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357.言い出した人から始めて、手近な私から始めなさい!

(10)人生に奇跡を呼ぶ方法

1.隗より始める


中国に「隗より始めよ」という格言があるよね。
 
昔、中国に燕という国があった。その燕の国の王様が郭隗という家臣に、「賢者をこの国にたくさん集めるためにはどうしたらいいか」と尋ねたという。
すると、郭隗は「賢者を招きたければ、まず私のような何の取り柄もない家臣を重く用いることです。そうすれば自分より優れた人間が自然に集まってきます」と答えた。
要するに、この格言は、大事をなすには身近なことから着手することの大切さを表しているんだね。
 
この言葉ってね、とても深く、本当の賢者は自分のそばにいる、身近にいる。その人たちを大切すれば賢者がたくさん集まる、という意味だそうだ。
 
とかく、私たちは身近な人の声に耳を貸さず、
つい、遠くの頭のよさそうな人の意見を信じてしまうよね。

遠くの人は、その人の欠点や長所がわからないため、よく見えてしまう。
身近な人たちはその人の欠点が目立つため、正しい意見を述べても信用することができず、つい、遠くの人を信じてしまう。
 
つまり、本当は、身近な人の欠点や長所がわかるように、身近な人ほどあなたの欠点や長所を知っている。

でも、人は、身近な友人の言葉、家族の言葉、彼氏や夫、妻の言葉を信用せず、遠くの人を信じてしまうんだね。
 
また、この格言は、人は目の前のことよりも遠くのこと、大きなことに目を奪われてしまうけれど、「小さな大事から、大きな大事」というように、小さなことが大切なんだよ、と教えてくれている。


©NPО japan copyright association Hiroaki

紀元前4世紀の末頃、燕(えん)の国は隣の斉(せい)の国に国土の大半を占領され、国王までもが殺されてしまった。
そこで、次に即位(そくい)した昭王(しょうおう)は、何とか国の力を回復させようと優れた人を集めようと思い、宰相(さいしょう-王様を助け、政治を行う人)の郭隗(かくかい)という人に相談した。

すると、郭隗はこう言う。

昭王、こんな話があります。
 「昔、ある君主が千金を出して1日に千里を走る名馬を買おうと思いましたが、3年たっても見つける事ができません。すると、宮中にいたある男が進み出て、買ってきましょうと申し出たので、その男に千金を渡して買いに行かせました。その男は千里の馬を見つける事ができましたが、惜しくもその馬は一足違いで死んでしまっていました。すると、何を思ったかその男は、死んだ馬の骨を五百金で買って戻ってきました。君主は、死んだ馬を五百金も出して買ってきたことを怒りました。しかし、その男は言いました。」
 
『少々お待ち下さい。死んだ馬でさえ五百金で買い取ったのですから、生きた馬であればもっと高く買ってもらえると考え、続々と良い馬が集るでしょう。』と、はたして1年も経たないうちに千里の馬をたずさえた者が3人もいたそうです。今、昭王が賢者を集めたいとお思いならば、まずこの隗を重く用いる事です。あの隗でさえあんなにも厚遇(こうぐう)されているのならばと、私よりも優れた人物が集まる事でしょう。』

 
 昭王はその話を聞き、隗のために立派な宮殿を建て、礼遇(れいぐう-礼をつくし、丁寧にもてなす事)した。


すると、そのうわさは各国に伝わり、趙(ちょう)国の名将である楽毅(がくき)や政治家の劇辛(げきしん)、陰陽学者(いんようがくしゃ)の鄒衍(すうえん)などの優れた人物が集まった。
そして、ついに昭王は斉の国を破る事ができた。 

この話は「戦国策(せんごくさく)」という書物に書かれているものからまとめたもの。
 
本来この意味は、「手近な私から始めなさい。」という事ですが、現在では、「言い出した人から始めなさい。」という意味もあるようですね。
(※後半参考文献参照)


©NPО japan copyright association 

coucouです。
みなさん、ごきげんよう~

どうして、人は身近な人たちより、遠い人たちを大切にしたり、答えが目の前にあっても信じないで、遠くに答えを見つけるのだろうね。

でも、わかるよ~

coucouさんもそうだったからね。
だから、いつも失敗ばかりさ!

身近な人の意見を聞かないのだからね。

身近な人はcoucouさんの性格や行動のほとんどを知っているわけだから的確なアドバイスをしてくれているのだけれど、実際はどうしても遠くの人の意見を信じてしまう。

その理由は、身近な人を信じていない、ってことだよね。

不思議なんだけれど、身近な人たちは短すぎるためなのか、「自分のことなんてわかってくれない…」と思い込んでしまう。

それに、身近な人の方が「耳の痛い意見」をいうよね、厳しいってことだ。coucouさんを知らない、遠くの人たちは「耳障りの良い意見」をいうから、自然とそちらに耳を傾けてしまうんだ。

これでは、どんな良い助言であっても間違いが起こるよね。

親子関係も良く似ている。
どんなに正しい意見であっても、あまりにも近すぎるために聞く気が起こらなくなったり、つい、馬鹿にしてしまったりしてしまう。
それに、親子関係って、親にしても子にしても厳しい言い方をするよね。

でも、身近な人たちの意見ほど正しいんだよ!

