ロベルト・ロッセリーニ監督 『戦火のかなた』 : 「戦争の悲しみ」を描く 6つの物語
映画評:ロベルト・ロッセリーニ監督『戦火のかなた』(1946年・イタリア映画)
すでにレビューを書いた、『無防備都市』(1945年)に続く作品で、さらに2年後の『ドイツ零年』(1948年)と合わせて、「ロッセリーニの戦争3部作」と呼ばれている。
『無防備都市』のレビューにも書いたとおり、ロッセリーニは『イタリア映画界における「ネオリアリズモ」運動の先駆的な存在であり、のちのフランスにおける「ヌーヴェル・ヴァーグ」に多大な影響を与えた人物』だと、一般には理解されている。
そのため、当然この三部作も「リアリズム」作品だとの先入観を持って見られ、その文脈で語られることも多いようなのだが、必ずしもそうとばかりは言えない、というのが、三部作の2作目までを見た私の、率直な感想である。
私は『無防備都市』のレビューで、次のように書いている。
つまり、作品と虚心に向き合うべきだ、ということであり、今回、本作『戦火のかなた』を見て、こうした思いをさらに強くした。
例えば、私の感じたこのような危惧は、私が見た本作DVDに付された「解説」にも、残念ながら当てはまるようだ。
日野晃一によるこの解説の問題箇所は、もちろん、次の部分だ。
たしかに、映画冒頭がそうであるように、「戦争末期」を扱った本作では、あちこちに「実録映像」が挿入されているから、そういう部分が「生々しく荒々しくリアル」であるというのは当然の話だ。しかし、問題は、それ以外の「本編ドラマ」部分である。
率直に言って、この映画のために撮られた「ドラマ」部分は、特に「生々しく荒々しくリアル」というようなものではないし、到底「ストーリー性を排し」ているとも思えない。それは、今の目で見ても当たり前に「魅力あるドラマ」に仕上がっているのである。
1946年とは、終戦の翌年だから、「瓦礫となった都市」が「そのまま」使われていたりするので、なるほどそうした部分は「生々しく荒々しくリアル」なのだが、それは何もロッセリーニ監督の功績だとは言えないだろう。要は、撮った時期が良かっただけの話なのである。
だから、注目すべきは、この映画のために撮り下ろされた「ドラマ」の部分だということになる。
そして、その「ドラマ映像」部分は、特に「生々しく荒々しくリアル」というわけではないから、「ダメだ」というわけではないのだ。むしろそこが、「映画のドラマ」としてきちんと「丁寧に」撮られている点で、本作は「魅力的」だと言いたい。
言い換えれば、「ネオリアリズモ」の作品だという「世評」に合わせるかたちで『ストーリー性を排除し』て『生々しく荒々しくリアル』だなどと形容しなくても、普通にきちんと、美しく撮れている作品だと、そう評価したい。
実際、本作『戦火のかなた』が、「1946年ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞」を受賞したり、翌年の「キネマ旬報外国映画ベストテン1位」になったりしたのは、『ストーリー性を排し』ているからでも、『生々しく荒々しくリアル』だったからでもなく、むしろ切々と伝わってくる「悲しみ」の情感があったからだと、私は思うのだ。
実際それは、下手をすると「紋切り型のドラマ」にも堕しかねないほどのものなのだけれど、しかし本作ではそれが、「作り事」のそれになってはいない。
そしてそれはたぶん、本作が終戦の翌年に作られた作品であり、その「生々しい記憶と実感」に支えられた作品だったからではないだろうか。
本作には、監督デビュー前のフェデリコ・フェリーニが助監督と共同脚本として加わっているのだが、そう思って見れば、たしかに本作の「6つのエピソード」には、彼の代表作である『道』などに描かれた、「弱者への共感」と「神への複雑な思い」が込められているように感じられるし、それは「リアリズム」という言葉では、とうてい片づけようもないものとして、画面にも現れているのである(もちろん、ロッセリーニにも『神の道化師、フランチェスコ』があるが、私は未見)。
この「6つのエピソード」については、「映画.com」の「ストーリー紹介」を、適宜区切って引用紹介し、それに私の解説を加えるという形式で、以下、書いてゆきたい。
