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掌編小説:水と女の子

――水

 僕には水の精霊の声が聞こえる。
 いや。実際のところ、それは水の精霊の声ではないのかもしれない。それは水の声であって、精霊が話したり叫んだりしているわけではないのかもしれない。
 僕には水の声が聞こえる。
 それは……雨の降っているとき。シャワー室でうつむいているとき、車窓から湖を眺めたとき、蛇口をきつくしめあげたとき。
 そして、水をのむとき。誰かが水をのむとき、僕の耳には精霊の声が甲高く響く。氷をひきちぎったような悲鳴が繰り返し残る。
 喉元を流れ落ちながら、徐々に消え入るひきつった嘆きが確かに聞こえる。


――女

 僕はカフェにいる。ごみごみとしたカフェだ。ところせましとテーブルが並び、すべての席がカップルでうまっている。
 むんむんとした人の熱気で息苦しい。タバコのにおいもする。誰かが何かをこぼしたとか、あなたには我慢ならないだとかの叫びがあがる。しかし誰も手を止めることなく、目を上げることもない。すべての二人組は目の前の会話に集中している。のめりこんでいる。
 隣の席には二人の男が座っている。彼らも真剣に話しあっている。それも、とても大きな声で。
「老人はね」ほとんど叫ぶみたいに一人が言う。「朝日のように美しいんだよ」
「ばかな」もう一人が言う。「老人なんて、汚らしい」
「きみは肌に触れたことはあるかい? 彼らの痩せた身体を抱きあげたことはあるかい?」
「ないけれど」
「わかったんだ。麻痺で動けなくなったおじいちゃんを世話してあげた日に。彼らはとても美しいって。おじいちゃんのにおいを嗅いだんだ。まだ夜露も乾いていない草原を歩いているときのような、さわやかなにおいがしたんだ」

「待った?」彼女はそう言って現れた。さっと頭を振ると黒い髪が一様に広がり、やがてしとやかにまとまった。
「そんなに待ってないよ」僕はそう言った。彼女は汗を流したままで微笑んでみせた。スカートの端を引っ張り、するすると席についた。カーディガンを脱ぐと、ノースリーブの彼女があらわれた。ほっそりしたウエストに、シャツがぴたりとひっついている。
「ねえ……口のはし。なにかついてるよ」僕は彼女にそう伝えた。
 ごめんなさいね、と言うとハンカチで口のはしを拭いた。「逆だよ」と僕が伝えると、逆のはしを拭いた。
「ごめんなさいね」彼女はもう一度そう言う。「さっき本当にたくさんのランチを食べてきたの」
 彼女は話す。「鮭のムニエルにトマトのカルパッチョ。パンツァネッラ、デリ風サラダ。タコとエリンギのアヒージョも食べたわ」
「たくさん食べたんだね」
「それに……マルゲリータ半切れとペペロンチーニも食べたわ」
 彼女は続けて言う。「だから……わたし、のどが渇いているの。わかるかしら? とっても、渇いているの」
「ねえ……水をもらってもいいかしら」
 どうぞ。そう言って僕はグラスを渡す。グラスはひんやりしていて、はちきれそうなくらいいっぱいになっている。
「ねえ……のんでもかまわない?」
「うん」すこしあとに、僕はそう言った。
 彼女はゆっくりとグラスを持ちあげる。唇のところまで持ってきてから、そっと目をひらき、僕のほうを見る。ゆっくり、真剣に、僕の瞳をのぞきこむ。まるでとても大事な落とし物を瞳の奥に探すみたいに。そして、唇をつける。ぞっとするくらいひんやりとしたおいしい水が、温かな体温を切り裂いて彼女の中に入っていく。あえぐような水の声が響く。白くて細い身体をひねって、彼女は水をのんでいく。喉を流れるたび叫びが聞こえる、甘い、激しい声が繰り返す。
「のんだわ」彼女は言う。輝く瞳で僕をのぞきこみ、ニヤリと笑う。


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