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318.人の不幸は苦い味「そう、甘くなんてないよ!」Human misery has a bitter taste

1.  人の不幸は苦い味


 「人の不幸は蜜の味」の場合もあるけれど、それではつまらないのでcoucouさんが勝手に「人の不幸が苦い味」という言葉を作ってみた。

それは、あくまでも主観的に相手が、悪人(例えば某国のトップなど)だと考えている場合(俳優や有名人などはイメージによる)は誰もは、拍手喝采となる場合もあるかもしれないけれど、相手が善人だと感じている場合は逆の現象となるね。

むしろ、喜びどころか、そんな気分にはならない。
 
例えば、大好きな俳優さんや尊敬する先輩や友人が不幸になれば胸が痛む。同時に哀しい気分になってしまうよね。

また、まったく知らない人であっても、とても苦労をし続けていた人や長年の介護疲れでつれあいを殺してしまった、という事件でも理由を知るといたたまれなくなってしまう。
 
95歳の母親が動けなくなった70歳の娘の介護ができなくなり、一緒に死のうと考え殺してしまったという事件があったけれど、このような場合95歳の年老いた母親の心情を考えれば考えるほど胸が痛んでしまう。




このように、ただ人の不幸だからと言って何でもが蜜の味になるわけではではないことがわかる。
蜜の味って、「善悪」はその人の主観で変わってしまいますね。
 
この「善悪」というものはよくよく考えて見ると不思議さを増す。

例えば自分の思う通りに相手が動いてくれれば「善」であり、
自分の思う通りに相手が動かなければ「悪」となるからね、随分勝手。

自分のことを愛してくれれば「善」であり、
愛してくれなければ「悪」になる。
商売で言えば、儲かることが「善」で、
儲からない事は「悪」となる。
いっぱい儲けて税金を沢山支払えば「善」で、税金を払えなければ「悪」となる。借金の返済などは遅れれば「悪」となる。

つき合いを断れば「悪」になる。
さらに人類史上最大の大虐殺の広島・長崎の原爆投下は「善」となり、
戦争で負けた日本は「悪」となる。
戦争で人を殺すことは「善」であり、
一般社会で人を殺せば「悪」となる。

とても、おかしい…
 
このように、「善悪」って人の主観で勝手に決めつけられていることがよくわかる気がするね。

 
「私は人を憎んだり、恨んだりしない」という人がいる。

そんな人でも「善悪」の基準があると思うけれど、無意識の中で自分の主観によって、人を恨み、憎んでしまう。自分勝手な意地やプライドなどもそのひとつだね。

だから、前回で説明した「自業自得よ!」「罰があたったのよ!」などという軽い発言が出てしまうのかもしれない。(でも、本人は心からほっとしてスッキリしているのかもね)


©NPО japan copyright association Hiroaki


 


2. 「人の不幸は蜜の味」を受け入れる


 
ほとんどの人はこう答えるでだろうね。
「人の不幸は蜜の味」だと考えたことはない、と。

でも、現実は、無意識かもしれないけれど、無意識ならなおさらそれを自らが受け入れていかねばならない気がするんだ。

実際に、現実としてその考え方がテレビやマスメデイア、ネットの世界が世論を動かし、それが視聴率という数字化し政治家までも動かし、国までも、世界までも動かしている、という事実があるからね。

現実を確かめないで、理想と虚像の善悪に囚われて正しさが認識できなくなる、まさに、567真理教と化し、その経典を自らが作りつづけていることになるからさ。(自分で自分の都合の良い方に洗脳してしまう)

結局、最終的には相手のせいにしたり、相手を心の中で非難してしまう恐れがあるんだよ。
「自分は正しい、正しい事をしているのだから他人の良くない事を非難しても当り前」と思うようになってしまうんだ。
 
私たちは、誰でも「人の不幸は蜜の味」という感覚を意識している人もいれば、無意識で感じない人もいることは事実だけど、神さまでない限り「人の不幸は蜜の味」に染まっているべきだと認識する必要があるかもしれない。


