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掌編小説:獣の半分

(あたりは静かで、真っ暗闇だ)
(遠くにぼやっと、光が見える)
(すごくゆっくり、近づいていく)
(パチリと携帯のライトをつける)
<どうも……>
<どうも、こんにちは。はじめまして。お忙しいところ、すいません。水を一杯いただけないでしょうか?>
<え? あんた、誰?>
<いえ。わたしは、なんでもないんです。ただ、グラスで一杯、水をいただけないかと思いまして、お声かけしたしだいです>
<水? あんた、水って?>
<ええ。水を一杯、グラスでいただければと思いまして>
ハッハー!
<あんた! すげえおもしろいこと言うね!>
<いえいえ。そんなことありませんよ。わたしなんて、ぜんぜんです>
<それで、水を一杯、グラスでいただくことは可能でしょうか?>
ハッハー!
<まったく、笑わせるなって。腹がよじれちまう。ほら、おれはこのでけえがらくたをお日様が出てくるまでに片付けなきゃいけねえんだ。だから、もう、ハッハッハ!、あんたマジでおもしろいよ。でもさ、仕事が終わってからにしてくれよ>
<ああ。お仕事中でしたのですね。それは申し訳ないことをしました。いえ、ほんとう申しわけないことをいたしました。お邪魔してしまったようです。重ねて申し訳ございません>
<そんなおりに、こうして申し上げるのも恐縮ですが、よければ水をグラス一杯だけいただけませんか?> 
<あんた、もしかしてマジで言ってんのか?>
<はい。たったの一杯でかまわないのです。水をすこしばかりいただけないかと思いまして>
ハッハー!
<すごいね。あんた。本当にそう思ってるわけだ。「」と。そういうことだろ?>
<ええ。そうです。水を、わずかでいいので飲ませていただけないかと。じつにそういうことなのです>
ハッハッハ!
ハッハー!
<まったく、最高におもしろいよ、あんた。ハッハッハ! こんなに笑ったのなんて、いつぶりだろうな? ほんと、イカしたやつだよ、あんたは!
<そんなそんな。わたしはふつうのひとですよ。たいしたことは、ひとつも持ち合わせておりません>
<そして、水はいただけるのでしょうか? ほんのグラス一杯でかまわないのですが>
<あんた、目が見えてないってことはないんだよな?>
<いえ。しっかり見えてます。ここにあるもの、すっかりぜんぶ>
<なら、わかるだろう! おれたちがいったいいまどこにいて、どんなかっこうをしてるかってことぐらい!>
 そう言うと、男は大きく四肢を広げて、向こうの暗闇に飛んでいき、大の字になって浮かんで見せた。
この最高の宇宙で、水を渡せるわけないだろ!
なあ、あんた、そうだろう?
ハッハー!
ハッハッハ!
ここの、宇宙のどんづまりのどこに、水があるというんだ?
隠されているのなら、教えてくれよ!

 わたしは彼に気に入られた。
 彼がデブリを片付けたあとになって、遠くの一人暮らしの船へと招待された。
「水ってのは、コーヒーでもいいのか?」
 そう聞かれたわたしは人差し指を上げて天井を指し、できるのならふつうの水がいいと答えた。
「ほんの一杯だけでいいんですが」
 すると、男はハッハッハ! と船内にとどろく声をあげた。
ほんとあんたはおもしろいな!
 そう言って、向こうのストレージモジュールへと歩いて行った。
 わたしは彼が帰ってくるまでのあいだ、寝室と書斎がひとつになった狭い一室で待っていた。質素なその部屋は掃除が行き届いており清潔で、ベッドとデスクをのぞいた他には、家具のひとつもなかった。照明もダウンライトがひとつきりで、味気ない白の光でつめたく部屋を満たしていた。
 唯一の丸窓からは押し黙っている宇宙の暗いのが見えた……部屋は静かだった。宇宙の真空そのものが映されたように静かだった。ベッドの上には薄い毛布が一枚、きちんと端を揃えて畳まれていた。デスクの上には刃が隠された折り畳みナイフと、拳ほどの木の塊、その削りかすがあった。わたしはそっと手を伸ばして折り畳みナイフをつかんだ。刃を出し、照明にさらしてみると、鋭い、はっきりとした刃がすらりとひらめいた。わたしはそれを手にドアの影に隠れた。潜み、息を殺し、剝きだしの刃を固く構えた。そう。わたしが真に求めていたのはこの船という、彼の最後の財産だった。

 デスクの木の塊には毛深い姿をした、地球時代の獣が掘られていた。しかし、それは胴のみの顔なしの姿。未完成の姿だった。
 木はやさしい印象をこちらに向けていた。まあるく切り出された無貌の輪郭には、いきものの笑うような温かさがそこにはあった。心がずんとかなしくなった。いま、わたしは、うまれようと一生懸命な獣から、いっさいを奪おうと企んでいるのだ。
 しかし、どしどし鳴る、陽気な足音を捉えたとき、わたしの心ははたと消えた。眼がひらかれて影に馴染んだ。真空に似た鋭さだけが胸に残った。

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