これって、会社関係や企業、組織も同じ。

政治も同じかな~

だって、現場の声よりも外部にコンサルタントや第三者委員会、専門家会議なる者たちを招き入れて外の言葉を重視するよね。
もちろん、内部からの正しい意見よりも外部の者の意見が尊重されてしまう。

確かに、おかしいね~

でも、現実はほとんどが自己満足。なんの明確な答えが残らない。
国民不在の科学的データやその根拠を示さない、567の専門者委員会は、どこに行ったの?

つまりね、「耳の痛い、自分の都合悪い意見や考え」よりも「耳障りの良い、自分の都合の意見や考え」を優先するからそうなるのさ。

coucouさんはね、はっきりと言うよ~

coucouさん自身、人の意見を聞かなかったことはほとんどが失敗、上手くいかなかった。

こんな、coucouさんだって、認めているよ!

自分勝手な自分にとって都合の良いないことなど、
この世にはないことをね。

そう、だからね、一番身近な人を大切にしようと思う。
だってね、coucouさんのことを、coucouさんの性格まですべて知っているのだもの。そして、冷静な判断をしてくれるものだと信じれるようになった。

「近くの人。People nearby.」



遠くの人より、
Than a distant person

近くの人。
People nearby.

知らない人より、
Than strangers

知っている人。
Someone who knows.

わからない人より、
Than those who don't understand

理解してくれる人。
Someone who understands.

何よりも、心から心配してくれている人。
Above all, someone who is really worried.

そんな人を一番、大切にしたい。
I want to cherish such a person the most.

            coucouさんの言葉より
            From coucou's words



みんな、ここまで、
読んでくれて、
本当にありがとう~

良い一日を~



 
 
※参考文献 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


昭王(燕)
昭王(しょうおう、 - 紀元前279年、在位紀元前312年 - 紀元前279年)は、中国戦国時代の王。は職。楽毅郭隗ら有能な人材を用い、斉に攻められて没落していた燕を再興させて全盛期を築き上げた。

 
生涯
公子職時代
父は燕王噲で、昭王はその庶子である。司馬遷の「史記」によると、父の噲は国政に無関心で宰相子之を盲信し、に倣うと言って禅譲を行い、これに対抗して太子平は反対派を集めて挙兵した為、国内は騒乱状態となった(紀元前315年)。翌年ここに公子職の援軍と称して斉(田斉)の湣王が付けこみ兵を出して侵攻し全土を併合、父王噲は殺され燕は一時的に滅亡状態となった。
燕の再興
2年後の前312年、斉に服属することを条件にして王に即位することを許された。昭王は燕の再興と斉への復讐を目的にして富国強兵と人材の登用に励んだ。昭王は郭隗を師と仰いだ。これが有名な「まず隗より始めよ」の故事であり(郭隗に宮殿を与えて優遇することで郭隗程度でも優遇されるのだからもっと優れた人物はもっと優遇してくれるということ)、郭隗のいうとおりに名将楽毅蘇秦の弟蘇代など、燕に続々と人材が集まってきた。
 
復讐
この頃、斉の湣王は諸国に兵を出して交戦を続けていた。このため斉は強国となっていたが諸国からは恨まれた。昭王は楽毅の進言を容れて燕、で5ヶ国の連合軍を結成し、前284年に斉に攻め入った。5ヶ国連合軍は斉軍を済西で破った(済西の戦い)。4ヶ国の軍はここで撤退するが、燕軍のみは楽毅を総司令官として斉の都である臨淄に進軍し、遂に落とした。昭王はこれを大いに喜んで自ら臨淄にまで赴いて楽毅を労い、昌国君に任命した(当時、領土は王族などで分与されており、功臣とはいえ領土を直々に与えられるのは過分の褒賞であった)。さらに昭王は楽毅に軍の指揮を任せて斉の平定に従事させる。
湣王は臨淄を落とされるとに逃げ込んだ。楽毅は斉の70余城を5年ほどで落とし、斉で残るのは湣王のいる莒と田単のいる即墨のみとなった。莒は楽毅に攻められたが湣王も徹底抗戦して戦闘は長期化した。このため、楽毅は斉の援将である淖歯を調略した。湣王は淖歯の裏切りにより殺され、昭王の復讐は果たされた。
 
最期とその後
田単のいる即墨と湣王横死後に即位した法章(襄王)のいる莒(淖歯は裏切りに憤慨した市民に殺されていた)のみは燕になおも抗戦した。戦いが長期化する中で前279年に昭王は病死し、太子が恵王として即位した。
恵王は太子時代から楽毅と仲が悪く、昭王が死ぬと田単による離間策にかかった恵王は楽毅を召還して誅殺しようとしたが楽毅は趙に亡命した。恵王は騎劫という将軍を新たな司令官として送ったが、恵王の不当な人事に燕軍の士気は一気に低下し、昭王の時代に奪った斉の70余城は全て奪い返された。






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