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坂崎かおる 『嘘つき姫』 : 女性的な繊細さの二者関係

書評:坂崎かおる『嘘つき姫』(河出書房新社)

先程たまたまテレビニュースを視ていたら、次の「芥川賞・直木賞候補作」(2024年前期)が発表されていた。
そこに「坂崎かおる」という名前を見つけて「見たことのある名前だなあ」と思い、次の瞬間、つい最近に読んだ小説本の著者であることを思い出した。読了したのは一週間前。普通の厚さの短編集なので、すぐに読めた。

つい一週間前に読んだ小説本の作者名を覚えていないとは、「こいつボケたな」とそう思う方もいらっしゃるだろう。それもやむを得ない仕儀ではあるのだけれど、すこし言い訳をさせていただきたい。
なぜ、作者の名前をぼんやりとしか記憶していなかったのか? それは、この作品集が「合わなかった」からである。

「悪い」とか「不出来」だというのではない。作者が、達者な作家であるというのは間違いないのだが、ただ、その女性的に繊細な作風が私には合わず、要は「理解できなかった」から「面白く思えなかった」のである。私には、この作者の長所を感じ取るセンスが無かったのだ。
したがって、これはもう、どうしようもないことだ。いつも言うことだが、私とて「万能ではない」のである。

本書は、著者の初著書となる第1作品集である。したがって、雑誌で小説は読まない主義の私は、著者の名前をまったく知らなかった。
では、どこで知ったのかというと、ときどき立ち読みでチェックしている、『本の雑誌』誌の大森望による「新刊めったくたガイド」(たぶん7月号)で、本書が紹介されていたからだ。
おおよそのところ大森が言うには、注目の作家がついに単行本を刊行したというようなことで、「星5点満点の4・5点」をつけていた。これは、大森が主に担当する「SF小説」における「年間ベストテン級の作品」というくらいの高評価である。
で、私としては、評判の新人作家なら、1冊くらいは確認のために読むということにしているので、書店の雑誌コーナーから、そのまま文芸書のコーナーへと移動して、本書を購入したという次第である。

なお、本書の帯には、下の三人の推薦文が刷られていた。

『この本は、まるで鍵束だ。一つ読むたびに何かが解き放たれ、そして迷宮への扉が開く。
――岸本佐知子氏(翻訳家)

過去未来大小遠近あらゆる世界を鮮やかに的確に語りながら精緻な余白を残し、読者にその余白をこそ玩味させる。手練れの技だと思う。
――小山田浩子氏(作家)

この想像力が世界の有り様を拡張する。少し広くなった世界で、感情が、愛が息づく。
――斜線堂有紀氏(作家)』

大森望も推薦文を書いているのかと思ったのだが、書いてはいなかった。つまり、推薦文は女性ばかりであった。
また、小山田浩子と斜線堂有紀は読んだことがなかったので、あまり参考にはならなかったのだが、現代英米文学の翻訳家である岸本佐知子は、エッセイストとして大好きな作家だったので、この人が薦めているのなら大丈夫だろうと思ったのである。

だが、実際に読んでみると、合わなかった。「上手い」と言うよりも「書ける」人だというのは間違いない。
だが、書かれていることが、残念ながら私には響いてこないのだ。読み終えて「これは、私向きじゃないなあ。もう読まないだろうな、この人は」という感じだったので、強い印象を残すこともなかったのであろう。

しかし、いま思えば、坂崎の小説に感じる理解できない部分というのは、私が岸本佐知子のエッセイを論じた際に指摘した、岸本と私の「タイプの違い」と重なる部分があるように思う。
だがまたそれでも、岸本のエッセイは面白かったのだが…。

今日このレビューを書こうと思ったのは、他の本や映画のレビューとの兼ね合いからで、たまたまのことにすぎない。また、「芥川賞・直木賞候補作」発表のニュースを見たのも、当然たまたまだ。
芥川賞候補作の場合、まだ単行本には収められていない雑誌掲載の作品から採ることが多いので、今回の候補作「海岸通り」というのは、当然、雑誌を読まない私の記憶には無かったのだが、「坂崎かおる」という、ありそうであまり見ない苗字と、ひらがな書きの名前の組み合わせが、多少は記憶に残っていたのである。

そんなわけで、本書については、あまり書くことはない。
ただ、本書を読了した直後に「この本を、世間の人々はどう評価しているのだろうか?」と思って、Amazonのカスタマーレビューを見てみると、その時も現在も、カスタマーレビューは3本で、

一人「よかったです」というタイトルで「面白かった!」の一言だけだったので参考にならなかったが、次の人「Amazon Customer」氏は「少しわからなかった」というタイトルで、

『日頃からこういった作品を読んでいる方たちには理解できるのかも知れませんが、私には合っていなかったかもしれません。』

と書かれていて、「この人は、私と同じタイプだ」と感じられた。

そして残りの一人である「あいだ」氏は「電柱に恋する女は百合ではない」というタイトルで、

『実力はあると認めた上で賛否両論分かれるのはわかる。
作者は恐らく理系、左脳で物語を組み立てる人なんじゃなかろうか。どの話も理知的というか、キャラクターに距離感を感じた。
登場人物の生き様に揺さぶられる、どっぷり感情移入できる、カタルシスが得られるといった趣の小説じゃない。「ここはすべての夜明け前」を直前に読んだから尚更そう感じるのかも。