そこで、そのことを素直に受け入れる事で、何かが変わる可能性もある。
そのために、は次の3つの考え方を持つ必要があるんだ。

(1)人の不幸を喜ばない自分のことを考える
(2)自分の善悪の基準を疑う
(3)自分にとっての正しさを知る

これは、意外と当たり前で単純なことなんだけど、人は自分が感じている幸福感が小さければ、周りを悪とみなす傾向が大きくなり、幸福感が大きければ、周りを善とみなすようになる性質があるんだ。

さらに大切なことは、幸福感は人によって様々であり、正解もない、そして曖昧なものなのさ。
また、正しさも同じ、正解もない。
もし、私は正しいと思い込んでいる人がいたら、それはもう一度見直す必要がある気がする。

本当のあなたの幸せとは?
本当の正しさとは?
たくさんの人が、このことに明確に答えられないという理由がそこにあるような気がするんだ。

人生を幸せに生きる方法とは、
自分の正しさ、生き方を明確にすることが、
幸福感の定義を明確にする近道だと、coucouさんは思うようになった。

あ~UFОだ!©NPО japan copyright association Hiroaki


 


3.   恐怖の作り方


 
私たちは「怖れ」や「恐怖」にいとも簡単に動かされてしまうことがわかりますね。それも自分の意に反しても、敏感となり違う方向に動かされている。例えば、こんな脅かしがあるよね。
 
「あなたは数日以内に○○の神社にお参りに行かないと禍が起る」
「この指示通り動かないと罰があたる」
「あなたには地縛霊がついている、今すぐ祈祷しなければ不幸になる」
「家族に禍が起る」
「この食べ物を食べれば病気が治る」
「あなたの背後霊が悲しんでいる」
「あなたの前世の行いが今世でその罪を背負わねばならない」
「567に感染したら命を落とす恐れがある」
「家族にまで感染が広がったらどうするの」
「あなたのお爺ちゃん、お婆ちゃんに感染させたら死んでしまう」
「さらに変異した567が蔓延する」
「あなたの行いで神さまから罰を与えられる」
「大地震が来る」
「株価が大暴落する」
「紙幣は紙くずとなる」
「大不況が来る」
「戦争が始まる」
「某国と、某国が日本を襲う」
「第三次世界大戦が勃発する」
「世界が滅びる」
「食糧不足となる、だから自給自足が必要」
「電気が使えなくなる」
「大気が汚染され人が住めなくなる」
「あなたの命はあと数年しかない」

つい、最近ではゴールデンウイークが終わった後、1日10,000人~30,000人以上の感染者が増えるとAiが数値を算出した、なんて脅かす…。
 
言いだすときりがないけれど、世の中にはたくさんのこのような預言者(オオカミ少年)がいるよね。今は、一部の政治家たち、医療関係者、567委員会、経済評論家、軍事評論家、地震予知学会やある特定の医師たちの発言の、この種の人たちの共通点は「人の不幸は蜜の味」の人たちだよね。

だって、解決策や安心感を与えないのだから。

恐怖心と不安を与え、世の中を混乱させ、脅かし、威嚇し、自分の存在を優位にしたいと考える詐欺師たちだとcoucouさんは思う(一説によるとこのような人たちには悪霊若しくは動物霊がついているとされている?)。
詐欺師でないとしたら、人々の為に違う生き方や考え方の提案があるはずだよねで。
 
また、真剣に人のことを考えてくれる気がする。
coucouさんからいわせれば、みんな偽物で、こんな脅かしばかり言う人たちは、お金にも余裕のある人たち。
現実に生活で追われているような人は、そのような考え方に対する余裕などないし、人を脅かす必要がないんだよね。

「もし、明日、地球が滅びようとも私はバラの花の種を植える」、という言葉があるように、地球が滅ぶとしてもそのときまで全力で自分と人のために生きればいいのだからね。
 
だから、何も恐れる必要はないし、そのようなオオカミ少年を信じる必要もない。信じたところで何が変わるの?何も変わらないのだから自分が心から信じれる事だけを考えれば良いと思うんだ。

©NPО japan copyright association Hiroaki


©NPО japan copyright association Hiroaki

4.  人の不幸を喜ぶ人々

coucouさんはね、世の中「人の不幸は蜜の味」などと考えたことはない、という人もたくさんいると思うよ。
でもね、哀しいかな、人間の習性というものがあり、
どうしても多数派の考え方に流されてしまうんだよ、人間は。