「解放軍」の斥候隊として村に現れたアメリカ兵たちに、「村の娘」カルメラは、必ずしも心を開いているわけではなかった。また、そんな彼女を信用し切っていたわけではなかった斥候隊の隊長は、道案内に連れ出した彼女を、途中の城砦に残して、自分たちだけでその先の様子を窺いに行く。
その際、彼女の見張りとして一人だけ残されたのが、田舎者の一兵卒だった。
気の良い彼は、警戒を緩めないカルメラと、なんとかコミュニケーションをとろうとして、故郷の話をしているうちに、カルメラも少しずつ心を開いていく。今は兵隊だけれど、彼も元々は自分とおなじ「庶民(農民)」なのだとわかって、心を開いたのだ。
だが、その彼が、彼女に家族の写真を見せようとしてライターを使ったために、あっけなく狙撃されて死んでしまう。そして、二人が潜んでいた城砦に、ドイツ軍の残存兵がやってきたので、彼女はアメリカ兵の遺体を隠し、最後はそのライフル銃でドイツ兵を撃ち、逆に殺されてしまう。だが、そのあと、銃声を聞いて城砦に戻った米軍の斥候隊は、そんな事情を知らずに誤解してしまう、という「悲劇」を描いているのだ。
このエピソードは、とてもよく出来ている。
ちょっと呑気な黒人アメリカ兵のM・P(陸軍警察)が、進駐しているナポリで一人の少年と仲良くなるが、黒人兵が泥酔して寝ている間に、少年は靴を盗んで姿をくらましてしまう。
3日後、その少年が軍のトラックから物資を盗もうとしているのを見つけたその黒人兵は、少年を捕らえて、前に盗まれた靴を取り戻そうと、家まで案内させたところ、その寺院跡か何かの大きな廃墟の中には、家を失った多くの人たちが大変な避難生活をしており、少年からも戦争で両親を失ったと知らされ、黒人兵は、恐ろしいものを見たかのように、その場から逃げ帰っていくのである。
一一この、印象的なラストは、その前段としての少年との3日前の交流場面で、この黒人兵が故郷のことを語って「俺の実家なんて、ボロボロで荒屋で、あんなところには、もう帰りたくない」と漏らしていたことが、伏線となっている。
つまり、その黒人兵は、自分は貧乏育ちで、兵士としても地獄を見てきたから、すでに終戦間近な異国の町での生活は「悪くない」と、そう感じていたのだ。
だが、現地の「抜け目のないコソ泥少年」と思っていた「子供」の置かれている、あまりにも悲惨な環境を知って、それが「見るに堪えない」と感じられたからこそ、彼はその場から、逃げるように立ち去らざるを得なかったのだ。もう、そんな「つらい現実」など、見たくはなかったのである。
この説明は間違っていると、私は思いたい。
酔っ払ったG・Iの青年は、その娼婦が、6か月前の娘だと、最後まできづかなかったと、私は解釈するのだ。だからこそ、切ないドラマともなってもいるのだと。
このエピソードは、〔第三挿話〕と同様で、終戦後にはよく見られたであろう、貧しさゆえの「若い女性の淪落の悲劇」を描いており、同じような話は、日本を舞台にしてだって作られているのではないだろうか。
このエピソードのポイントは、フランチェスカが、娼婦となって表面的には「スレた女」に変わってはいても、その心には「無垢」な部分を残していた、という点にある。
だからこそ、アメリカ兵が、かつて好意を寄せた女性が、目の前の彼女だとも気づかず「彼女だって今は、あんたみたいになっているかもしれない」と残酷な言葉を漏らすのに対し、彼女は「そんなことはないわ。体を売るなんかことはしないで、堅実に頑張っている娘だって大勢いるのよ」と「かつての自分」を庇い、泥酔したアメリカ兵に正体を明かさないまま、彼が探していると言うその「女性」の住所を知っているので、「明日、会いに行っておあげなさい」と言い、住所を書いたメモを渡し、何もないまま、その宿を立ち去るのである。
そして翌日、彼女は昔のような白いドレスを着て、アメリカ兵の訪問を待つのだが、翌朝すっかり酔いが覚めたアメリカ兵の方は、「昨夜はよろしくやったのか?」と尋ねる兵隊仲間に、そのメモを見せて「売春婦の住所だよ」と言って捨ててしまい、彼女に会いにはいかなかったという、そんな「悲劇」を描いている。一一だから、米兵が彼女に気づいたから、手を出さなかったというのでは、あんまり残酷な話ではないか。
「偶然の再会」は、やや出来過ぎの感があるものの、これも、いかにも痛ましい「戦争悲劇」の寓話ではないだろうか。
