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黒船の軍楽隊 その3

 1953年のペリー退去後10日に将軍家慶が死去したことや異国排斥を唱える攘夷論が高まる等、日本国内情勢が混乱していることを知ったことが要因なのか、ペリー艦隊は通告していた日程を早めて再び浦賀に来航しました。


半年前倒しで来航

 1853年7月17日(嘉永6年6月12日)に横浜小芝沖から琉球経由で香港に向かったペリーは、江戸幕府に示した1年後という回答期限を待たずに、およそ半年後の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に浦賀に再来航しました。それも、前年の4隻を大幅に越える9隻(最終到着艦3月19日)の大艦隊での訪問となりました。

応接所完成までの日程

2月

 7日(嘉永4年1月14日)ペリーは琉球那覇港から浦賀に向け出港
 13日(嘉永7年1月16日)浦賀沖に到着し交渉場所の折衝を日本側と開始
 27日(嘉永7年1月30日)日本側が当初設定していた浦賀の館浦からアメリカの要求で交渉の場を横浜に決定

3月

  6日(嘉永7年2月 8日)横浜応接所が完成

横浜上陸3月8日(嘉永七年2月10日)

 最初の交渉のためにベリー提督ら総勢446人が横浜に上陸する様子がヴィルヘルム・ハイネ作の石版画に上描かれています。「日本の横浜で交渉委員らに会うため 1854年3月8日」と印字されています。

ペリー提督、将校および兵士の上陸 (図1)

 なお、この絵には残念ながら軍楽隊の姿はありませんが、「ペリー提督は3つのバンドが演奏する「星条旗(1)(図2)」に合わせて海兵隊の隊列の中を歩いて出発した。(2)」とのことです。また、当時のアメリカ海兵隊の上陸に際して演奏された「ヤンキー・ドゥードル (3) (図3)」も聞こえてきていたと思われます。

ヤンキー・ドゥードルと星条旗

星条旗 (図2)
ヤンキー・ドゥードル (図3)
(図3-2)

海兵隊員の埋葬式 3月9日(嘉永7年2月11日)

 3月8日に始まったペリーと日本側使節との条約締結交渉の冒頭、3 月6日に亡くなった海兵隊水兵を横浜に埋葬することが要望され、それまでの長崎に埋葬するという慣例に反し、停泊中の艦隊を望む横浜増徳院に埋葬することになりました。その埋葬式に向かう途中、海兵隊の鼓笛隊がヘンデルのオラトリオ「サウル」の「葬送行進曲」を演奏しました。
 これが横浜外国人墓地の始まりです。

米艦水兵の葬式図

米国使節彼里提督来朝図絵より米艦水兵の葬式(図4)
笛と太鼓(図4-2)

【脚注】


(1)「星条旗」は「天国のアナクレオン(To Anacreon in Heaven)」が元曲です。このメロディーはイギリスのジョン・スタッフォード・スミスが1760年代に作曲した酒場での歌としていくつかの歌詞で広く英米で歌われていました。そのメロディーに1814年になり現在のアメリカ合衆国国歌として知られる歌詞がつけられたとされています。その後、特に南北戦争時(1861-1865)に人気となり1890年頃までには軍隊の儀式で演奏されるようになりました。時代を経て、1931年に様々な国歌候補の中から正式なアメリカ合衆国国歌として採用されました。
(2) Commodore Perry’s Japan Expedition Press and Shipboard Theatreより
https://www.americanantiquarian.org/proceedings/44497932.pdf
(3) 日本では「アルプス一万尺」の曲名で知られる


(図1) ペリー提督の横浜上陸の様子を描いたW.ハイネの手彩色石版画
(図2)  1853年出版「Dodworth's Brass Band School」(H. B. Dodworth & Co., New York)36-37ページ
Allen Dodworth編曲「Star-Spangled Banner」
(図3)  1866年出版Military Band Music」(John F. Stratton, New York) John F. Stratton編曲
(図3-2) 図3のスコア
(図4) 増徳院(高野山真言宗)の前の葬列を見学する住民も、右上奥には墓穴を掘る様子も描かれている。
(図4-2) 笛、太鼓の奏者が1名ずつで「葬送行進曲」を演奏


他の黒船の軍楽隊シリーズ

黒船の軍楽隊 その0ゼロ 黒船の軍楽隊から薩摩バンドへ 

黒船の軍楽隊 その1 黒船とペリー来航
黒船の軍楽隊 その2 琉球王国訪問が先
黒船の軍楽隊 その3 半年前倒しで来航
黒船の軍楽隊 その4 歓迎夕食会の開催
黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
黒船の軍楽隊 その6 下田上陸
黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
黒船の軍楽隊 その8  黒船絵巻 - 1
黒船の軍楽隊 その9  黒船絵巻 - 2
黒船の軍楽隊 その10 黒船絵巻 - 3
黒船の軍楽隊 その11 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀) 
黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2) 
黒船の軍楽隊 その13 ペリー以外の記録 – 3 (魯西亜) 
黒船の軍楽隊 その14 ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜の2) 
黒船の軍楽隊 その15 ペリー以外の記録 – 5 (魯西亜の3) 
黒船の軍楽隊 その16  ペリー以外の記録 – 6 (魯西亜の4)
黒船の軍楽隊      番外編 1 ロシアンホルンオーケストラ
黒船の軍楽隊      番外編 2 ヘ ン デ ル の 葬 送 行 進 曲
黒船の軍楽隊 その17  ペリー以外の記録  -7 (英吉利)
黒船の軍楽隊 その18  ペリー以外の記録  -8 (仏蘭西)
黒船の軍楽隊     番外編 3 ドラムスティック
黒船の軍楽隊 その19 黒船絵巻 - 4 夷人調練等之図


ファーイーストの記事

「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
 この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。

 是非、お読みください。

「ザ・ファー・イースト」を読む その1   鐘楼そして薩摩バンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2  鐘楼 (しょうろう)
「ザ・ファー・イースト」を読む その2   薩摩バンドの初演奏
「ザ・ファー・イースト」を読む その3   山手公園の野外ステージ
「ザ・ファー・イースト」を読む その4   ファイフとその価格
「ザ・ファー・イースト」を読む その5   和暦と西暦、演奏曲
「ザ・ファー・イースト」を読む その6   バンドスタンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その7   バンドスタンド2 、横浜地図

SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生


writer HIRAIDE HISASHI

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