山内志朗 『天使の記号学 小さな中世哲学入門』 : 趣味の 〈キリスト教神学〉
書評:山内志朗『新版 天使の記号学 小さな中世哲学入門』(岩波現代文庫)
本書は、現代哲学とキリスト教神学(中世哲学)の交わるところに構築された、ユニークな哲学書である。
喩えて言えば、山内志朗版『黒死館殺人事件』だ。
それは、初期エラリー・クイーン流のゴリゴリの論理的探求(推理)小説でもなければ、ウォルポールの『オトラント城奇譚』のような純粋なゴシック小説でも、ウイリアム・P・ヴラッティの『エクソシスト』のようなオカルト小説でもない。
そうした、一見相反し、両極端に見えるものの魅力を上手に組み合わせることによって、どちらか片方だけでは出せない、非原理主義的(著者の言葉で言えば、反「天使主義」的)な魅力(「新鮮」な知的刺激)を、本書『天使の記号学』は、現代哲学とキリスト教神学を組み合わせることで、多くの読者に提供しているのである。
ただし、本書は、問題点も少なくない。
著者自身の問題点は「(単行本)あとがき」における『献呈の言葉』問題に、端的に表れている。
著者は、極めて正直な人なのだろうと思う。「文庫本のためのあとがき」においても、本書『天使の記号論』が、現代における「純粋主義としての天使主義」への批判的見解と、自身が大好きな中世のキリスト教神学者ドゥンス・スコトゥスの「実在」論を、強引につなげようとした挙げ句、最後まで上手くまとまらず、むやみに晦渋な内容になってしまったという事実を、自ら告白しているくらいだからである。
しかし、正直であれば良いというものではない。
前述の「献呈の言葉」問題報告に読み取れるのは、著者の「正直さ」だけではなく、「他者への想像力の欠如(不足)」と、「正直に書いておけば、それが、批判に対する予防線にもなるだろう」という「読者に対する甘え(あるいは軽視)」もまた、容易に読み取れるのだ。
こうした「(後づけの)予防線(あるいは、アリバイ工作)」は、本書の「終章」においても明らかで、それまでの「近代」批判(軽視)は、いったい何だったのか、と言いたくなるような、安直なセルフフォローが付されていて、いささかげんなりさせられる。
著者の「近代(近世)」観とは、こんな具合だ。
『死体や汚物が人目から遠ざけ』られたり『タブーの領域は幾重にも及ぶ外装によって覆われる』ようになったのは、何も近世だけの取り柄ではない。著者が好意を抱く中世のキリスト教神学自体が、「護教の学として」どれだけそのような「隠蔽」に携わったかは、歴史的にも「常識」の類いだろう(例えば、教会は自らの手で異端者を殺したくないので、世俗の権力に引き渡して処刑させたが、神学はこれを支持こそすれ批判などしなかった)。
しかし、「献呈の言葉」問題にも明らかなとおり、著者の目は「自身を顧みる」能力に乏しいので、著者の一面的な「近代(近世)」批判が、そのまま「キリスト教神学」批判になってしまうという事実に、思いが及ばないのである。
もちろん、著者は「頭の良い」人なので、自身の「猪突猛進」ぶりについて事後的にフォローすることは忘れないのだが、そのフォローこそが、墓穴を掘ることにもなっている。
前述した著者の「近世」観が『「遅れてきた者」の優位さに安住した』者による批判の域を出なかったのと同様、ここでの「ポストモダン批評」観もまた、ありふれた、ポスト「ポストモダン」批評家、つまり『「遅れてきた者」の優位さに安住した』者による「ポストモダン批評」批判でしかないのは明らかだろう。
著者は、自身を『アナクロニズム』と評するが、そんなことはない。
真にアナクロニズムであるためには、著者は「キリスト教の神のための神学=護教神学」を愚直に語るべきであって、現代思想を語るための「珍奇な小道具(ガジェット)」として「中世神学」を持ち出す態度は、「最新であることが売りのポストモダン批評」に食傷した読者の「オリエンタリズム」的ロマンティシズムを当て込んだ、いかにも「遅れてきた者」らしい、極めてポスト「ポストモダン」批評家的な身振りでしかないのだ。
著者はここで、自分は「ポストモダン批評家」ではないし、前の時代を扱き下ろすことで自身の優位を演出するようなセコいことはしていない、とアピールしているわけなのだが、著者の立場が、ポスト「ポストモダン」批評家であるという事実に気づいた者には、著者のこの「自己申告」は、所詮は「(親に献呈しても、前の時代を扱き下ろしても)私だけは別です」という、見え透いた自己正当化にしか見えないのである。
だから、本書が哲学的に見るべきところがあるか否かという問題以前に、私は著者のこうした「誤摩化し」あるいは「無自覚」の問題を、まずは批判せざるを得ない。
この問題を捨象して、本書の文庫解説者のように、本書の読みどころ(としての「言葉の冗長性」の堪能推奨)を語れば、それで事足れりとは思えないのである。
さて、そのような根本的問題点を指摘した上で、本書の内容についても見てみよう。
著者はクリスチャンではないそうなので、本書の狙いとしては、前述のとおり「中世哲学を鏡として、現代の問題を描こう」ということであり、同時に、自身が偏愛する「学問としての中世哲学(キリスト教神学)を、現在の視点から再評価して、その忘れられた美点を救い出そう」ということのようである。
だが、キリスト教神学への著者のこだわりには、判官贔屓かつ偏愛的に過ぎた部分が感じられ、その「文体」も含めて、むしろ、下手な神学者よりも、神学者がかっている点に、私は「引っかかり」を禁じ得ない。
具体的に言えば、
と、ここなどは『スコラ哲学のテキスト』の話ばかりではなく、まさに「本書の(中盤の)テキスト」の特徴そのままではないだろうか。
もちろん、両者には明確な「違い」がある。