これは、前の3つに比べると、いささかドラマとして弱いという印象があった。
しかし、一部瓦礫になったままの街並みをそのまま使っているため、その「リアルの迫力」は、「セット」ではとうてい出し得ないものと言えるだろう。
ドラマとしては、主人公らの真剣さよりも、イギリス兵たちの「今は無理に攻め込むことはできない」という冷めた態度の方が、むしろ「リアル」なものだと感じられた。
ここの「三人のアメリカ従軍牧師」という表現は、必ずしも正確ではないが、それはおいて、説明していこう。
たぶん、このエピソードを見て、多くの人は、3人のうちでは上官にあたる、主人公の従軍(カトリック)神父の態度に、共感するだろう。
すなわち、同じカトリックである修道士たちが、あとの2人が「誤った信仰をもつ者」であるとわかっていながら「どうして(カトリックへの)改宗をすすめないのか?(そのままでは、天国へは行けないのに)」と非難するのに対して、彼は、軍の同僚であるプロテスタント牧師とユダヤ教の祭司について「彼らは良い同僚であり、その信仰も真面目なものだから、自分の方から改宗をすすめる気など、まったく起こらなかった」と、その「リベラル」な姿勢を語るためである。
言い換えれば、「修道院」に籠もりきりの修道士たちは「外の現実=戦争という世界の現実」が、まったく見えておらず、「呑気すぎる」と、多くの人はそう見てしまう。しかしながら、「信仰」の原則から言えば、修道士たちの意見の方が、完全に正しいのである。
無論、だからと言って、昔のように拷問してでも改宗させるというのは間違いだが、この僧院の修道士たちのように「2人の迷える魂が救われるように」という神への祈りのために、食事を控える(苦痛を引きうける)、というのは、「キリスト教信仰」としては、まったく正しいのだ。
一一しかしまた、その信仰態度がいかに正しくても、根本的な問題は、その「神」が、そもそも「存在していない」ということである。
その意味では、プロテスタントも、ユダヤ教徒も、そしてカトリック神父や修道士たちも、結局は、彼ら全員が「神」に救われることなどはない。「神への謙遜な祈り」も、神が存在すればこそなのであって、現に神がいないからこそ、主人公であるアメリカ軍の従軍カトリック神父は、この「世界の現実」に妥協して、プロテスタント信者やユダヤ教徒を、「同じ人間」だと認めないわけにはいかなかったのである。
このエピソードでは、連合国に協力しているパルチザンのイタリア人一家が、幼い子供を残して全員惨殺され、一人残された幼い男児が「ママー、パパー!」と、遺体の転がる夕暮れの庭で泣き叫んでいる姿が、いかにも痛ましい。パルチザン(ゲリラ)は「正規兵」ではないから、戦時国際法による「捕虜」としての待遇を保証されないというのが、ドイツ軍の立場だったのである(中国での日本軍や、ベトナムでの米軍も同じだった)。
だから、捕らえられたあと無惨に殺されていくパルチザンたちの姿が描かれた後に、「数週間後には、イタリアは解放された」というテロップが入ると、「もう少しだったのに」という「運命の皮肉」を、見る者は禁じ得ないのである。
結局のところ、戦争における死とは、誰のものであれ、そのほとんどが「無意味な死」と呼んでいいものなのだが、このエピソードの最後で描かれる死は、そのことを強く印象づけるものとなっている。
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このように見てくると、本作が終始一貫して描いているのは、もちろん「戦争の悲劇」なのだけれども、その中でも特に「戦争の虚しさ」なのだ。「勝った負けた」の虚しさなのである。
勝つことで守られるのは、例えば「領土」であったり「政治体制」であったりするだろう。けれども、それで「失った家族や友人」、そして「失ってしまった私の無垢な心」は、決して返っては来ないのだと、そう、この作品は語っているように、私には思えたのである。
だから、この作品は「リアル」であるよりも、むしろ「抒情的にドラマチックな作品」だと、私はそのように評価したいのである。
(2024年9月2日)
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