「愛した」と思いたい、「愛された」と思いたい
一個の人間として尊重されず、
親の所有物として育つ人がいます。
親に子供を所有している自覚は無く、むしろ自分を愛情深い、と自認していることが多いのです。
子供は生まれた時から所有される親子関係しか知りませんので、親がこの親子関係が愛だ、と言えば、信じ込みます。
虐待は、する親も、される子供にも自覚が無く、
むしろ、愛情溢れる暖かい家庭、だと思っている事が大半です。
特に、肉体的な虐待は無く、心理的にじわじわと締め上げる様な虐待の場合は、
子供が将来的に、幼少期の虐待を原因とする生きづらさ、を抱えてしまい、
その生きづらさに気がついて、手放そう、と決意し、原因を辿る時、
最初にして最大の難所が、
親子関係に根本の原因がある、と認めること、
もっと言うなら、その親子関係に本当の意味での愛は無かった、と認めること、だと思っています。
その人は今、苦しんでいます。
その苦しさが、生きづらさ、なんだと気がつきました。
誰が教えてくれる訳でも無く、その人は自分で気がつきました。
気がついたそれだけで、既に尊いと私は思うのです。
親は自分を愛情深い、と思い込み、幼い日、その人の白く柔らかな心に、これが愛だ、この家庭は暖かだ、と刻み込みます。
気がつかなくても当然なのです。
それでも、その人は気がついたのですから、その気づきは既に尊い、と言えます。
虐待の根っこは、意識と無意識の狭間とも言える意識の一番奥底に潜り込んでいて、探り当てることは簡単ではありません。
意識と無意識の狭間とは、
親が自分を愛情深い、と思っているのは、意識、です。
その一番奥底では、自分が抱える無価値感から目を逸らす為に、子供を利用していることを知っています。
自分がズルいこと、
自分の卑劣さ、を知っているのです。
しかし、それは意識のテーブルには載りません。
奥の奥の深いところに押し込めて、子供を所有します。
子供も、親に利用され、所有されていることは、意識の一番深いところに隠しています。
そして、意識のテーブルには、愛されている、という認識が載っています。
利用する親が、自分自身と子供の両方に真実を隠すのは、
自分は無価値感など感じていないことにするため、つまり、自分の為に、真実を誤魔化して、子供を利用し、所有しているのですから、
動機としては分かり易いのではないか、と思います。
では、親が無価値感を感じないための道具にされる子供は、どうして真実を意識の底に隠さなければならないのでしょうか。
子供は、母親のお腹の中で10ヶ月、生まれた落ちて、自分の足で立ち上がるまで、また10ヶ月、
尊い光りを放つ存在ではあるけれども、徹底的に無力な存在でもあります。
その無力な存在に与えられた能力は、親を慕う力、です。
無力であるが故に、親を慕って、慕って、慕い尽くす様に出来ています。
幼い子供は慕って、守られて、生きる仕組みになっています。
その慕い尽くし、守られる筈の季節に、利用され、所有されることは、あまりにも耐え難いことです。
無条件に受け容れられて然るべき、この時期に、親の感情を無条件に受け容れる立ち場に立たされ、その子は否定され、拒絶され、傷だらけになります。
親は、それを愛だ、と言います。
慕って、慕い尽くすその子は、親が愛と言えば、これが愛なんだ、と信じます。
ただ、愛なのに、苦しいのです。
愛なのに、心が痛むのです。
苦しくて、疑います。
痛むから、疑います。
その子は、信じながら、疑い、心が二つに裂けてしまいそうになります。
だから疑い、は意識の一番深いところに投げ捨てます。
だから、その子は、成長しても、自分は愛されて育った、と意識します。
けれども、意識の一番深い場所には、疑いや、苦しさや、痛みが転がっています。
もはや成長して、無力ではない大人になっても、
意識の奥底にあるものを見るのは、恐ろしいのです。
だから、愛された、と信じます。
しかし、本当は知っています。
心理的虐待のある親子関係は、述べた様に、親も子も、そこに愛がある、と信じ込むことで成り立っています。
でも、心の奥では、それが嘘である事も知っているのです。
機能不全家庭は嘘の上にそびえる砂上の楼閣です。
崩す訳にはいかないのです。
生きづらさを手放す時、真実を見つめることが、どうしても必要です。
砂上の楼閣は、砂上の楼閣であると、真実を腑に落とすことが必要です。
気づくこと、腑に落とすことには、
痛みが伴ないます。
しかし、気づいた人は既に尊い、と言えます。
その人ならば、容易に耐えられる痛みです。
その人ならば、その難所は越えて行けます。
超えたなら光りは、
すぐそこにあります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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