数のトンボが飛んでいるのが見える。トンボたちはできる限り美しい相手を見つけて、ぴったり重なろうと試みている。
 周りの空気は涼しい。茹った川のにおいが鼻をつく。口の中は微かに甘い。
 八月のある夜のこと。そういった全てを横目に、夜の川を歩いていく。

***

 注射、夜の川。
 官能的クエスチョン・マーク。
 幾何学的円を描いて、八月の風景たちは繋がる。
 あなたの細い両手が、ある暗い喩えをそこから掬い出す。

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