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「好き」とは何か。(恋と愛の違い/“究極の愛”とは)

前回の投稿はこちら▼

私は大学の卒業制作で、“恋愛感情”をテーマに、4冊の冊子を制作した。

今回からは、そのうちの1冊である「“私”による翻訳」という冊子の内容について、載せていこうと思う。


第一章 恋愛観

「好き」の概念

「好き」という感情の概念について。

私は何かと、恋や愛などの、「好き」という感情の概念や定義について、考える機会が多い。
自分の実体験を元に、一人で永遠と考え続けてしまうこともあれば、友人と語り合うような機会も多い。

答えの出ない議論を永遠と繰り広げ、それぞれの持論を共有し合い、新たな発見を取り入れながら、また永遠と考えていく。
終わりの見えない思索。
そんな時間が、私にとっては何よりも幸せで仕方がない。

今回は、それらを踏まえて、
自分なりに「好き」という感情について定義してみた。


①「恋」と「愛」の違い
ー 理想像だけを見ている「恋」、現実を受け入れる「愛」ー

「恋」と「愛」の違いは、短所の見え方の違いに表れている。
「〜だから好き」だと恋、「〜だけど好き」だと愛。

恋は盲目。
相手の短所が短所には見えない。
とにかく、相手の存在自体が尊く感じるので、その人の持つ全ての要素が、客観的に見て良い側面であるかのように映ってしまう。

愛は現実的。
相手の短所はちゃんと短所に見えるが、「その人」という存在すべてを受け入れた上で愛しているので、どんな面を見ても許すことができる。

相手が完璧な人間だと思い込み、理想像だけを見て、好きでいるのが恋。

相手の欠点まで全部理解し、欠点だと認めた上で
そこも含めてすべて受け入れ、好きでいるのが愛。

もちろん、「恋」と「愛」は共存することもある。



ー 自分を優先させたい「恋」、相手を優先させたい「愛」ー

「恋」と「愛」の違いは、「自分と相手、どちらを優先したいか」にも表れている。
「幸せにしてほしい」「自分が幸せにしたい」「幸せになって欲しい」。

この三つの感情は、左に行けば行くほど、「恋」「独占欲」に近い。
逆に、右に行けば行くほど、「愛」に近い。

相手に、自分のことを「幸せにしてほしい」と求めてしまうのが、「恋」や「独占欲」。
盲目になっており、「相手」よりも「自分」優先で考えてしまう。

相手のことを「自分が幸せにしたい」と思うのは、ちょうど中間。
「相手の幸せ」を願いながらも、「それを叶えるのは自分でありたい」という独占欲も含まれる。

「相手を幸せにするのは、たとえ自分ではなかったとしても、それでも良いのでとにかく幸せになってほしい」とひたすら願うのが、本当の「愛」。
自分の感情を犠牲にしたとしても、相手を優先させたいと思ってしまう。




②「究極の愛」とは
ー 短所が愛おしい ー

本当に愛している相手に対しては、その人の長所を知ったときよりも、短所を知った時の方が「好き度」が増すような気がする。

もちろん、その人の長所を沢山知っているのを前提として、それを踏まえた上で垣間見えるちょっとした短所には、ときめいてしまうこともある。

短所を知って少しでも嫌になってしまう相手なら、それはまだ「愛」ではないと思う。

完璧そうに見える人に短所を見つけると、「この人も私と同じ人間なんだな」と安心することもある。
短所の欠けらもない人とは、一緒にいても劣等感で疲れてしまう。

弱い部分が少しでもある相手だと、「私なんかでも、この人のために何かできることもあるのではないか」と、少しだけ嬉しくなる。


ー たとえ相手の正体が猫でも鳥でも虫でも花でも、同じように愛することができる気がする。ー

たとえば好きになった相手が全部偽りの姿だったとして、
名前も年齢も性別も学歴も全部偽っていたとして、
その事実を打ち明けられたとして、
「それでもこの人がいい」と思える人こそが、究極の愛だと思う。

「本当は猫でした」とかね。
現実にはありえないけれど、たとえばの話。

「この人が何をしていたとしても、好きでい続ける自信がある」というものにも似ている。
極端に言えば、たとえ、その人が人を殺していたとしてもそれまでと変わらず、好きでい続けられる。

あとは、「誰がなんと言おうと私はこの人が好き」というのも愛。
周りの人がその人のことを悪く言うのを聞いてしまった時に、それに流されて、相手への「好き」という感情が揺らいでしまったら、所詮その程度なのだと思う。
究極の愛は、少しくらいの事実や周りの噂なんかに左右されない。

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