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黒船の軍楽隊 その9

 ペリーは、音楽会や夕食会を開催したり軍事訓練を実施したりして、アメリカ合衆国の優位性を示す機会を意図的に演出したようです。


黒船絵巻 – 2 

 大英博物館所蔵「ペリー絵巻」には「應接場調練乃図」(図1)が描かれています。絵巻に描かれた順番などから、この調練が行われたのは1854年3月から4月の期間に横浜で行われたのではないかと考えられます。

應接場調練乃図

應接場調練乃図(図1)

 しかし、S.W.ウィリアムズの「ペリーの日本遠征」にはこの期間の軍事演習に関すると思われる明確な記述はみつかりません。条約締結に向けた交渉は3月8日に始まり、3月31日に日米和親条約の成立まで、ほぼ毎日行われました。そこで、この図のような訓練がペリーらが交渉に当たっている間に行われたのではないかと考えられます。なお、「ペリーの日本遠征」にはその交渉の様子やその他の出来事、そしてアメリカからの贈り物等に関して日記形式で記述されていて、その中に音楽に関わる記述がいくつかあります。

3月8日 (ペリーが最初に交渉に臨む日)「ペリーが12時過ぎに横浜に上陸すると楽隊の演奏が始まった。」
「ペリーらが応接場の中にいる間、外にいた日本人の群衆(700人)は、音楽を楽しんだ。」

3月9日「2000人以上の見物者の中で葬儀は行われた。」(ヘンデルの葬送行進曲が演奏された)

3月17日「提督は今日の午前1時に船を出航し、音楽と海兵隊員に迎えられながら上陸した。」
*この日には調練が実施されたことが「亜墨利加人調練図」により判明

3月27日「5時半から200人の日本人がミンストラルショーで歌と踊りを楽しんだ。」

4月4日「サラトガ号(締結した条約を携えてアメリカ合衆国に向けて)が通過するときに「ミシシッピ号」のバンドが「ホーム・スイート・ホーム」を演奏した。」

(図1-2)
(図1-3)

 左隅下に描かれたバンド(図2)には、ファイフ1・クラリネット1・金管楽器6 ・小太鼓2の10人が描かれています。右隅上のバンドは、ファイフ1 ・クラリネット1・金管楽器4・シンバル1・小太鼓2・不明1の10人、右左合わせて20人のバンドが描かれています。描かれた金管楽器が何かは明確ではありませんが、オーバー・ザ・ショルダー・サクソルン、サクソルン、トロンボーンのようにも見えます。

米国使節彼理提督来朝図絵

 昭和6年発行の樋畑翁輔 遺稿「米国使節彼理提督来朝図絵」の「上陸兵の操練と樂器の寫生」図は、大英博物館所蔵「應接場調練乃図」と全く同じに見える構図です。なお、この図には楽器が描かれています。

上陸兵の操練と樂器の寫生(図2)
(図2-1)
(図2-2)

アンS.K.ブラウン軍事コレクション

 ブラウン大学図書館のアンS.K.ブラウン軍事コレクション(Anne S.K. Brown Military Collection)に「應接場調練乃図」と同場面を描いた可能性があるとも考えられる絵巻があります。
 左に見える建物が応接場ではないかと思われますし、張り巡らされた幕の図柄が応接場に張り巡らせられたものと同様と思われます。

アンS.K.ブラウン軍事コレクション絵巻(図3)
(図3-1)
(図3-2)

 大太鼓と小太鼓が書き分けられています。シンバル、ファイフが2台、サクソルン、ベンチルホルン(図4)かと思われる楽器が描かれています。

ベンチルホルン(Ventil Horn) (図4)
描かれている大太鼓は、おそらくこれです。
黒船来航画巻 「横浜に上陸するペリー一行と応接所」

亜墨利加人調練図

 人物などは描かれていませんが、調練の配置などが記された図が長野県長野市松代町の真田宝物館に所蔵されています。この図表には日にちが記載されていて、この調練が1854年3月17日(嘉永 7 年2 月 19 日)に実施されたことがわかります。

「亜墨利加人調練図」 (図5)

交渉が行われた関係する場所

 1854年のペリー再訪では、前年の最初の上陸地点(久里浜)から、さらに江戸湾に入り込む猿島付近に当初停泊していました。日本側は前年に親書を受け取った浦賀での交渉を望みましたが、ベリーが要求した江戸湾に深く入った横浜での交渉が行われることになりました。

(図6)

 


脚注

(図1) 大英博物館所蔵「ペリー絵巻
(図2)米国使節彼理提督来朝図絵 著者 樋畑翁輔 遺稿, 樋畑雪湖 編 出版者 吉田一郎 出版年月日 昭和6
(図3)ブラウン大学図書館のアンS.K.ブラウン軍事コレクションより
(図4) ベンチルホルン
(図5)真田宝物館所蔵
(図5)江戸湾ペリー関連地図


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ファーイーストの記事

「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
 この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。

 是非、お読みください。

「ザ・ファー・イースト」を読む その1   鐘楼そして薩摩バンド
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「ザ・ファー・イースト」を読む その5   和暦と西暦、演奏曲
「ザ・ファー・イースト」を読む その6   バンドスタンド
「ザ・ファー・イースト」を読む その7   バンドスタンド2 、横浜地図

SATSUMA’S BAND 薩摩藩軍楽伝習生

writer HIRAIDE HISASHI

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