スコラ哲学の神学者たちは、この世界の根源たる「神」は「語り得ない(言葉では表現し尽くせない)」と(敬虔に)承知していたのであり、その上で「語り得ないものを語ろうとする」ところに「信仰」の情熱の証があったのであるが、著者の場合は「あとがき」で自身も書いているとおり、精一杯持てる物のすべて注ぎ込み、その力技によって始点と終点を架橋して、きれいな結論に着地したい、出来るのではないか、と願いながら、結局は力及ばず「墜落」したのである。
したがって、両者には、その形式的相似には還元できない本質的「違い」があり、そうした中世神学と現代哲学の「立場の相違」は、ハッキリと区別されるべきなのだ。
しかしまた、そうした「違い」がありながらも、著者の「中世哲学(神学)」への「偏愛」は、嘘偽りのないものなのであろう。
そこで、検討すべきは、著者の姿勢(「立場」ではなく「姿勢」)が「現代哲学」的なものなのか、それとも「中世哲学(神学)」的なものなのか、という点である。
言うまでもなく、特定の宗教宗派に帰依した人だけが「信仰的な人間」だというわけではないのだから、著者の「偏愛=(学術的)客観性の不足」を問題にすることは、決して的外れではないはずである。
つまり、たしかに著者は、キリスト教に帰依しているわけではないのだけれど、キリスト教によって規定された中世哲学(神学)に対し「過剰」にこだわっているようであり、それはそれで一種の「信仰」なのではないかと疑われるのだ。
たしかに中世哲学、なかんづく中世キリスト教神学にも、再評価に値する部分があるだろう。そして、今の学問の陥りがちな難点に、中世哲学の美点を対置して語ることは、わかりやすい構図と、一種の「新しさ」を読者に提供するものとなるかも知らない。
しかし、著者が、現代的な問題点を指摘してその是正をはかるのに、中世哲学(神学)を持ち出さねばならない「必然性」は無いはずだ。
そう。著者も認めているとおり、現代の問題を哲学的に考えようとした場合に、わざわざキリスト教神学を持ち出す必要などないのであるが、比喩としてなら「持ち出してはいけないということもない」ので、一般読者には極めて不親切であっても、著者の「偏愛」のゆえに、そうした珍奇な手法が、ここでは採用されているのである。
もちろん、著者は中世哲学の専門家だから、自身の専門を強調するのは当然のことだという「世俗的な事情」もあろう。だが、愛する中世哲学に貼られた「暗黒の中世」というレッテルを、その偏愛によって意識しすぎるが故に、義憤にかられた著者が「逆張りの危険」をおかしているように、私には感じられてならない。
著者の態度は「我が子可愛さに目の暗んだ、モンスターペアレント」のそれにも似た、過剰なものにしか見えないのだ。
たしかに著者も「キリスト教神学」の限界と問題性を、それなりに理解しているだろうし、むしろそれを「自明の前提」とするからこそ、無視されがちな美点を強調するのかも知れない。
しかし、中世哲学の専門家でもなければキリスト教徒でもない多くの日本人読者にとっては、キリスト教神学の限界や問題点といったことは「自明の前提」などではあり得ない。日本の多くの読者にとって、それらは「珍奇」なものでしかないというのが実際のところなのではないだろうか。
つまり、「暗黒の中世」の暗黒性についても、基本的に馴染みのない現代の日本人読者にむけて、著者のように、中世哲学(キリスト教神学)の美点だけを強調して語る偏愛ぶりというのは、人類に多くをもたらした「近世の光」を不当に貶めるものであり、ある意味でとても危険なことなのではないのかと、そう危惧されるのである。
本書冒頭部で著者が批判するのは、わかりやすく言えば「純粋主義としての天使主義」だが、十分に単純な「癒し」や「スピリチュアリズム」が流行する今日の「天使主義」的日本において(あるいは、正教が権力と結びついて発展する今のロシアや、反動政治の拠点と化した福音主義が幅を利かせるアメリカ等々において)は、著者の「語り方」は、その意に反して、むしろ逆効果なのではないだろうか。
著者は言う。
著者自身は「宗教」や「神学」の「怖さと甘美さ」の両方を知っており、その「深い森」を、時に応じ場合に応じて、ゆっくりと散策したり、駆け抜けたり、することが出来る(選択可能)と信じているのであろう。
しかし、著者による中途半端な道案内(紹介)で、読者が面白半分にその「深い森」へ踏み込んだりすれば、そこが「八幡の藪知らず」にならないという保証はどこにもないのである。
小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』にも似た、著者の中世哲学的な「衒学的趣向の華麗さ」とその「面白さ(知的刺激)」は高く評価したいと思いつつも、『黒死館殺人事件』のように十分にコントロールされてるとは言いがたい、思い入れに発する、その表現的なバランスの悪さに、ひとつの比喩として「宗教的言説」を利用することの危うさを、私は感じる。
『黒死館殺人事件』のように「小説(フィクション)」ならそれでも構わないが、著者は「フィクション」や「与太話」を書いているわけではないのである。
クリスチャンではない著者に「宗教的な意図」があるとは思わないが、そもそも宗教性の危うさとは、たいがい「善意」に発するものなのだから、宗教を「比喩として使うこと」は、宗教の怖さへの配慮を欠いた、その意味で宗教を軽んじた態度だとも言えるのではないだろうか。
著者は、今は「世俗の立場」で、つまり世間に安心感を与える立場で、キリスト教神学を語っているのだけれども、いまわの際に神父を呼んで洗礼を受けて大往生、という一連のステロタイプの一人でなければ、まことに幸いである。
初出:2019年4月22日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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