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黒船の軍楽隊 その12

オランダの黒船にかかわる図録は他にもいくつか見ることができます。


ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2)


新板画阿蘭陀人舩中之圖

川原 盧谷かわはら ろこく(1)の「新板画阿蘭陀人舩中之圖しんおらんだじんせんちゅうのず」は、描かれた年が不明ですが、6人の楽器奏者(図1)が「蘭人コープス一行立山役所訪問図」(図2)で描かれた軍楽隊員と同様の制服に見えます。したがって、ここに描かれているのは、1844年に来航した軍艦パレンバン号の甲板の様子だと思われます。

(図1)
(図1-2)
蘭人コープス一行(図2) 

(図1)には2人の金管楽器奏者が描かれていて、「クロマチックバスホルン(図3)」と「コーノピアン(図4)」ではないかと推測します。

クロマチック・バスホーン (図3)
コーノピアン (図4)

紅毛人巡見之圖

 オランダは、江戸幕府に猟犬、ペルシャ馬、鳥、ラクダ、さらには象など、さまざまな動物も贈り物として届けました。 これらの動物はペットになったり、見せ物として利用されたりしました。

 オランダ海洋博物館 所蔵の1840年制作・作者不明の「紅毛人巡見之圖」には、ホルンと小太鼓が描かれています。

紅毛人巡見之圖」(図5)

阿蘭陀人巡見之圖

 作者・作成年不明の「阿蘭陀人巡見之圖」には、ホルン、オーボエ(?)、ヴァイオリンそして太鼓が描かれています。オランダ海洋博物館 所蔵の「紅毛人巡見之圖」と同じ構図に見えます。

阿蘭陀人巡見之圖 (図6)

阿蘭陀入舩圖

 大畠豊次右衛門出版の「阿蘭陀入舩圖」に描かれた黒船の船尾には管楽器を演奏していると思われる人物が描かれています。

「阿蘭陀入船図」 (図7)
(図7-1)

和蘭官軍之服色及軍装略図

ヤン・フレデリック・セウプケン(Jan Frederik Teupken1795-1831)のオランダ王国軍解説(Beschrijving hoedanig de Koninklijke Nederlandsche troepen)の図版を山脇正民(2)が翻訳し、村上文成(3)が図を縮小して講武塾(4)が刊行(1856年安政5)した「和蘭官軍之服色及軍装略図オランダかんぐんのふくしょくおよびぐんそうりゃくず」には、管楽器奏者が描かれています。

和蘭官軍之服色及軍装略図 (図8)
図の説明(図8-1)
ミユシカント 楽手 楽人 (図8-2)

 この金管楽器はオーバー・ザ・ショルダー・トロンボーンとでも言うのでしょうか。

 (図8-3)

 原著には、正装の国民歩兵音楽家(Muzijkant, in groote tenue, der Nationale Infanterie)とあり楽器名に言及していません。

タムブウル、マヨオル 鼓手長 太鼓役之頭 (図8-4) 

 バンドメジャーです。

(図8-5)

原著には、国民歩兵の正装した太鼓少佐(Tamboer-majoor, in groote tenue, der Nationale Infanterie )とあります。

タムブウル、ベイベル、エン、ホヲルンブラアセル 
鼓吹角三号兵士 太鼓役 笛役 角役 (図8-6)
(図8-7)

原著には、国民歩兵の鼓手、笛吹き、喇叭手 (Tamboer, Pijper en Hoornblazer, der Nationale Infanterie)とあります。

余談ですけど

ランドセル

 図版中でオランダ兵が背負っている背嚢はいのうRanselランセル)が明治期の日本の学校に取り入れられ、ランドセルとなったと言われています。

 ランドセルはオランダ語(ransel)が語源で,背負いカバンのことです。今ならリュックサックやディバックのようなもの、ということのようです。

 江戸時代末に西洋式の軍隊制度が導入された時に、背中に背負う布製のかばん「背嚢はいのう」も同時に輸入され、軍隊で使われはじめました。

 さて,1877年(明治10)10月に開校した皇族・華族の子弟教育のための学校である学習院は、1885年(明治18)になって生徒が馬車や人力車で通学することを禁止し、背嚢に学用品類をいれて通学させることにしました。

