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山田陽子『働く人のための感情資本論 パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』 : 「労働と感情」における戦場リポート

書評:山田陽子『働く人のための感情資本論 パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』(青土社)

先行レビュアーの「麦茶の友」氏が『SNSでも話題になっていた第7章から読みました。共感するところが多々あり、日頃思っていたことを言葉にしてくれた気がします。』と紹介している「第7章」は、「ワーキング・マザーの「長時間労働」」を扱った同題の章なので、おそらく「麦茶の友」氏はワーキング・マザーであり、SNSで同章を話題にしたのも、ワーキング・マザーの皆さんだったのではないだろうか。
他の先行レビュアーのお二人も、シンプルに本書を褒めておられ、そこに見られる本書の受容のされ方は、本書のいささか抽象的なタイトル『働く人のための感情資本論 パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』とは違ったところで、かなり「ストレートにリアルなもの(リポート)」として受けとめられているようである。

私自身は、「労働」というものから、ある意味で距離をおいている人間(無論、職業労働はしているが、ごく簡単に言えば、基本が「趣味人」)なので、本書を手に取った際のスタンスも「世の労働現場のリアルな問題点を知りたい」とか「労働問題に関する、専門家による分析から学びたい」といった、いささか観念的なものであった。そのためだろう、本書を読み終わった際に思ったのは「こういう本だったのか」という、いささか微妙な感想だった。
もちろんこれは、必ずしも否定的な評価ではない。単に「予想が外れた」という話でしかないからなのだが、本書のタイトルは、労働社会学の門外漢に、その内容を窺わせないという点では、いささか不親切なものであったとは言えるかもしれない。

著者は、そのあたりの機微を、「あとがき」のなかで、次のように語っている。

『 本書の刊行に至るまでに、多くの方々にお世話になった。まずは、インタビューに応じてくださったインフォーマントのみなさん、メンタルヘルスケアの専門家、自殺の遺族、ライフハッカー、ワーキング・マザー、それぞれの立場から、海の物とも山の物ともつかない筆者からの問いかけに真摯に応じてくださったことには感謝するばかりである。
 特に、遺族の方が肉親の自殺とそれに関する労災申請や訴訟の顛末という語りにくい事柄について詳らかに話してくださったことは、貴重な経験として残る。インタビューの後は、しばらく動けないほどの重さを感じた。トラウマティックな出来事は、その話を聴くだけでもトラウマを残すのだということを身をもって実感した気がする。そして、そのような重さをともなうインタビュー内容 一一 遺族の経験と、その悲しみや困難さ 一一 を、社会学の観点からまとめることについて躊躇や迷いを払拭できなかった。
 というのも、本書はハラスメントや自殺について論じているが、とりたてて訴訟や労働運動への積極的な参加を促すものではない。うつ病やメンタルヘルスについて論じているが、そのよりよい治療法や予防策について考察しているわけでもない。ライフハックやワーク・ライフ・バランスを取り上げているが、新たなハックや時間管理術を考案するわけでもない。そのようなわかりやすい効用を持つわけではない研究が、自殺労働者やその遺族にとって何の役に立つのだろうかという問いに、なかなか答えが出せなかったからである。一方で、研究者としては感情管理論や感情資本論の文脈に自殺というテーマがうまく乗らないような気がしていた。
 だけれども、訴訟や治療や自己啓発とは異なる文脈で現代社会と感情という観点からハラスメントや自殺について考える研究があってもいいのかもしれないとも思うようになった。なぜなら、自殺をした労働者は、生前、何か特殊な人だったわけではないからである。日々忙しく働き、時間管理に右往左往し、上司や同僚や顧客との関係に振り回されつつ、自らの感情管理をそつなくこなしていた、そういう「普通」の、ごくありふれた、いい意味で当たり前の存在だったのではないかと思う。ハラスメントや自殺は、何か「特殊で暗い社会問題」や「特定の人々の問題」ではなく、「普通に」働く人々が「普通に」働く中で生じるできごとであり、私たちの日常と地続きであるはずだ。そのような日常のできごととしてハラスメントや自殺を捉える視点を提示し、コミュニカティブであることを求められる日々の「ありふれたしんどさ」と架橋することが本書の意図の一つである。』(P216〜217)

そのとおりで、本書は「労働における感情の問題」を「描く」ことを目的としており、そのための「分析的解説」はあれども、決して「批評的本質論」や「社会学的批判」といったことは、行われていない。著者の「思想」や「主張」が、前面に出てくることは、絶えてないのである。
だからこそ、特に「過労死」の問題で遺族と向き合った際には、「共感ではなく客体視」という「研究者的な態度」の保持が、いかにもしんどく、後ろめたささえ、著者には感じられたのであろう。

しかし、著者も「あらためて」気づいたように、こういう「研究者的な態度」は、決して「人間として冷たい」ものでも(「無責任」でも)何でもなく、「問題」と対峙する場合には、かならず必要なことなのだ。
喩えて言うなら、戦争をする場合、「敵を冷静に分析した後に、士気を鼓舞して戦う」という手順が重要で、「初手から敵に対して頭に血が上った感情を差し向け、冷静な分析もできないままに敵とぶつかる」というようなものは、戦い方として間違っている、というのと同じなのである。

だから「労働と感情」という本質的な問題を考える上で、その極端に悲惨な事例としての「過労死」問題を扱うにあたっても、やはり「敵憎し」からではなく、その前に、敵の力量を冷静に分析する「研究者的な態度」が是非とも必要であり、それこそが本当の意味での「敵との戦いにおける勝利」へとつながってもいくのである(ここで言う「敵」とは、個々のブラック企業などではなく、そのような「悪」を生む、社会的システムのことである)。

したがって、本書に書かれているのは、「敵への批判攻撃」でもなければ「有効な戦術論」でもない。その意味で「即戦力(特効薬)」的なものではない。けれども、本書は、「労働と感情」という「戦場」に伏在する魔物についての「基礎研究」なのだと考えればいい。「基礎研究」が無ければ、その応用としての「戦術」も立たないのである。

いくつかの独立したレポートを寄せ集めたため、いささかまとまりに欠ける憾みもないではない本書ではあるが、それは「戦場各方面における戦況のレポート」だと考えればいいだろう。私たちは、こうした「多様な戦場における戦況」のなかに、共通する問題の本質を見いだし、それと対峙し、それを打破しなければならない。
そして、そのための「最終判断」は、誰かに教えてもらうのではなく、読者それぞれが、自身の頭を使って、自分の「戦場=現場」で行なうしかないのではないだろうか。

初出:2020年6月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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