表題作は百合文芸コンテスト大賞作品。(以下略)』

と書かれていて、こちらも「なるほどなあ」と思わされた。
何が「なるほどなあ」なのかというと、

(1)『作者は恐らく理系、左脳で物語を組み立てる人なんじゃなかろうか。どの話も理知的というか、キャラクターに距離感を感じた。』という「推理」と「実感」の部分。
(2)『表題作は百合文芸コンテスト大賞作品。』ということで、言われて初めて気づいたのだが、本作品集に収めたれた作品の大半は「女性同士の個人的な二者関係」を描いたものであり、いま風に言えば「百合小説」ということになるのだろう、ということだった。

(1)についていうと、私も作中人物に『距離感を感じ』て、彼女たちが何を考えているのか、いまひとつピンと来なかった。
その意味では、「Amazon Customer」氏のおっしゃる『理系』『左脳』『理知的』というのは、「論理的」「分析的」ということではない。つまり、文系的に「腑分け」し「解釈」するのではなく、事実をありのままに「観察」し「記述」するといった雰囲気なのだ。だから「距離」を感じてしまう。

(2)については、「百合小説」として発表された作品ということなら「なるほど」ということであり、このなるほどは、内面にずかずかと踏み込まない「繊細さ」と、そのための「距離感」のようなものなのだな、という納得である。

私の場合、そうしたものとは真逆で、相手の「心」や「頭」の中に興味があるので、そこへずかずかと踏み込んでいって、バッサバッサと切り分けては分類分析するというタイプだから、こういう「繊細」で「一線をひいてしまう」ようなタイプは、どうにも苦手なのだ。私は「ガチンコでいこうぜ」とか「腹を割って話そうぜ」というタイプだから、そんなそぶりを見せただけで、傷ついてしまうようなタイプには、どうにもお手上げなのである。
実際、私がこれまで読んだ小説の作者は、間違いなく9割以上が男性作家で、基本的に女性作家は「合わない」と感じてきたし、今回は、言うなればその典型的なものだったのである。

しかし、内容紹介が本稿の主旨ではないとは言え、これだけでは、どんな作品を収めた作品集なのか、よくわからないだろうから、いちおう、また他人の力を借りて、紹介しておこう。
SF書評家の牧眞司「WEB本の雑誌」で、本書を紹介しているのだが、全文はリンク先に当たってもらうこととして、ここではその一部を引用しておこう。

『【今週はこれを読め! SF編】
 行き場のない余韻、不協和音としての愛~坂崎かおる『嘘つき姫』

 坂崎かおるは2020年から本格的に小説執筆を開始、すぐにいくつものコンテストで結果をあらわした、注目の新鋭だ。本書は初の単行本。ふたつの書き下ろしを含む、全九篇を収録している。はっきりとSFガジェットが登場する作品もあれば、奇想小説と言うべきもの、またファンタスチックな要素のない純文学まで、外形的な傾向はさまざまだが、作品の本質は一貫している。主要登場人物はなんらかの意味でマイノリティであり、誰かと(あるいは何者かと)抜き差しならない関係を結び、しかし、すんなりとは繋がることができず、静かな不協和音を響かせながら物語が進む。
(中略)
 ここに紹介した三篇もそうだが、どの作品もカタルシス的な決着はつかない。読者はどこにも持っていきようのない気持ちを抱えたまま、ページを閉じることになる。』

「三篇」紹介部分は省いたが、どんな作家か、おおよそのところは伝わるだろうし、この人が純文学誌『文学界』に書いた「海岸通り」が芥川賞候補になったというのも、「なるほど」と頷けるはずだ。

現実問題として、私は、この作品集に収められた作品に描かれたような「二者関係」は、「面倒くさい」と考えてしまうし、たぶん、さっさと精算して一人に戻ることに躊躇しない、そんな身も蓋もない「唯物論者」である。
面倒くさい「感情の綾」みたいなものは、ある意味では「脳科学的な現象」であり、それに捉われることは得策ではないと割り切ってしまうから、「葬式も墓も必要ない。人は死ねばゴミになり、やがて忘れ去られるだけ。それで良いのだ。過剰な幻想など、死後にまで持ち越す必要はない」と、そんなふうに考える人間なので、作者の「理系」的倫理とは、また違った「論理」に立っており、そこが「合わない」ということなのであろう。
この人が、最初から芥川賞作家としてデビューしていたら、きっと読むこともなかったと思う。

しかし、あえてつけ加えておけば、本作品集に私が感じたのは、アゴタ・クリストフのかの名作『悪童日記』に近いものだった。
無論、この名作も、私には合わなかったのだが、下手な絶賛より、この説明の方が、作者にも喜ばれるはずだ。

斯様に私は、「合わなかった」と正直に言ってるだけで、本作を微塵も否定しているわけではない。
アゴタ・クリストフが合った方には、むしろオススメである。



(2024年6月13日)

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