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夢の話:除草剤

 そこは厳密な空間だった。暗いトーンの青が部屋中に張り巡らされていた。われわれはその青いソファにかけた。いくらか緊張していた。ソファにかけてしまったのは、向かいに座る彼がそうするよう勧めたからだ。座ってから、その空間と同じような沈黙が流れていた。それは気分を悪くする静けさだった。われわれは――三人組だった――みながみな緊張しきってしまっていた。誰も話しはじめることはおろか、声を出すこともままならない。その両目さえ、手前の青いロー・テーブルのうえに落としたままだ。就職試験だというのに、われわれはいったいどうしてそのような醜い態度を取り続けていたのだろう? 
 ただ、そのような状態にあっても僕は他の二人を出し抜こうとしていた。なんとしてでも、彼らより優れていることを僕は伝えなければならない。むせかえるような緊張感で内臓が握りつぶされたようだった。僕は受からなくてはいけない。その思いが汗となって頬を伝っていた。彼は彫像のようにしてカップに手をかけたままでいる。その呼吸の音さえさだかでない。目を上げていないためにわからないのだが、どうやらわれわれを品定めしているようだった。
 最初に動いたのは僕だった。と言っても、出されていた自分のカップに手をかけただけなのだが。彼は言った。なにも、私は取って食おうと考えているわけじゃない。
「会社全体がこのように静かなわけでもない。私としては、いくらか打ち解けた雰囲気を好む。べつにそこで君たちを悪く評価することはないだろう。もっとくつろいでくれてもいいのだよ?」
 のっぽが言った。「それは本当ですか?」
 彼はニヤッと笑った。「わざわざ訊ねなければいけないことかね?」

 しばらく、みながみな手元のカップを引っ張り上げ、それをちろちろ飲んで鈍重な沈黙に耐えていた。僕は勇気を振り絞って彼にどのような労働なのか、と訊ねた。そうだ。われわれはここにやってきたはいいものの、この会社がなにを扱っているかさえ知っていないのだ。われわれが知っているのは、非常に優秀な企業であること。そして、賃金支払いがとてもいいこと。その二つだけだった。
 彼はからになった自分のカップを両の手のひらで挟んでくるくると回していた。鼻を間延びしたように鳴らして、「そんなことはあまり重要じゃない」と言った。
「安心してほしい。労働の内容はそれほど特別なものじゃない。同時にきつくもない。むしろ、一般の職よりはずいぶん楽だとも言える」
 彼は僕たちに労働の経験を聞いた。僕は一番に「あります」と答えた。太っちょも同じように答えたが、のっぽは「ないです」と言った。
 彼はまた鼻を長く鳴らしていた。くるくるとカップを手のなかで回転させていた。彼の肌はこんがりと焼けていて、その指はすらりと伸びていた。滑らかな両の五指は女性を撫でているかのようにしてカップの表面を這い回っていた。依然われわれは彼の顔について知識を持てなかった。両目を上げて、彼と真向かいに面するということが、どうしてもできなかった。われわれは全員、すでにカップの内容物を飲み干してしまっていた。それがいったいどのような味だったのか、そんなことに気を配らせる余裕はつゆもなかった。彼の目がじろじろと自分の肌のうえを通っていくのが感じられていた。僕はそのたびに今すぐ立ち上がって、もう何も見ずにそのままで後ろのドアから出て行きたい気持ちにかられた。
 彼はきまぐれのようにして、ことん、とカップを置くと、「全員合格だ」と言った。
「君たちは全員合格だ。うん。働くのは明日からでいい。隣の部屋を貸してやるから、そこでいくらか休んでいくといい」
 われわれが緊張の鎖から解放されていたとき、彼はそう一口に言い切り、そのままで奥の部屋へと消えてしまった。残されたわれわれは、少しの間はそれまでのようにじっと沈黙していた。しかし、彼が本当にもうここから消えてしまって、一応のところでは帰ってくることはないだろうとわかると、安堵したように顔を上げた。それからたがいの顔を見て、とてもやつれている様子であることを冗談として語ってみた。それからカップのことを語り、この空間のことを、受かった嬉しさについて語った。ひとつを語るたびに、いくらかわれわれは沈黙せざるを得なかった。実際には沈黙のことを嫌悪していたが、それでも語りのなかで彼の像がふと浮かび上がり、どうしても口をつぐまないといけないと、そういう気がしてたまらなかったためだ。

