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思考への反抗期と精神的自立。そして、統合へ。

「精神的自立、大切だよね」みたいなのが裏テーマになっているのがこのアカウントなのですが。

そういえば、精神的自立ってなんですかっていう部分について解像度を上げて書いたことがあんまりなかったような気がするので、今日はそのことについてシェアしていきたいと思います。


まず、ここで定義する精神的自立っていうのは「意地でも人に寄りかかったり甘えたりしない」ということではなくて、

シンプルに「(完璧にはできなかったとしても)自分の機嫌を自分で取る意識で生きる」ということでしかないのですが。


それって要するにどうしたらいいんですかって言ったときに、自分のなかで「思考と感情が共依存関係に陥らずに、それぞれが独立した人格として存在し支え合っている」という状態を実現させていくことだと思ったんです。


いつものごとく男性性と女性性って言葉を使って言い換えると、理想的なのは自分の中の男性性(思考)と女性性(感情)がどろどろに絡み合って癒着している泥沼パートナーシップの状態になっているのではなく、それぞれがしっかり独立して相互に支え合おうとしている状態。

男性性と女性性の概念を発明した人、誰かわからないけどまじで天才だとおもう。


基本的には「思考は思考として」「感情は感情として」それぞれ独立していて、自分の中に別々の人格が存在しているような状態。

ここを言語化することって最近ほとんどなかったかもなあって思って。


自分を幸せにしてあげたいって思ったときに、思考と感情を別々のものだと腑に落とした上で自分に寄り添っていこうとすることって、実はとても大事なんですよね。


これは以前サブスク版のコラムでも書いたことなのですが

私たちはこれまで集団生活を送る上で「感情をコントロールしなきゃいけない」ということを学習してきたと思います。

でも、ここで(感情や欲をコントロールしようと頑張ってきた方々には)悲報なのですが、私たちが本当にコントロール下に置かなければいけなかったのって、実は感情ではなく思考のほう

「感情をコントロールしよう」という思想って長期的に見たら悲劇のもとでしかなくて、本当に制御しなければいけないのは「自分に厳しい思考のほう」。だったんですね〜。


こんなこと誰も教えてくれなかったけど、これを知らずに過ごしていたら、いくら頑張ったって自己肯定感なんて取り戻せないし、どれだけ頑張ったって本当の意味で自分を好きになれることなんてないと思う。

コントロールしなきゃいけない対象を間違えて教えられているから、私たちは自分という命を平気で嫌いになれるし、自分のこと平気で傷付けたり虐めたりすることができる。


あの、、、

生物にとってこんな怖いことってないのよね。



以前、「『決断の性』を生きる。」という記事を書きました。

この記事の中で私は、

私たち一人一人の人間の中には性別を問わず女性性(本音・本能/潜在意識)男性性(思考/顕在意識)、そのどちらともがあって、

女性性≒潜在意識は「解放するもの」、男性性≒顕在意識は「育てるもの」だと私は思っています。(そうすることで生きやすく、また幸福を受け取りやすくなっていくという意味です)

と、「思考は育てるものである」ということを書いたのですが。

ある程度大人になってからの思考の再教育って本当に侮っちゃいけないなと思っていて。


思考って野放しにしていたら、他人の意見や常識などを吸収しながら(特に私のような自責思考型のHSPさんだったり内向型さんとかは)どんどん自分を責める方向・自分に厳しい方向に暴れていくんですよね。

さながらモラハラパートナーのように。


これにはちゃんとストップをかけなきゃいけないよって思うんです。

思考、野放し、ダメ、ぜったい。


自分に厳しい思考が出てきたら、そこにはちゃんと自分の中でNOを突きつけなきゃいけない。

ちゃんと「いじわるしないで」って、言えなきゃいけない。「不快なのでやめて下さい」って。

だって思考って他人だから。

これまで集めてきた、他人の価値観のコレクションでしかないんだから。


「大人なんだから感情をコントロールしなきゃ」って丸め込まれてる場合じゃないのよね。

自分をいじめる思考のこと、マトモに相手しちゃいけないんだよ。

ちゃんと守ってあげなきゃかわいそう。


でも、自分で自分を責め立てたり卑下したりして、いや〜あな気持ちになることが日常的に当たり前になっていると、そこに気づけなくなっちゃう。

「自分に厳しい思考に厳しくなる」という概念がなくなっちゃうんですよね。

モラハラパートナーやDVパートナーから逃げられなくなるのと同じで、自分への暴力が「(心底嫌ではあるけど)当たり前のこと、仕方のないもの」になっちゃう。


この状態って、とてもじゃないけど「生きやすい」とは言えないですよね。

自分を大切にしている、とも言い難い。


「私に厳しい私から逃げられない」って自分自身から思われてる状態のときって、ほんとにほんとにつらいもの。

そしてそれは、何よりもかなしいこと。



でもここで朗報なのですが、思考(男性性)とは、鍛錬によっていかようにも再教育することが出来るのです。

「男性性とは育てるもの」だから。

この思考(男性性)の再教育こそが、幸せへの最短ルートであり自分を大切にする唯一の道なのではないかなと、私は思うのです。


やっぱり葛藤してるときって出口が見えなくて辛いけど、こういう葛藤の積み重ねこそが、精神的自立(思考と感情の独立)の強固な土台になっていくのだよね。

こういう『自分に厳しい思考への反抗期』って、これまで他人軸・常識軸で生きてきた人ほど意味のある「自分との仲直り」の時間だなあって思います。


そして、この一連の自分の中の葛藤や戦いごとまるっと受け止め愛そうとすることを、私たちは『自己受容』と呼ぶのでしょう。


思考は私本体ではないし、感情もまた私の全てではありません。

思考に自分を支配させるのでなく、感情だけを私自身だと思うのでもなく、それぞれが相互に影響し合っての “わたし” という世界なのだということを、まるで幽体離脱するかのように少し離れて見ることができる。

この第三の視点を持ち、自分の中のパートナーシップというものを乗りこなしたその先に、素直な心で軽やかに「生きるを楽しむ」ことのできる自分自身との再会が待っているのでしょう。


思考には忍耐と鍛錬を。
感情には寄り添いと抱擁を。

本日もご清聴誠にありがとうございました。

それではまた。


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お知らせです🌸🌸

以前書いたこちらの記事↓に関して

数名のかたから個別に「もしかして私のことでしょうか…(´・ω・`)」というお問い合わせをいただきました。

びっくりさせちゃったかたにはごめんなさい。


「もしかして私のことかな…」なんて、心を傾けてくださるような優しいあなた様のことを書いたのではありませんので、どうぞ安心してこれからもお付き合いいただければ嬉しいです。

このアカウントをフォローしてくださっていたり❤を押してくださったり、コメントをお寄せくださったり、サポートを贈ってくださったり記事を購入してくださったり、サブスク版に登録してくださっている画面の前のあなたのことでは絶対にありませんので、どうか皆さまお気になさいませんように。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。



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