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【短編】『女心』

女心


 僕は荒波が立つ海沿いの丘にそびえる大きな松の木の下で彼女を待ち続けた。いくら時間が経っても彼女は姿を現さなかった。僕は渋々2時間かけて来た道を戻ろうと道沿いを歩き始めた。すると、道の向こうにうっすらと彼女の姿が映った。陽炎のせいでうまく見えなかったが、一瞬捉えた笑顔で彼女だと確信した。僕は彼女めがけて大きく手を振った。向こうも僕に向けて手を振り返した。

 彼女と出会ったのは西暦1905年、たしかちょうど花木が彩り始め寒さも落ち着き温暖になった頃だった。切符を買って開通したばかりの私鉄に乗り込むと人混みの多い中、向かい側の席に座る彼女が揺れ動く乗客の身体を避けながら、やけに僕の方ばかりじろじろ見ては顔をすぐ隠してしまうのである。僕は非常に気になりしまいには席を立って彼女のそばまで行き不意をついて、

 「何か僕にご用でも?」
と聞くと

「ひえっ」

と彼女は反応し僕の質問に答えることなく、先ほどまで僕を見ていた素振りとは打って変わって、車窓に映る海の方を眺めてしまうのである。僕はわざわざ事情を伺おうと席を立ったのにこの態度はけしからんと、彼女の膝の上に手持ちの鞄を置いてやったところ、再び彼女は反応を見せた。恐る恐る鞄から僕の方に視線を移し、ぎこちない笑顔を作って軽く会釈をした。僕は彼女のその仕草に多少意表をつかれたが、かえって僕の機嫌を損ね、彼女に一言申した。

「あのな、女性だからって嫌なことは嫌と言ってもかまわんじゃないか?会釈なんかでごまかそうったってかえってこちらが気まずくなる」

彼女は何のことかさっぱりわからないような顔つきで僕の目をまっすぐ見て何も発することなく再び海の方を眺めた。僕はどうすることもできず、すぐにその鞄を彼女の膝から引き揚げた。このような女性と出会ったのは初めてのことだと、驚き呆れるとともにどこか侮辱されたような気がした。駅に着くまで彼女は長らく外の景色を見続けた。先ほどこちらの様子を伺っていたのは何だったのだろうかと、つり革にもたれかかりながら私鉄中を疑問で埋め尽くした。彼女は僕ではなく他のものを見ていたのか。それともやはり僕のことが気になっていたのではないのか。彼女の顔を再び覗いてもその横顔には何の感情も映らなかった。

 駅に停車し彼女に何も言わずに下車しよう私鉄を降りた時、ふと後ろから背中を何者かに叩かれた。振り返ると、先ほどの彼女の姿があった。

「あの、この手拭い落とされましたよ」

と彼女は小さな声で呟いた。

僕は突然の出来事に一瞬まごついてしまったが、どうやら彼女はすぐに電車に戻らなければならないような顔つきをしているので、咄嗟に手拭いを受け取ると、僕が返事をする前に素早く電車の中へと逃げ去ってしまった。

 それからのこと、あの私鉄での出来事が僕の頭から離れることはなかった。初めは彼女に対して、素っ気ない態度を取られたことに怒りさえ覚えていたが、下車する時にとったあの行動がどうにも引っかかった。やはり彼女は僕のことを気になっていたに違いない。あれほどまでに照れ屋とは、女心というものはつくづく理解できないものだと思った。気づくと僕は街のそこかしこで無意識に彼女の姿を探していた。再び私鉄に乗った際は、むしろ僕があちこちを見ては周りの乗客に不審がられるほどだった。

 ある日、仕事帰りに私鉄に乗ると、外を眺める女性が座っていた。一度向こうに視線を向けたが、どうせいつものように人違いだと思い、そのまま混雑した車内で一人向かい側の席に座っていた。ふともう一度向かい側の席を見ると、女性は相変わらず視線を外の景色に向けており、以前私鉄内で出くわした出来事を思い出した。あの時もう少し優しく声をかけてやるべきだったな。僕は失敗したな。と心の中で呟いた。すると女性は視線を一瞬僕の方に移してはすぐに床を見た。彼女が座っていたのだ。僕は今までずっとその女性が別人だと思っていただけに目が点になった。すぐに立ち上がって、人混みを避けて彼女の方へと歩いた。ようやく彼女の目の前までくると、膝を軽く叩いた。

「あの、覚えていますか?」

「は、はい」

「この前は大変助かりました。あの手拭、母親から借りていたものなんです」

彼女は無言のまま僕の方を見続けた。やはり思った通り照れ屋だった。あの時気づいて入ればよかったものをと後悔したがどうしようもなかった。

 それからのこと僕はすぐに彼女と結婚した。彼女は実はとても品のある女性で、あの時とった素っ気ない態度はやはり僕の思い違いであった。しばらくのこと二人で幸せに日々を送っていた。ある日、二人の住む家に赤紙が届いた。彼女はそれを見ておよそひどく悲しんだに違いないが、僕の前では大いに喜んでくれた。彼女は僕を見送りに駅までついて来てくれた。別れの時、彼女は突然僕に語り始めた。

「実はあの時。私鉄であなたと出会った時、隣に座る男があなたの衣嚢から財布を盗ろうとしていたんです。どうにかあなたに伝えなければと思い、それであなたの方をしつこく見てしまったんです。でもあなたはすぐ席を立ったので安心しました。すると、徐々に私の方まで近寄ってこられたので焦りました。ついでに私の膝に鞄なんか置くもんですから恥ずかしくなってしまってお外を眺めていたんです。あの時は大変失礼しました」

「なんだ。そういうことだったのか。てっきり女心かと」

「女心?」

「いいや、なんでもない。すると二度も君に助けられたということか」

「ええ」

「あの時はふてくされてしまってすまなかったね」

「いいえ。私の方こそ」

すると遠くから私鉄の車輪の擦れる大きな音がした。

「そろそろだね」

「ええ」

僕は大きな荷物を肩に担ぎ、鞄を反対の手に持った。

「それじゃあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃいませ。お身体には十分お気をつけて」

「ああ、近いうちに手紙を送るよ」

「お待ちしてます」

「じゃあ」

と言うと、彼女は初めて私鉄の中で出会った時のように恥ずかしそうに軽く会釈をした。

 僕は荒波が立つ海沿いの丘にそびえる大きな松の木の下で彼女を待ち続けた。いくら時間が経っても彼女は姿を現さなかった。僕は諦めて来た道を戻ろうと道沿いを歩き始めた。すると、アスファルトの向こうにうっすらと彼女の姿が映った。僕は彼女めがけて大きく手を振った。向こうも僕に向けて手を振り返した。


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