 そのあといったいわれわれがどうなったのかはよく覚えていない。語りをし、時間をかけてたがいの尽力をねぎらった。彼の目線のためのこわばりも、時間が解きほぐしてくれたようだった。われわれはそのドアをきっと開けたのだろう。そしてそこに用意されていた三つのベッドで、それぞれ眠りについたのだろう。

 目覚めたとき、僕は暖かさの内側にいた。その柔らかく、美しいものがいったいなにであるのかを理解するのにずいぶん時間がかかった。掛け布団の内側でくっきりとした体躯の輪郭をなぞっていくと、アンドロイドの女性はこちらに微笑みかけた。それから彼女は僕に右腕を回した。そして、左腕を僕の身体にあてた。柔らかく、湿っていた。
 僕は「ガール・フレンドがいるんだ」と言った。
 もしかしたら、言わなかったのかもしれなかった。ぼんやりした思考でそう思っただけなのかもしれなかった。どちらにせよ、大人の型をしたそのアンドロイドはなにも反応をよこさなかった。さきほどと同様に落ち着いた笑みを差し向けるだけだった。僕はしばらく彼女と見つめあっていた。彼女は隅から隅まで本物の人間のようだった。

 顔だけをベッドから出し、部屋を見渡した。二人の男はこちらに背を向けて横たわっていた。彼らが眠っているのかどうかはわからなかった。
「ここから出ていってくれ」と頼んだ。
 実際、彼らが少しこちらに目をやれば、明らかなベッドのふくらみから、そこに僕以外の誰かがいるとわかっていたはずだ。そのことで、彼らが僕に不平の感情をぶつけてきてもおかしくはなかった。きっと二人には勝てやしないだろう。そんなことすらふと思っていた。
 それに、彼らが眠っていたすれば僕の願いなんて通りっこないはずだ。寝たふりをされたとしても、かなわない。
 しかし、意外にも彼らは僕の頼みをすんなりと受け入れてくれた。そっと起き上がり、のろのろとドアの向こうへ消えていった。

 僕はまたベッドのなかに顔を入れ込む。彼女はずっとこちらにスズランのような笑顔を向かわせている。その肌は夜の雪のようで、瞳は月のようだ。そして僕も彼女と同じように、彼女の身体に腕を回す。二人してベッドのなかで抱きしめ合うようなかっこうになる。僕の頭にはまたさっきと同じ思いがよぎる。彼女はいまでは両目をつむっている。
 しばらくそのようにしてたがいの温度を感じあっていた。そこに性的なやりとりはまだなかった。熱を求める二つのかたまりがそれぞれをしかと抱きしめていた。
 彼女はちょっと僕に断りを入れるように目を合わせた。それから左腕を腰のほうにやり、なにかを取り出して僕に握らせた。僕は指先の感覚でそれがタブレット(錠剤)であることがわかった。それが白い色をしていることも、そして少し細くなったかたちになっていることもなぜかわかった。掛け布団のなかで横たわったまま、彼女はそれを一粒飲んで見せた。そして、さっきもそうしたように、彼女は僕の目をのぞいて、それを飲んでみるよううながした。僕は一錠とりあげ、水なしで飲み込んだ。
 そのとき、初めて彼女は口をひらいた。彼女は優しく、おっとりとした声でそれは除草剤なのよ、とつげた。
「それは除草剤なの。のむと優しくなれるのよ」
 自分の口の左奥で、鈍痛とともに苦い味を感じていた。それは闇のようにとめどない広がりをみせた。深い痛みと苦さが全身に伝わっていき、僕は目を覚ました。

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