 1887年(明治20年)になって,布製のリュックサック形態の学用品入れから,現在使われている箱形ランドセルに変わるきっかけとなる出来事があったとされています。それは、内閣総理大臣「伊藤博文」が後の大正天皇が学習院に入学するのを祝って,特注で作らせたものが箱形のランドセルの始まりだというのです。(こういう話は,ずいぶんそれらしく語られるのですが,おそらく後の人がそれらしい人物を当てはめて創りだした,ありがたくももったいない「広告のための話」である可能性もあります。) 

 もっとも,学習院からランドセルが広まっていったというのは,事実のようですが,全国的にランドセルでの通学があたりまえのように見られるようになったのは,昭和30年代(1955~)以降だということのようです。


備考

(1)川原 盧谷(かわはら ろこく ?-1870)は、江戸時代末期の浮世絵師、版元。
(2)山脇正民(やまわきまさたみ)郡上藩士とあるが詳細不明
(3) 村上文成(むらかみ ふみなり)  詳細不明
(4) 江戸時代末期の幕臣・軍学者・兵学者である山脇 治右衛門やまわき じうえもん(正準)(1809-1871)が開設した塾。


(図1,1-2) 盧谷『新板画阿蘭陀人舩中之圖』,仙寿軒. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-03-29)
(図2)「蘭人コープス一行立山役所訪問図」より軍楽隊奏者部分拡大 
(図3) ヨハン・ハインリヒ・ゴットリープ・シュトライトヴォルフ(Johann Heinrich Gottlieb Streitwolf 1779年- 1837)制作
(図4) ) メルキオール・ゴマール・デ・フリース(Melchior Gomar de Vries (Belgian, active Lierre 1838 until late 19th century)制作のアルトまたはテノール・コーノピアン
(図5) 「紅毛人巡見之圖
(図6) 「阿蘭陀人巡見之圖
(図7)「阿蘭陀入舩圖
(図7-1) 楽器奏者拡大図
(図8- 1~7) 和蘭官軍之服色及軍装略図 より


他の黒船の軍楽隊シリーズ

黒船の軍楽隊 その0ゼロ 黒船の軍楽隊から薩摩バンドへ 

黒船の軍楽隊 その1 黒船とペリー来航
黒船の軍楽隊 その2 琉球王国訪問が先
黒船の軍楽隊 その3 半年前倒しで来航
黒船の軍楽隊 その4 歓迎夕食会の開催
黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
黒船の軍楽隊 その6 下田上陸
黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
黒船の軍楽隊 その8  黒船絵巻 - 1
黒船の軍楽隊 その9  黒船絵巻 - 2
黒船の軍楽隊 その10 黒船絵巻 - 3
黒船の軍楽隊 その11 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀) 
黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2) 
黒船の軍楽隊 その13 ペリー以外の記録 – 3 (魯西亜) 
黒船の軍楽隊 その14 ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜の2) 
黒船の軍楽隊 その15 ペリー以外の記録 – 5 (魯西亜の3) 
黒船の軍楽隊 その16  ペリー以外の記録 – 6 (魯西亜の4)
黒船の軍楽隊      番外編 1 ロシアンホルンオーケストラ
黒船の軍楽隊      番外編 2 ヘ ン デ ル の 葬 送 行 進 曲
黒船の軍楽隊 その17  ペリー以外の記録  -7 (英吉利)
黒船の軍楽隊 その18  ペリー以外の記録  -8 (仏蘭西)
黒船の軍楽隊     番外編 3 ドラムスティック
黒船の軍楽隊 その19 黒船絵巻 - 4 夷人調練等之図


ファーイーストの記事

「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
 この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。

 是非、お読みください。

「ザ・ファー・イースト」を読む その1   鐘楼そして薩摩バンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2  鐘楼 (しょうろう)
「ザ・ファー・イースト」を読む その2   薩摩バンドの初演奏
「ザ・ファー・イースト」を読む その3   山手公園の野外ステージ
「ザ・ファー・イースト」を読む その4   ファイフとその価格
「ザ・ファー・イースト」を読む その5   和暦と西暦、演奏曲
「ザ・ファー・イースト」を読む その6   バンドスタンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その7   バンドスタンド2 、横浜地図

SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生

writer HIRAIDE HISASHI

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