みんながそうだから、他の人もそう思っているから、だから正しいというように、この感覚って、人間である以上、当たり前のものなんだけどね。
その理由は「善悪」の基準を、すべて自分の主観で決定してしまっているからなんだよ。
 
「善悪」というものは絶対的なものではなく、自分が勝手に自分の主観で決めつけているだけのもので、人の幸福や不幸なども同じように判断を下してしまう。そのため、「蜜の味」になるのかもしれない。
 
coucouさんは、ある本を発行するときに、
編集の人からある注文をされた。

それは、「あなたの本当のこと、一番大変だったときの家族の話を取り入れればこの本は間違いなく売れます。読者は著者の恥部やプライベートな部分に共感を覚えるものですから、あなたが書きたくない部分が売れる部分です。」
 
「この当社でヒットした本は、どうして売れたかというと、奥様の鬱状態、家族がバラバラになった話、娘さんの自殺未遂などが書かれており、このような真実の体験は売れる本の部類に入るのです」
 
…でも、実際にcoucouさんにはとても書ける内容ではない。

それはあまりにも苦しく、辛すぎて、悲しすぎて、酷過ぎて、それを売るために本に書くなど出版ができなくなったとしても書く気が起らなかったんだ。

出版の世界、売れる本の世界というものはそのようなことで成り立っているのだとしたら、とても酷い世界だと感じてしまったことがある。

本は、売れればいい、売る本だけ出す。人の恥部や、人の悲しみ、人の苦しみをお金にして、読者からの同情や共感をもらう。他人からの興味本位だけで本の価値が決まる、coucouさんだったら、自分の娘が自殺したことを本にすることなどできない。
(お断りしたときの、信じられないという編集者の顔を忘れられない…。あ~住む世界がちがうんだ…)

そして、ましてや、その娘を話題とした不幸の受け売りのような講演会やサイン会などもできない。本って、「人の不幸は蜜の味」を扱うものではないと今でも思っている。(こんな苦い味はない…)

これが、人の不幸であっても、人に勇気を与えるものならば救いがあると思うけれど、人の不幸が蜜の味、売れる、利益第一主義が目的ならばそのような本は必要ないと思うんだよ。
 
でも、世の中の流れは、人の幸せは喜べないが、人の不幸には注目が集まり人は同情することによって自らを安心させてしまうようだね。

他人の親がこの世を去っても、自分の親でないという安心感。
他人が不幸のどん底にいても助けるのではなく、
自分は違うという安心感。

自分より幸せな人を見ると嫉妬する。
相手の収入が自分より収入が多ければ腹が立ち、
お金がない事が不幸で、
お金があることが幸せだと自分の信念を簡単に折り曲げる。

幸せな人は不幸の人の気持ちを理解することができないが、
不幸な人は小さな幸せを理解できる。

これがテレビ、マスメデイアが生み出した567真理教の本当の姿なのかもしれない。
人が勝手に作りだした「善悪」と「上下」「競争」によってこの「蜜の味」はさらに美味しく熟成するんだね。


 
 
 
「蜜の味」の花びらの部分は人(心)なんだよ。

その無限に咲く花びらを気にして生きる事よりも、
その花びらの一枚は自分なのだから、
人のことよりもまず自分を見つめ直す必要があるような気がする。
むしろ。人の不幸をしつかりと受け止めて、自らの戒めとすることが本当の善悪の基準のような気がするんだ。
 
最も大切なことは、集中すべきは、
自分の幸福感とは何か、
自分の生き方とは何か、を追求することといえないかなあ~


 
あなた、いま、本当にしあわせですか?


coucouさんでした。みんな、ごきげんよう!

いつも読んでくれている、
note記事の仲間たち、
ありがとうございます。

また、あした~


※本シリーズは、317.「人の不幸は蜜の味」318.「人の不幸は苦い味」319.「自分の不幸は蜜の味」320.「誰よりも悲惨な結末を喜ぶ」という4部作となります。合わせて読んでくださいね!
この4部作は、coucouさんの哀しみの体験をまとめたものです。

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